なんとなくエモい話
「もし明日死ぬとしたら、どうする?」
マドラーでクリームソーダをかき混ぜていたミサキが、突然手を止めてそんなことを言った。
横目で彼女の顔を見るが普段通りの表情で、その発言の真意を読み取ることはできない。
僕の向かいに座ってアイスコーヒーを飲んでいたユリも困惑したようで、「ど、どうしたの? ミサキちゃん」とつぶやいた。
「ほら私たちって、まだピチピチの女子高生だろ?」
「僕は男子だけどね」
「でも青春がいつまでも続くわけじゃない。若いからって油断していたら、あっという間に大人になってしまうと思うわけさ」
僕の言葉は無視してミサキは話を続ける。
「つまり、私たちはもっと『危機感』を持って生きたほうが良いってわけ」
「ききかん……?」
ユリが首をかしげる。僕は周囲を見渡す。ランチタイムを過ぎた喫茶店には僕たち以外の客はおらず、静かで心地良い。クーラーがよく効いていて次第に汗が引いてきたが、外へ一歩出れば三十度超えの真夏日だ。
「今は危機感なんて感じずに、ここでゆっくりして、乾いた喉を潤すのが良いと思うが」
「いや、俺にはミサキが言ってることが理解できるぜ」
キッチンから出てきたコウタは手にトレイを持っていた。その上に乗ったケーキを、手際よく僕たちの前の机の上に並べていく。
「ありがとう、コウタくん」
ユリがコウタに笑いかけるとコウタも微笑み返し、そのまま彼女の隣に腰かけた。僕はコウタに尋ねる。
「おい良いのか? まだ仕事中だろ?」
「いいのいいの。どうせ客なんて来ないし、親父だってサボって新聞読んでるし」
コウタはそう言うが、コウタのお父さんの姿はここからは見えない。
「でさ、さっきのミサキの話はつまり『もうすぐ夏休みだけどどこ行く?』って話だろ?」
「確かに。夏休みってすぐ終わっちゃうもんね」
コウタの解説に合点がいったようで、「なるほど」と手を合わせるユリ。
「いや、私は夏休みの話ではなく、人生とか青春とか、そういう話をだな……」
当のミサキ本人は不服な様子で説明を続けるが、どうも会話がかみ合わない。もっとも、赤点常連のコウタが成績トップのミサキの話を理解できないなんて、今に始まったことではないけれど。
「おい、お前今すごく失礼なこと考えなかったか?」
しまった、バレたか。
「よし、ではこう言い換えよう。みんなは、死ぬまでにやりたいことはある?」
途端に口を閉ざす一同。その話題、さっきより重くないか?
ユリとコウタはしばらく黙って考えていたが、やがてほぼ同時に口を開いた。
「急に言われても……」
「思いつかねぇよ」
その言葉を聞いたミサキは「それがつまり『危機感がない』ってことなんだよ」とまとめた。
しかしその問いについて、僕は一つ思いついたことがある。僕が死ぬまでにやりたいこと。というか、いつもやりたいと思っていること。ミサキの言う「危機感」を少しばかり感じていること。
三人に聞こえるか聞こえないか微妙な声量で、ぽつりとつぶやいた。
「こういう会話を小説に書きたい」
三人の視線が僕に集まるのを感じた途端、顔が熱くなるのを感じた。引いていた汗がまた吹き出しそうだ。
「すごい! さすが小説家!」
ユリの誉め言葉を慌てて訂正する
「やめろ! 書いては落選してるだけだ。まだ小説家じゃない!」
顔を合わせるのが恥ずかしくなって窓の外に目を移した。通りには誰も歩いていない。
「そう謙遜するな。私は君の小説好きだぞ」
「うるせぇ!」
ミサキの冷やかしを一蹴する。
「よし決めた!」
コウタが勢いよく椅子から立ち上がる。三人の視線が今度はコウタに集まる。
「俺はイラストレーターになる。そんで、お前の小説の挿絵を描く!」
「は?」
「え?」
「すごい!」
呆れと疑問の声を漏らすミサキと僕。それに対しユリはキラキラとした尊敬の眼差しをコウタへと向ける。
「コウタ、絵なんて描いたことあったか?」
僕の疑問にコウタは胸を張って答える。
「当然ない! だからこれから勉強する。危機感ってやつを持ってな」
言っていることはメチャクチャだが、その言葉には力強さを感じた。呆れとか疑問とかを通り越して、僕の口は自然と笑みをこぼしていた。
「じゃあ、僕が本を出すときはコウタに挿絵を頼むよ」
「ふふっ、そうだな。なんかコウタなら出来そうな気がしてきた」
隣を見ると、いつの間にかミサキも僕と同じように笑っていた。
「ねぇ、ミサキちゃん」
ユリが口を開く。いつものぼんやりとした表情と比べて、ほんの少しだけ真剣な表情だ。
「私、ミサキちゃんみたいに頭良くないから、将来のこととかよくわからないけど、でも、またこの四人で、こんな風に話したり遊んだりしたいなって思うよ」
そう言うと、ユリは真剣な表情を崩して笑った。
「それが私のやりたいこと、かな」
「……よし」
僕たちの話を聞いてミサキは満足したようだ。ひとつ頷くと、カバンからノートを取り出して机の上に広げた。何も書かれていない、真っ白なページだ。
「では、夏休みにどこに遊びに行くか決めようか」
窓から差し込む夕日が店内をオレンジ色に染める。机の上のノートには文字が数行書き込まれ、皆のグラスは空になっている。
「そろそろ店閉める時間だなー」
そう言ってコウタは立ち上がり、グラスや皿をトレイに乗せる。結局、本当に僕たち以外に客は一人も来なかった。
僕とミサキも席を立ち、荷物をまとめて帰り支度を始める。
「もう夕方か……結局あまりまとまらなかったね」
「まぁ、ほとんどの時間が関係ない雑談だったからな」
コウタが食器を持ってキッチンへ向かうと、ユリがその後を追いかけた。
「あ、コウタくん。私も片づけ手伝うよ」
「いいのか? いつも悪いなぁ」
「いいよいいよ。私お皿洗うのとか好きだからさ」
二人の会話を聞きながらも、僕はミサキの口元が「ニヤリ」と歪んだのを見逃さなかった。
「あー、悪いが私はこれから用事があるから、先に帰ってようかな。なぁ?」
そう言ってミサキは僕の肩を強めに叩いた。「なぁ?」って何だよ、と文句を言いたい気もあったが、肩に置かれた手から「圧」を感じたため、慌てて話を合わせる。
「そ、そうだね。じゃあミサキ、駅まで送ってくよ」
「そうかありがとう。それじゃあユリ、私たち二人は先に帰るよ」
「……う、うん」
ユリの頬がほんの少し赤くなったことに、恐らくコウタは気づいていない。
「そっか。そんじゃまた明日学校で。気ぃつけてなー」
二人に手を振り、僕たちは店を出た。駅への道を並んで歩く。僕らの他に通行人はいない。とても静かだ。
横断歩道の信号が赤だったので足を止めた。車なんて通らないからあまり意味はないが。
信号待ちをしている間、ミサキが口を開いた。
「しかし、いつになったらくっつくのかねぇ……」
「……何が?」
「とぼけるなよ。ユリとコウタのことに決まってるだろ」
「それ本人に言うなよ? あんまり外野がとやかく言うことでもない」
「それはそうだが……」
信号が青に変わったので歩き出す。僕は歩きながら話を続けた。
「さっきユリが言ってただろ? また四人で遊びたいって。ユリはこの『友達』という関係性が好きだから、うかつに変なことして崩したくないんじゃないかな」
「……なるほど、大いに納得できるな」
ミサキはあごに手を当て、何かを考えながら歩き続ける。
そんな話をしているうちに駅に着いた。僕たち二人はカードをタッチして改札を抜ける。何の音もしない。僕は特に『ピッ』とかいう電子音が苦手なのでちょうどいい。
階段を登ってホームへ出ると自販機がある。僕とミサキはその前に立って向かい合う。
「さぁ、今日もこの時間がやってきたぞ」
「ふふん。さぁ、チャンピオンにかかってきなさい」
手首、肘、肩などをブラブラと動かして準備運動。そして息を合わせて声を張り上げる。
「最初はグー、ジャンケンポン!」
僕の手はグー、ミサキの手はパー。
「っしゃあ! チャンピオン防衛成功!」
ミサキは挑発するようにそのパーを僕の顔の前でヒラヒラと降って見せる。
僕はため息を一つつくと、財布を取り出し、自販機でサイダーを二本買う。取り出し口から缶を二本取り出し、そのうち片方をミサキに渡した。
「明日こそは勝つ」
「それ昨日も言ってたぞ」
嘘つけ。
僕たちはホームのベンチに腰を下ろした。缶を開けてミサキがサイダーを飲む。僕も同じようにプルタブを倒して缶を開け、中の液体を口に含む。何の味もしない。炭酸の音もしないので、それが本当にサイダーなのかもわからない。
僕は、ふと思いついたことをミサキに尋ねた。
「なぁ、聞きたいんだけどさ」
「うん?」
「ミサキは何かないの? 死ぬまでにやりたいこと」
「ないよ」
即答だった。
先ほどの喫茶店での会話で、各々が将来の展望のようなものを語った。しかし結局ミサキは自分のことを何も語らなかった。彼女が何を思っているのか気になって聞いてみたが、その答えはなかった。
「ないよ」
噛みしめるように、ミサキは再度答えた。
「なんで?」
「だって、死なないし」
……まぁ、それもそうか。
「死なないし、生きてもいない。昨日も明日もない。過去も未来もない。だから未来の展望なんてあるはずもない」
ミサキが話し続ける。電車が来る気配は一向にない。
「さっきはごめん。『昨日も言ってた』なんてテキトーなこと言って」
「別に気にしてないからいいよ。面白かったし」
「それなら良かった」
もう一度サイダーを口に含む。やはり味はしない。
「私からも聞きたいことがあるんだが」
「なに?」
「君、好きな人いる?」
「はぁっ?」
口の中のサイダーを吹き出しそうになりながら、僕は叫んだ。
「いや、さっきユリについて話してただろ? 関係性を崩したくないからってやつ。あれが妙にリアルでさ、もしかしたら実体験がベースになってるんじゃないかと思って」
耳はミサキの声を聞き取っているが、僕の目は先ほどから虚空を彷徨い続けている。
「……」
「……」
「え、ほんとに?」
「ま、まぁ」
僕の曖昧な答えを聞いた瞬間、急にミサキが僕との距離を詰めて近づいてきた。興味津々。野次馬根性といった雰囲気だ。
「誰? 私の知ってる人?」
「う、うるせぇな離れろ!」
「そんなこと言わずに教えてくれてもいいだろぉ。絶対誰にも言わないからさぁ」
そう言いながら僕の肩を掴んで揺すってくる。内心ではウザいと思ったが、こうなってしまってはもう仕方がない。
「あぁもうわかったよ!」
仕方がないので覚悟を決めることにした。僕の肩に触れていたミサキの手を握り、彼女の顔を正面から見つめた。
「ミサキ」
「ん?」
「好きだよ」
沈黙が流れた。人も、動物も、風も、音を発するものは何もない。この世界に存在する生き物は人間四人だけ。僕の鼓膜が震えるのは、その四人の声を聞くときだけだ。
今、僕の鼓膜が震えた。
「ふふっ」
ミサキが笑った。とても心地良い声だった。
「ごめんごめん。なんだか、おかしくなってきちゃったなと思ってさ」
「……というと?」
「嫌いなものをとことん排除して、好きなものとか憧れてるものをデタラメに入れているうちに、おかしくなってきたと思わない?」
好きなものや憧れているものか。いくつか思い当たる節がある。
「男女混ざった仲良しグループとか、夏とか告白とか?」
「そうそう。そういう要素を詰め込んで『なんとなくエモい話』になってきてる」
確かにその通りだ。ぐうの音も出ない。
「さすがミサキ、いつも達観しているというか、物事を客観的に、正確に捉えている」
「おいおい、『いつも』なんてないだろう? こちとら存在しない身だ」
そういえばそうだった。
「それで本題に戻るが、告白の返事は?」
「そうだなぁ……とりあえず言いたいことは……」
ミサキがぐいっと顔を僕の方へ寄せる。ドキっとしたのも束の間、ミサキが手をデコピンの形にして僕の額に当てた。鼓膜が震える。
「おはよう」
そう言ってミサキは僕の額を弾く。僕は驚いて一瞬目を閉じた。
次に目を開けたときに見えたのは、見慣れた俺の部屋の天井だった。
枕もとに置いておいたスマホの画面をつけ、時刻を確認する。二時か、半端な時間に目が覚めてしまった。
布団にもぐって目を閉じるが、眠気がやって来る気配はない。随分寒い。窓を閉め忘れたのだろうか。真冬の深夜の隙間風はとても冷たい。
俺はスマホと薬を手に取ると台所へ向かった。薬を飲むため、コップに水道水を注ぐ。蛇口をひねる瞬間、寝る前に手首に付けた傷がズキズキと痛んだ。
錠剤を一粒喉の奥へ流し込むと、今度はスマホを立ち上げてメモ帳を開いた。
そこには、小説を書くためのアイデアがずらりと並んでいる。ストーリーの案や印象的なフレーズなど、日常生活の中で見つけたものや、ふと思いついたものなどを書き溜めている。もっとも、この中から形になるものなど一割も存在しないが。
俺は新しいメモを作成すると、印象に残ったフレーズを新たに書き込んだ。
「なんとなくエモい話」
会社を出た俺は家路についた。空は暗く、風は冷たい。
重い足を引きずりながら駅へと向かう。駅前は人混みと雑音であふれている。とても不快だ。
耳障りな電子音を聞きながら、改札にカードをタッチしてホームへと出る。もうすぐ終電だ。人が多い。とてもうるさい。
疲れたので視線を下げると、黄色い点字ブロックが目に入った。この線を越えたらどうなるだろう。ふと、そう思った。
病んでるとか死にたいとか、そういうわけじゃない。ただそう思っただけだ。だから俺は足を引きずった。少しずつ、少しずつ、黄色い線の外側を目指して進んだ。
ホームの端まで来たそのとき、ふいに俺の鼓膜が震えた。
「もし明日死ぬとしたら、どうする?」
どこかで聞いたことある声。とても心地良い声だった。
これから線路に入ろうとしている人間に向かって「明日」の話をするなんて、皮肉もいいところだ。文句を言ってやろうと思い、振り返って声の主を探したが、彼女の姿は見つからなかった。
そうこうしているうちに、ホームに電車が入ってきた。線路に入ることができなくなったので、仕方なく電車に乗って家へ帰ることにした。
前に同じことを聞かれたとき、俺は何と答えたっけ。
電車に揺られること数十分。自宅の最寄り駅で電車を降り、住宅街を進んでマンションの一室の前に到着する。
鍵を開けて中に入ると、スーツのままデスクの前の席に着き、パソコンの電源を入れた。ワードソフトを立ち上げると、あの寒い夜に見た夢を書き連ねた。
何故そんなことをしているのか、自分でもよくわからない。もしかしたら、俺が今の日常にようやく「危機感」を感じたからかもしれない。
あちらの「僕」と、こちらの「俺」は違う。僕が笑っていたとしても、俺は苦しみ続ける。サイダーではなく水道水と薬を飲み、むりやり目を開けて、手首に傷をつけていく。
会社と家を往復し、飯食って、吐いて、シコって、切って、寝て、起きて、薬飲んで、また吐いて、そして生きる。
生きてもおらず死んでもいない彼女たちのために、仕方なく、危機感を感じながら、もう少しだけ俺は生きることにした。
書きたいことは書き終えた。文字で埋まった原稿用紙を見ると、心の中に満足感が生まれる。
窓の外はすでに明るくなっていた。徹夜してしまったが、どうせ眠れないので問題ない。
最後に、小説の投稿サイトを開いた。ログインし、書き終えたものをコピーする。そして投稿しようと思ったとき、少し困ったことが起こった。投稿するには「あらすじ」を書かなくてはいけない。
しかし、この文字の羅列の中には何も含まれていない。伝えたい思いや主義主張などどこにもない。ビンに手紙を入れて海に流すのと同じだ。俺は書いただけ。あとは誰が読んでもいいし、誰にも読まれなくても全く構わない。
少なくとも、あの三人がこれを読むことは絶対にない。あの町には海がないし、何より彼女たちはどこにもいない。世界のどこにも、記憶の中にも存在しない。俺の浅い眠りが見せた幻だ。
だから彼女たちへの別れの言葉の代わりに、俺はあらすじにこう書いた。
この物語はフィクションです。