6走り出す 莉衣菜視点 (西川新)
熱が更に顔に集中する感覚がする。私は足を止めて踵を返す。吉川先輩から、逃げるように背を向けた。
心音は、先程よりもっともっと大きくなっていた。血が全身に巡る感覚がする。胸が痛い。苦しい。こんな感覚、今まで経験したことない。
吉川先輩が快斗先輩を見つめていた瞳の色が、鮮明に脳裏に蘇る。怖い、怖い怖い。
ーーー私は、このまま快斗先輩を吉川先輩に取られてしまうのではないか。
そんなの嫌だ。怖い。
先輩が、遥か遠くに見える。先輩の背中が、やけに大きく見える。届かないーーー私の手は、先輩の背中まで届かない。さっきまであんなに近かったはずなのにーーーもう先輩は遠い遥か彼方。
その後のことは、全く覚えていない。
どうやって帰ってきたのかも、部活中何をしていたかも、覚えていない。覚えているのは、あの胸の痛みと、吉川先輩の恋する瞳の色だけ。
*
「莉衣菜さん?」
「…………え??」
「あ、ごめんごめん」と私は、目の前にいる唯華に向かって謝った。
「大丈夫? 今日、心なしかぼーっとしてるけど」
「えっ?! 大丈夫ダイジョーブ! で…、なんの話だっけ?」
唯華は、心ここに在らずな私を見かねて、ため息をついた。
朝ーーー登校中。
唯華と私は、珍しくふたりで登校していた。普段は、別々に登校しているのだが、今日はたまたま時間が合って一緒に行くことにした。こうやって二人で登校するのも楽しいが、今日は、どうしても話に集中ができない。
「なんだか様子が変だよ? 昨日から」
「そ、そう?」
「そうだよ〜。何があったの?」
心配そうな顔でこちらを覗き込む唯華。心当たりは確かにある。快斗先輩を見つめる吉川先輩のことが、昨日からどうしても頭から離れてくれない。あの恋する先輩の横顔が、やけに美しくて、忘れようにも忘れられなかった。吉川先輩のあの顔を思い出すたびに、胸がズキズキと痛み出して、どうしようもなかった。
「ごめん、間違ってたら悪いんだけど」
「…………ん?」
「もしかして莉衣菜さんって快斗くんのことが好きなの?」と。唯華は遠慮がちにそう言った。私はーーー言葉を失う。笑って誤魔化すことも、真っ向に否定することも、正直に言うこともできなかった。ただ、黙り込む。
唯華と私の間に、生まれる沈黙。
気まずい。何か言わないと。そうやって焦れば焦るほど、頭が白くなってくる。何にも声が出てこない。
「………莉衣菜さん?」
「…そ、そういう唯華は、快斗先輩のこと、どう思ってるのよ?」
なんとか紡ぎ出した言葉は、まさかのものだった。今更、やらかしたと思っても時すでに遅しーーー唯華は目を伏せ気味に、小さくぽつりと言葉をつぶやいた。
「別に……、私はどうも思ってないよ」
言葉の割には暗い顔つきの唯華。どうかしたのかな?と思って様子を伺っていると、唯華の顔つきは、すぐにいつもの明るいものに戻った。
「莉衣菜さん、ごまかしたけど、やっぱり快斗くんのこと好きだよね?」
確信を持ったとでも言わんばかりに、ニヤニヤする唯華。さっきまでの暗い顔はなんだったんだよ〜、と思わざるおえないほどのギャップだ。あれは私の見間違いだったのだろうか?
唯華にそう問われて、私は、何も言わずにただ頷いた。もう親友を前に、この感情を誤魔化せそうではない。
「……へぇ、そうなんだ」
「やっぱりね」と、唯華は言った。その言い方に少し違和感を覚える。唯華の顔がまた暗くてーーーなんだか寂しげである。なんでそんな顔するのか、何も分かんなくて、何も言えなかった。ただ、唯華は優しい口調で
「快斗くん、絶対に莉衣菜さんのこと好きだから!頑張ってね!!」
と言った。
優しい口調だけど、やっぱり顔は、寂しげで。あの時の吉川先輩とおんなじような色をしていたーーー唯華の瞳は。切なくて悲しくて寂しくて、でも愛おしさの込められた色。
ーーーあぁ、と思った。
唯華も、吉川先輩と、私と、“おんなじ”なのだと思った。
“おんなじ”だけどーーー違った。
唯華はもうそれを吹っ切っていた。唯華はもう、快斗先輩を遠くから見ようとしていた。近付かず、遠くから見守ろうとしていた。唯華が快斗先輩を見る瞳は、悲しげで寂しげで、見守るようだった。
私の心臓がやけにうるさい。快斗先輩のことが、頭から離れない。私の底から、湧いてくる熱。ここにいてもたってもいられないような感覚に陥った。
「莉衣菜、行かないの?」
「………え?」
親友は私を見て微笑む。どうやら、親友は何もかもお見通しらしい。
「まだ朝練やってるはずでしょ?」
そうやって唯華は呟いた。
頼もしい親友に見送られ、私は体育館へと、快斗先輩の元へと、風を切ってなりふり構わず、一直線に向かっていった。
私はーーーやはり快斗先輩のことがどうしようもなく、好きである。