5公式戦の間近 莉衣菜視点 (一布)
快斗先輩が剣道部に復帰して、二ヶ月が経った。
梅雨で、湿気の多い季節。
けれど、道場には、そんな湿っぽい雰囲気なんてない。公式戦の日が近付いていて、みんな、練習に気持ちが入ってきているんだ。
湿度なんて気にならないほどの、熱気。
そんな時期にも関わらず、快斗先輩は、相変わらずいつも遅刻してくる。遅刻して、みんなより遅く練習を始めて。それなのに、練習開始直後から、誰よりも動きがいい。
快斗先輩は、怠け心で遅刻してくるんじゃない。
私がそう気付いたのは、ほんの一週間前のことだ。出会ったばかりの頃に偶然見かけた、朝練をする快斗先輩。遅刻してきてほとんど準備運動をしていないのに、他の人よりも鋭く動ける快斗先輩。
快斗先輩は、どこかで一人で練習をしてから来るんだ。自分なりの戦い方を見つめて、剣道部の練習じゃできないことをして、それから部活に加わる。部活で、自分なりに考えたことを実践する。
だから快斗先輩は、休部した後でも、部活に参加する時間が短くても、強いんだ。大会で優勝できるくらいに。
公式戦の日が迫っている。
今日は、部内で試合を行う日だ。
以前のような、一年生のレベルを見極めるためのものじゃない。部内全体で、対戦相手を交換しながらする試合。その結果から、公式戦に出場する選手を決める。
実力と結果で選ばれるから、学年なんて関係ない。快斗先輩だって、去年はこうして公式戦の選手に選ばれて、優勝したんだ。
緊張しているのに、私は少しニヤけていた。ワクワクしていた。今日まで、一生懸命練習した。その成果を出せる場だ。部内だけの試合といっても、気持ちが高まる。
──やるぞ!
高揚感に包まれながら、私は防具を着けて準備をした。
「すんませーん。遅れました-」
道場の熱気が少し冷めてしまうような、気の抜けた声。この声が道場に響くのも、もう日課だ。
快斗先輩が、いつものごとく遅れて道場に来た。
部長と、副部長の吉川先輩が、ちょっと恐い顔で快斗先輩に詰め寄った。
あ、快斗先輩、怒られてる。
「今日から部内戦だと言ってただろ!」
部長の大きな声での説教。太い声が、道場に響いた。
部長と一緒になって、吉川先輩も快斗先輩に注意していた。でも、吉川先輩の叱り方は、部長とはちょっと違う。なんだか、悪さをした子供を叱るようだった。冷たい印象を抱かせるほど綺麗な顔なのに、その目は優しい。
「とにかく早く準備しろ! 始めるぞ!」
部長に怒られて、快斗先輩はそそくさと準備を始めた。道着に着替えて、防具を着ける。
試合が始まった。
進行を早くするために、試合は二組同時進行で行う。審判は、部長と吉川先輩が務める。だから、この二人のどちらかが試合をするときは、試合は一組だけ。一試合三本勝負。二本先取した方の勝ち。
試合が、どんどん回されていって。
私は今日だけで、二戦した。結果は、一勝一敗。勝った試合は、フェイントからの攻撃が見事に決まった。立て続けに二本連取した。他の競技で言うところの、ストレート勝ちってやつ?
けれど、負けた試合は二本連取された。相手は、吉川先輩だった。
向き合った瞬間に、私よりも強いことが分かった。面を被っていて、顔なんて見えない。でも、冷たいほどの綺麗な顔から、強烈な重圧を感じた。一生懸命フェイントで揺さぶろうとしたけど、通じなかった。
試合が終わって面を取ると、いつもの優しい吉川先輩に戻っていた。いつもの、優しい笑顔。
「莉衣菜はフェイントをたくさん使うけど、もう少し、フェイントにも本気度を見せたいね。攻撃する意識がフェイントに乗ってないから、フェイントだって分かっちゃうの。そこだね、課題は」
アドバイスまでくれた。
嬉しい反面、ちょっと悔しかった。
吉川先輩のことは好きだけど、勝負は別。次は絶対に勝つんだから!
そんなことを思いつつ、私は素直に吉川先輩のアドバイスを聞き入れた。
次々と、試合は消化されていった。
最後の試合になった。
最後に試合をするのは、一組だけ。審判をするのが、吉川先輩しかいないからだ。
部長が試合をする。相手は、快斗先輩。
二人が向き合い、互いに礼をした。
剣道馬鹿と言われる部長と、優勝経験のある快斗先輩。部内のトップ二人の戦い。当然、部員全員の視線が二人に集まっていた。
道場が静まり返る。静かな、でも胸を締め付けるような緊張感。
吉川先輩が、開始の合図をした。
部長も快斗先輩も、開始時の裂帛の咆哮を上げた。
部長の声はいつものように太く大きくて、道場の隅まで響く。
快斗先輩の声は、部長の声にかき消された。それでも、私の耳には届いた。針のように刺さる、気迫の声。遅刻してきたときの気の抜けた様子や、唯華と話しているときの気軽な様子は、そこにはない。まるで日本刀を思わせる鋭さ。
先に仕掛けたのは部長だった。鋭い踏み込みと剣撃。パワーとスピードが尋常じゃない。身体能力の高さを伺わせる。野生の獣のみたいな動きだ。
快斗先輩は、そんな部長の攻撃を自分の竹刀で払い、あるいは距離を取って避けている。
互いの竹刀がぶつかり合う度に、パァンッという鋭利な音が響いた。
──あ。
ふいに、気付いた。今まで、気付けなかったこと。部長と快斗先輩の二人を同時に見ることで、初めて気付けた。
部長の身体能力は高い。「剣道しか頭にないような馬鹿」なんて陰口を叩かれている部長は、その身体能力を存分に活かした戦い方をする。ある意味、竹刀を持ったゴリラみたいだ。でも、身体能力にものを言わせたその動きは、隙が多いように見えた。自分のスピードやパワーに振り回されて、動く度に体幹がブレているんだ。だから、動けば動くほど隙が大きくなっていく。
対して快斗先輩の動きは、まるで流れるようだった。体幹が──体の軸がブレない。どんなに激しく動いても。
部長の動きが大きくブレた。
快斗先輩は、その隙を見落とさない。小さく鋭く、竹刀を振り下ろした。部長の、小手の部分に。
パァンッ、と鋭い音が響いた。
吉川先輩が審判の旗を上げた。
快斗先輩が一本目を取った。
凄い! 強い!
再び互いに向かい合って、二本目が始まった。
一本目と違って、先に仕掛けたのは快斗先輩だった。踏み込みが鋭い! 狙いは、部長の面。
でも、距離が足りない。快斗先輩の踏み込みは鋭いけど、あの距離で竹刀を振り下ろしても部長には届かない。
たぶん条件反射なんだろうけど、部長はすかさず防御の構えを取った。快斗先輩の竹刀を防ぐように、自分の頭上に竹刀を掲げた。
快斗先輩の竹刀は、空を切った。やっぱり、踏み込みが足りない。ほんの何センチか、部長に届かない。
──いや、違う! わざと届かせなかったんだ!
ふいに思い出した。私が初めて、快斗先輩を見たときのこと。体育館で一人で朝練をしていた、快斗先輩の姿を。まるで斬るような動きで壁のスレスレを打っていた、あの動き。
あの動きを、フェイントに使ったんだ!
快斗先輩の体勢は崩れていない。すぐに部長の胴を狙える。
部長は、竹刀を頭上に掲げたまま。快斗先輩が胴を狙ってきたら、防ぎようがない。
部長はすかさず、攻撃に転じた。胴を狙われたら防げないと判断したんだろう。頭で考えたのではなく、動物的な勘で。だから、胴を取らせる代わりに快斗先輩の面を狙っている。
相打ち狙い!
部長の竹刀が振り下ろされた。
ヒュンッ、と空気を切る音。部長の竹刀は、快斗先輩に当たることなく虚空でしなった。
快斗先輩は少しだけ後退して、部長の竹刀を避けていた。
自分のスピードとパワーに任せて反撃した部長は、少しだけ前方にバランスを崩した。
その直後。
パァンッ、と鋭い音が響いた。部長の打ち終わりを狙った、快斗先輩の面。鮮やかに決まった。
再び、吉川先輩が審判の旗を上げた。綺麗過ぎるほど綺麗な一撃。
吉川先輩が私に言った「意思の乗ったフェイント」と、そこから生み出された駆け引きと結末。快斗先輩の戦いは、凄くて、綺麗だった。美しい、なんて表現がピッタリだった。
部長と快斗先輩は互いに礼をして、試合を終えた。
面を外して、快斗先輩はふぅと息をついた。少しだけ、微笑んでいた。唯華と話していたときとは違う笑み。私のほっぺを引っ張っていたときとも違う。
自分がしてきたことの成果を、確かめられた。そんな、満足気な笑みだった。
そんな快斗先輩の表情を見て。
私は、自分の頬が熱くなるのを感じた。
興奮してるんだろうか。快斗先輩の凄い動きを見て。お手本になるようなフェイントを見せられて。目指すべき目標の存在を感じられて。
そうだ。吉川先輩にも、今の快斗先輩のフェイントについて意見を聞いてみよう。きっと、私と同じ事を思ってるはずだ。私のいいお手本になるって。
そんなことを思いながら、吉川先輩に駆け寄ろうとして──
私の体は、固まってしまった。
吉川先輩は、今まで見たことのない表情をしていた。
綺麗な、吉川先輩の顔立ち。笑みを消して澄ましていると、冷たい印象すら抱くような綺麗な顔立ち。
その顔に。少しだけ赤い頬に。潤んだ瞳に。
熱が、宿っていた。湿気を宿した、胸が痛くなるような熱。
吉川先輩の瞳の先には、試合を終えたばかりの快斗先輩がいた。
熱っぽい、吉川先輩の視線。いじらしいような、切ないような目。そこに込められた感情の全てが、快斗先輩に向けられていた。
そんな吉川先輩を見て、私はなぜか、鏡を見ているうような錯覚を覚えた。吉川先輩の方が、私よりずっとずっと美人なのに。
それなのに。
快斗先輩を見つめる、吉川先輩を見て。
快斗先輩を好きだと物語る、吉川先輩の瞳を見つめて。
私も、今、あんな顔をしているんだ。直感的に、そう悟った。
鏡のような、吉川先輩の姿。私を映す鏡。私の心を映す、鏡。
私は気付いた。気付いちゃった。
私の頬が熱いのは、快斗先輩の動きに興奮したからじゃない。お手本となるような快斗先輩の存在に、気持ちが高ぶっているからじゃない。
剣道とはまるで違うところにある、気持ち。
──好き。
快斗先輩が好き。
私は、快斗先輩を好きになったんだ。