兄の終幕
空を仰ぐと、そこには澄んだ青と白。風がざあーっと吹き、道端に咲く蒲公英が揺れる。
こんな天気の日に人は何を思うのだろうか。
弟は何を思うだろうか。
弟を殺す僕は何を思うのだろうか。
・・・
僕と弟は、親でも見分けがつかないような、そっくりな双子だった。でも、似ているのは顔だけ。弟は天才で、数々の常識を覆すような大発見をしてきた。そして、多くの人を救ってきた。この地球上で彼を知らない人はいないだろう。それくらいすごいやつだった。
一方、僕はただの人。頑張って難関大学に入ったもののそれまでだった。天才の弟には足元にも及ばない。結局どれだけ凡人が努力しても、天才には敵わない。僕はそれをいつも感じて生きてきた。弟の隣で、ずっと、ずっと。
「双子なのに」
その言葉が僕の後ろをついて回る。周りからの失望。憐れみの目。
「何でできないの。見た目はそっくりなのに」
そんなの僕が聞きたいよ。同じ日に、同じ親から、同じ顔で生まれて。なのに、どうしてこんなにも違うんだ。
世界はとても不公平で、残酷だ。ああ、僕はどうすればいい。どうすれば、弟の呪縛から逃れられる?どうすれば、僕は僕になれる?何度も、繰り返し自分に問う。僕の何がいけなかったんだ?僕はどこで間違えた?
答えは単純で、恐ろしい。きっと、正しくもない。
でも、僕はあの日、答案用紙に答えを書いた。「弟がいなくなればいい。」と。
・・・
激しい運動をしたわけでもないのに、心臓の音が耳の近くで聞こえる。弟の家の前に着いて、震える指でインターホンに手を伸ばす。
ピンポーン
自分で鳴らした音なのに、僕はビクッとした。
「はい」
弟の応答に再度ビクッとする。声が震えないように気をつけながら、平然を装い返事をする。
「あのさ僕だけど、今忙しい?この前頼まれたやつ届けに来たんだけど」
何度か行く道で練習した言葉を絞り出す。
「全然!待ってたんだよ。適当に上がって上がって。」
弟の嬉しそうな声に少し胸が痛んだ。でも、こんなことで動揺している場合じゃない。だって、これから彼を殺すんだから。
弟とお茶を飲みながら、当たり障りのない世間話をした。彼の顔を見るのも今日が最後だ。僕は、自分とそっくりだが少し違う彼の顔を、声を記憶しておこうと思った。
少し話をしているうちに、話題が彼の研究へと移ったので、僕は、今どんな研究をしているのか見せて欲しいと言った。彼の部屋で殺人を決行する予定だった。
弟は疑う素振りも見せずに頷く。弟と一緒に部屋に向かう。
近づくにつれ緊張感が増していく。かつてないほどの緊張に息が上手く吸えない。今までどうやって呼吸してきたのかわからなかった。
僕はいつも通りに見えているだろうか?おかしなところはないだろうか?そう考えながら、なんとか弟の話に相槌を返す。そうこうしているうちに、目的地まで着いてしまった。
本当にやるのか?もう一度、考え直してもいいんじゃないか?
いや、もう何度も考えただろう。考えて、考えて、やっと出した答えがこれだ。だから今、やるしかない。
僕には、この方法しか思いつかない。幸せになるには、殺すしかないんだ。
僕は決心して弟に一歩近づく。
弟の体が地面に横たわる。
死んだのか?僕は弟の首筋に指を当てて、脈を確認した。まだ暖かかったが、脈は完全に止まっていた。
一人の人生があっけなく終わった。弟の死亡を確認した途端、心臓がドクドクと動き出した。
まるで今まで動くのを忘れていたように。全身が震えている。立っているのもやっとだったが、まだやらなくちゃいけないことが残っていた。僕は壊れた機械のように、ギクシャクした体を動かし、作業を始める。
長くとも短くとも取れる時間が経過し、僕の神経がいくらか機能を取り戻してきた時、ひとつの白い封筒が僕の目に止まった。今まで気づかなかったのが不思議なくらいに、存在感を放っていた。僕はその封筒に近づいていく。そこには、弟の性格が現れたような優しい字で僕の名前が書かれていた。僕の字より少し丸っこかった。
封筒から中身を取り出し、そっと開く。新しい紙の匂いがした。
「兄貴へ
殺してくれてありがとう。ごめんね」
短い文章が書かれた手紙。他の人が読んだら意味がわからないような手紙。でも、僕にはそれで十分だった。
今まで抑えてきた、見なかったふりをしていた感情が、表面から顔を出し、次々と溢れていく。
なんだよ。謝ってんじゃねえよ。ていうか、殺した相手に感謝するとかバカだろ。まったくお前らしいよ。手紙なんか残すなよ。処理に困るし、悲しくなるじゃんか。せっかく俺が、お前への恨みをたくさん考えたっていうのに。恨んでるって思い込もうとしてたのに。もう本当になんなんだよ。
まとまらない思考が頭の中に浮かんでは消えていった。涙で視界が滲んでゆく。ごめんて言うなよ。謝らなきゃいけないのは俺の方だよ。こんな不甲斐ない兄でごめんな。お前が苦しんでいるのに、気がつかなくてごめんな。殺すしかしてやれないバカな兄でごめんな。本当に本当にごめんな。
僕の心は喪失感と悲しみと後悔でいっぱいになった。でも、兄としての最後の仕事があるからと、手紙からぐっと顔を上げ、乱暴に手の甲で涙を拭う。手紙は丁寧に折り、Tシャツの胸ポケットへとしまった。
頼まれていた通り、パソコンのデータを消して、修復できないように水をかけ、元の形がわからないくらい破壊する。紙の研究資料は一箇所に集め、ライターで火をつけた。もともと身辺整理でもしていたのか、そこまで量はなかった。
全て燃えたのを見届けると、僕は弟の隣に寝転がる。凪いだ海のように静かな気持ちだった。
僕は、薬を取り出し、一気に飲み干す。これで本当に全てが終わった。かすれゆく意識の中で、弟の方に顔を向ける。弟は安心したような表情で微笑んでいた。ああ、やっぱり双子だな。僕たち…。
僕は微笑んで静かに眠る。