流行り病をせっかく予知しましたのに
そよ風に運ばれたアケビの匂いに鼻をくすぐられ目を覚ます。
陽射しはまだ強いけれども、そろそろ衣替えの準備かしら。まどろみに包まれながらノアはその日の予定をひとつ足した。
「といっても秋物は二着しか無かったわね……」
部屋の隅に置かれた小さな箪笥に目を向けて苦笑い。
かつては季節の変わり目ごとに二日がかりで臨んだ装いの総とっかえも、ものの無い今となっては数分足らずで終わってしまう。
暇なときほどやることがなかった。
ノアは今、ヘレナ島と呼ばれる辺境の孤島で暮らしている。
建物は彼女の住む小屋を除いて一軒もなく、人工物の区分で見ても辛うじて桟橋を自称できるかどうかの石と木材の残骸があるばかり。
海岸沿いにのんびり歩いて10分かからず一周できるこの島はノアの祖国の地図にも記されていなかった。隣国が一応認識していた程度の場所へ送られてそろそろ一年が経つ。
13歳で宮殿勤めの侍女となったノアは、16歳で地震を予知するまで平凡極まりない存在だった。
天災と無縁の祖国は注意を促す少女のことを一度は気狂いとみなし、数日後に実際地が揺れたことで一転聖女と認定した。
折檻部屋から抜け出して食器棚の扉という扉を紐で括った行為も、終わってみれば王家に伝わる調度品を守り抜く栄誉ある行いと賞賛された。
当然妬むものも多くいた。
従って18歳の誕生日に見た予知夢、半年後に流行り病に襲われる惨状を伝えたとき、併せて薬の確保と医療従事者の増員を進言したのはノアの過ちだった。
聖女として求められるは予知まで。それを受けて何をするかは任せておけばよかったのである。
ノアを妬む者たちは彼女の実家が薬師であることもとうの昔に突き止めていて、彼女の予知は自身の懐を温めるための讒言だと喧伝して回った。
王家お抱えの医者と逢引きしているとの噂も広められた。
気づけば聖女の称号を剥奪され、たまたま訪れていた隣国の王子が「流罪なら調度よいところがありますよ」と提言した地図にもない島へ送られた次第である。
以来、祖国との接点は逃亡していないかどうか月に一度やってくる船だけになった。
三ヶ月前からそれも来ていない。
そろそろ頃合いか。
思った矢先、水平線の向こうから舳先が顔を覗かせた。
祖国とは反対の方角。毎週食糧を送り届けてくれる隣国から。
桟橋に接舷する。
積まれた石がらりと崩れた。
「お迎えに上がりました」
男と会うのは二度目だった。
言葉を交わすのはこれが初めてのことだ。
「抜け出してもよいのでしょうか。争いの火種にはなりませんか」
「それどころではないでしょう。宮殿から馬小屋まで毎日ばたばた倒れていると聞きます」
一年前から備えられたお蔭でこちらは何とか耐えていますが、と付け加えられる。
口元を緩めたのは感謝か皮肉か。
「或いは宣託を伺いにやってくるかもしれませんが、気づかれたら気づかれたで構いません。賭けに出るだけの価値はあります」
「ありがとうございます。では」
差し出された手を握る。
細身の見た目に反して引き寄せる力は強かった。勢いで船がぐらりと揺れ胸元に倒れ込む。
「おや、噂をすればやってきたようですよ」
振り返ると祖国の方から小さな船が向かってくるのが目に留まった。
随分と速い。余程焦っていると見える。
「話だけでも聞かれていきますか」
「……いえ、行きましょう」
男は頷き船頭に命じる。
波に揺れる小舟を尻目に、ノアと王子は水平線の彼方へと去った。
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