愛を買わなくちゃ
僕は、愛を買わなくちゃ。
そよ風が吹く。けれどそのそよ風は工場から出る排気ガスと街を包む異様な生臭さを纏い、ツンと鼻を刺激するものへと即座に代わり、暗い気分をより一層どんよりさせる。
「おい!突っ立てないで働け!!この役立たずが!!!」
その怒号の直後、後ろからゲンコツが飛んでくる。
痛みに頭を抑え、溢れ出てきそうになる涙を堪えつつ、「はい」と気の無い返事を返す。
「代わりなんざ、いくらでもいるんだ!!!働かないなら帰っていいぞ!」
嫌味を吐くと、ゲンコツをしてきた大男は「ふん」と言いつつ立ち去った。
そうして、再び僕は、自身の小さな体以上ある鉄骨を運ぶのである。これが、僕のいつもの風景、いつもの生活、いつもの人生だ。
仕事が終わると、薬局に寄り、稼いだ銭で薬を購入し、そそくさと家に帰る。古臭い、カビ臭い、ほとんど入居者もいない、格安のマンションが僕の家だ。ほとんどの人は、より街が栄えている場所に住む。もちろん、僕だって、そういう場所に住めるならばそうしたい。でも、どうしたってそんな生活はできそうにない。
「ただいま、母さん」そう言い、真っ暗な家に入る。
「おかえり、エリー」
家の中から、柔らかな女性の声がする。そう、この人こそが僕の母さんだ。
「電気くらい付けなっていつも言ってるだろ?部屋が暗いと気分まで暗くなるじゃないか。治るものも治らないよ」
「いいのよ、電気代だって節約しなくちゃ。エリーが学校に通えるお金を貯めなきゃいけないでしょ?」
「僕のことはどうだっていいんだよ。それよりも母さんが良くなる方が先でしょ?」
「そうね」そう言って、母さんは痩せこけて骨格がはっきりとした顔にシワを寄せ、にっこりと笑う。
夕飯を食べて、水で体を拭いたら、僕も母さんと同じ布団に入る。目を閉じて、ゆっくりと息を吸う。そうしていると、母さんはいつもの言葉をくれる。
「おやすみ、ユーリ、愛しているわ、ごめんなさいね」
僕だって愛しているよ、母さん。謝らないで、僕はずっとこんな生活が続けばと思っているんだから。
ずっと、こんな生活が。ずっと、ずっと。
生活の変化は、いつも突然だ。身構える暇もない。
絶望が心に覆い被さるのはいつも突然だ、そこには、偶然も必然もない。
次の朝、目が覚めると、母さんはピクリとも動かなくなっていた。おかしいんだ、昨日まであんなに暖かかった母さんの腕が、体が、氷みたいに冷たいんだ。
そうさ、今日だって、仕事に行って薬を買って、家に帰って、母さんの腕の中で寝るのさ。母さんの「愛している」を聞かなきゃいけないんだ。僕はまだ、ちゃんと口に出して愛しているを言えていないんだ。
そうさ、いつもの日常があったはずなんだ。
ここにだけは愛があるはずなんだ。
なのに亡くなってしまった。あったはずの愛が亡くなってしまった。
愛ってなんだ?
僕には愛が無くなってしまった。
愛を買わなくちゃ。
愛を買わなくちゃ。
母さんからもらった愛は、今はもう無くなってしまった。
僕自身にあったはずの愛は、無くなってしまった。
君も、愛を買わなくちゃ。