名前を付けるのって神経使うよね
名前とは、他者との差別化、概念付け、意味付け等の特別感のある固有名詞です。それがあるからこそ自分は他とは違うと認識できるし、相対的な存在の価値を知るものだと思います。
「名前がない?」
「えぇ、名前ってあれでしょ?あいつらみたいな群れを成して生活する生物が、個々が認識しやすいように、互いの差別化を図るための概念が名前でしょ?」
なぁんでこの美女は……本当に頭がいいのか悪いのかよく分からない。
「そんなに難しい言葉を使わなくてもいいでしょうに」
「うん?これしか知らないだけよ」
マジで何なんだ。
「……まぁ、言葉は置いておいて、ここら辺にいるスラちゃんやあなたみたいな方々は……総じて名前が無いんですか?」
「だって必要ないもの。私たちは群れないし、そもそも私たちはどう生まれたのかすらもよく分からない。気が付いたら生まれていて、適当に生きているだけだしね」
おいおいおい……ややこしくなってきたぞ。
「つまり、ある程度の知能を兼ね備えた存在が突如としてこの世に誕生するということですか?」
「そんな感じね」
「だからこそ名前も必要なく、ただ本能のままに生きているだけ……と?」
美女は俺の言葉に満足したのか、目を細めて笑みを浮かべる。
とどのつまり、今の話から推察するに、俺が人の形をした何か説がもう信憑性抜群どころかほぼ確信に迫っているということ。もう素直に認めちゃえよユー状況か。
「ところで、さっきの話に戻ってしまうんですが、スラちゃんを見ても何もしないっていうのは、食べたりしないんですねってことを聞きたかったんですよ。縄張り争いとかしないんですか?」
「しないしない。敵意無いしね。というか、本当なら襲われる可能性は捨てきれないはずなんだけど……少なくとも、あなたに危害が加えない限り、この子が襲ってくることは無いでしょう」
……たった一日の繋がりでここまで懐かれたのか……それとも、それを成すだけの何かが出来るような生物に俺がなっているということだろうか……。
仮説に仮説を重ねてのことではあるが、俺自身が人間ではないどころか、他の生物に害をなすような存在と認識された場合、とてもこの世界で生きていける自信がない。
何故なら、俺は前の世界で身体を鍛えたりしてないし、何かの武道、武術に通じてもいない。喧嘩も全くしたことないから、襲撃されればまともに反撃できる自信がないのだ。
死にたい。苦しむ前に。
「急に顔色が悪くなったわね。大丈夫?」
「……大丈夫です、はい、多分」
おでこに手を当てて心配してくれるのは良いんだけど、それならこいつを解いてくれないだろうか。
スラちゃんは俺の胸の谷間に乗っかり、軽く溶けたかのように身体を崩している。リラックスしているのかもしれない。マイペースだ、かわいい。でも微妙に感じてるから……マジキツイから。赤面しちゃうから。
「弱肉強食な感じの世界観だと思っていましたけど、普段何を食べて生きてるんですか?」
「まぁ、そこら辺にいるのとか、泳いでるのとか、飛んでるのとか……お腹空いたときにいるのを適当に食べてるわよ」
雑食か。
「その辺にいるのを……こう、パクっと?」
「そうよ」
「それはー、やっぱりやらなきゃいけないですよねぇ?」
「死ぬわよ?」
「デスヨネー」
やっぱ食うしかない感じか。そこはもう割り切るしかないよな。
……ちょっと待てよ?
「焼いたりしないんですか?」
「焼く?」
なるほどね……食に対しての文化は当たり前のように発達していないと。
ということは、火の扱いとかも慣れていないってことかもしれないな。昨日の夜も俺たちの焚火以外で光源はなかったし。少なくとも俺の視界の中ではだけどね。
「焼くと何か変わるものなの?」
「むしろ焼かずに食べると色々危なくないですか?」
「何が?」
……これが文明の違い、いや、そもそも臓器の機能が前の世界の動物とかよりも上なのかもしれない。前の世界の野生動物も生で肉食ってるけどさ。
俺の身体が人間じゃないものだとするならば、生でそこら辺の肉(?)を食べたとしても腹を下す可能性は無きにしもあらずではあるが……それにしても生で食うのは抵抗が……。
「……本当に考えるのが好きよねぇ」
「……あ、何かすみません」
本当にその通りだと思います。
だが考えてみてほしい。こんな右も左も分からないような世界にいきなり放り込まれたら誰でも慎重になると思うんだ。
むしろ、何も考えずに行動したら即死亡ルートが確定しそうな世界っていうのが現時点でのこの世界のイメージだ。死が間近にある状況で慎重に行動するなという方が難しいというもの。
……にしても、
「聞いてばかりで申し訳ないんですが、その、手元で編んでいるのって何ですか?」
「ん?これ?」
シリアスになり切れない中、俺が瞼を開けた時からかなりの速さで編まれている手元の編み物。どうしても目に入る。気にしないという選択肢が出てこない。だって視界に入ってるんだから。
俺がかなりの興味を示していることを悟ったのか、美女は口元を怪しげに歪める。
何故かはわからないが、少し悪寒がした。
「これはあなたのために作ってるのよ」
「……はい?」
どういうことだろう?頼んでもいないのに衣服らしきものを編んでくれている?どうして?
頭の中が?で埋め尽くされるまで、さほど時間はかからなかった。
仮にこの美女の良心で服を着ていない俺のために労力を割いてくれているとしよう。その場合、先ほどの悪寒は何だったのかという疑問点が残る。何故あんな意味ありげな笑みを浮かべるのかと。
……待てよ?
この世界の生物の頭が良いということは、これまでのことを鑑みるに結構的を得ていると思う。
しかし……しかしだ。いくらこの世界の生物が賢いからといって、こう易々と服とかって作れるものなのだろうか?
そう。今俺が辿り着いた思考はこうだ。
前の世界で服を買おうとしたとき、まず行うことといえば自分好みの服を探す。次はサイズの調整だ。
服のサイズといえば、SからOまでとかがよくお店に置いてあって、自分に合うサイズを選ぶのが俺にとっての普通のサイズの選び方だが、時たまサイズがないからと特注品を注文している人がいたのも覚えている。
そして、この世界の服はよく分からんが、この身体を観察するだけでサイズの合う服なんて作れるのだろうか?見た感じ、この美女が胸元に着ている服はサイズの調整がしっかりとなされている。
天才という可能性も捨てきれないが……目の前でニヤニヤしている美女を見る限り、間違えてはいないんじゃないだろうか。
俺は、寝ている間に、この身体を好き勝手されていたのではないだろうか?
「……寝ている間にナニかしたんですか?……」
恐る恐る、嗜虐的な顔をしている美女に問いかける。答えはもう分かりきっているが、何かに縋りつくような、淡い希望を願うかのようにか細い声になってしまったのは何故だろう。元男として、非常に大切な何かを失くしてしまうような痴態を曝け出してしまったのではないかという不安からくるものなのだろうか。
「色々よ」
この美女、惜しげもなく堂々と声高らかに言いやがった。こちとら不安で不安で仕方なかったことを惜しげもなく、しかもなんだそのやってやったぜみたいな満足感に満ちた顔は。そんなにもこのつっこみを待っていたの?本当に何をされたんだよ俺は。
「可愛かったわね~あれは」
オイオイオイ美女さぁん?
「そこの……スラちゃん?だったわよね?ちゃん付けはあれだからスラにしましょう。スラも手伝ってくれたのよ?」
俺は胸元で気持ちよさそうに身体を崩しているスラちゃんに視線を移した。貴様も共犯者か。
この野郎、かわいい見た目しておきながら結局敵なのか味方のなのか分からないな。
「でもあなたも気持ちよさそうにしてたわよ?結構攻めたつもりでいたけど、あなたずっと起きないから」
「やめてくださいそれ以上はもう聞きたくありません」
今の俺は、それはそれは真っ赤な炎のごとく顔面が赤いことだろう。この世界に来て早々……こんな辱めを受けるなんてね。
美女が嗜虐的な顔になっていたのも頷ける。
「……まぁ、これ以上虐めるのはやめておきましょうか。その時に色々測らせてもらってね、あなたに合いそうなのを思いついたから作ってるだけよ」
顔が熱い。
「服を作ってもらえるというのは大変ありがたいことなんですけど、どうしてそんなに良くしてくれるんです?」
「真っ赤な顔で警戒されてもかわいいだけよ」
「うるさいです」
「別にこれといった理由はないわ。ただ何となく、あなたが気に入ったから……じゃダメなのかしら?」
……スラちゃんの時もそうだが、このよく分からないモテ方は何なのだろう。これが態度の素っ気無い相手だったりしたら直ぐにでも距離を取るべく動くというのに……動けないんだけどさ。
この二人?に関しては好意を向けられ、かつ助けてもらっているわけだから無下にできないんだよなぁ。
しかもその行為の理由としては、何となく気に入ったから。スラちゃんも急に現れたと思ったら最初から好意的に接してくれ……いや待て、冷静になれ。
俺は得意気に編み物を続ける美女と胸元のスラちゃん、そして未だに解放してもらえない両手を見る。
好意的にしては俺結構いじられてるというか好き勝手されてるというか、これはどう説明付ければいいんだ?愛情の裏返し?この短期間で?どんなヤンデレですか?
身体に外傷は一切無い……俺の尊厳は深く傷ついたかもしれないが、それでも至れり尽くせりの状態ではある。
……現状況の俺、ヒモじゃね?
色々助けてもらうために己の身体を提供してるし、こいつらに金銭感覚というのは存在しえないだろうし。
だが、俺の中に残る日本人気質というか、人として当たり前のことというか、恩を与えられたら返さなくてはいけないという精神が深く魂に根付いている。でもね、返せるものがないんですよ。
そもそもこの世界に俺の価値観って通用すんの?しない気がするんですけど。
「何も返せるものがないんですけど……」
「ん?見返りを求めた覚えはないわよ?私が作りたかったから作っているだけだし、出来栄えさえ拝めたらあとは好きにしなさい」
この美女超いい人?だわ。
「いや、でも」
「あなたの乱れた姿をあれだけ見られたのだから安いものよ」
前言撤回、こいつは悪い奴だ。
「だから、そんな真っ赤顔で睨まれてもかわいいだけよ」
「……うー……」
なんだかすごくおちょくられている感じがする。
逆にこんな奴に恩を作っておきたくないな。後々どんな難題吹っ掛けられるか分かったもんじゃないし。
「何でもいいのでお礼をさせてください」
美女は俺の顔を凝視し、数秒間黙り込んだ。ここまで頑固にされると思わなかったんだろう。かく言う俺もなぜこんなに意固地になっているのか分からなくなってきた。頭ン中パニック。
美女は編む手も止め神妙な顔をしている。
うん、そんな難しいことは一切要求しているつもりはなかったんですけど、そんな真剣なまなざしはやめてください照れてしまいます。
そのまま体感約10秒ほど経ち、美女は表情を変えないまま俺にこう言った。
「じゃあ、スラに付けたように、私にも名前をくれないかしら?」
名前、名前である。
……まじか。
よく考えてみてほしい。スラちゃんの時とは明らかに状況が異なっている。
あの時はペットに名前を付けるような感覚で直感的にスラちゃんと名前を付けることができた。スライムのスラちゃん、なんて安直なネーミングセンスだ。だが、非常にわかりやすくかつ簡潔的だ。
名前を付けるという文化、他との差別化を図る必要がない種族に生まれてしまったが故に、こういった新しいものとの触れ合いに好奇心を刺激されただろうか?
ここで浮上してきた問題は、俺のネーミングセンスが壊滅的ということ。
スラちゃんの名前は聞いただけでも分かる人には分かるような分かりやすさを追求した(してません)。俺でも分かるような見た目だったからこそ、イメージの関連付けから瞬時に名前を付けることに成功したのさ。なんか、名前あった方が呼びやすいだろうし、言語もあまり使えなさそうだから、適当に名前付けてもいいかなーみたいな軽い気持ちで名前を付けていたわけでは決してないんだ。
そもそもの話をしよう。誰に語っているのかは不明だが、俺はこういったファンタジーな感じの世界観に疎いんだ。スライムとかドラゴンしか知らないよ。
この美女の見た目からどうやって名前を付けろと?蜘蛛女とでも付けるか?いや、意味を知ったらぶっ飛ばされそうだからやめておこう。
待て待て早まるな、もしかしたら、彼女にとって下半身が蜘蛛であり、上半身が人間の姿をしていることは誇りになるかもしれない。なればこそ、蜘蛛女という名前もあながち的を得ていないとは言い切れないのでは?
あ、その前に同じような見た目の生物がこの世界にいないとも限らないんだった。よくよく考えてみれば、おーい蜘蛛女ーとか呼びたくない。罪悪感で胸が押しつぶされそう。
あーもー、どんな名前がいいんだろう?
自慢でもなんでもないけれど、名前なんてまともに考えたことないよ?
ジェシーとかキラリとかキャラメルとかその辺適当に付けとけば良いかな?名前を知らないなら、こんな意味があると法螺吹いてもばれなさそうな感じするし。
美女の顔を見る。期待に満ち溢れた、純粋な顔をしている。
よーし、真面目に考えようではないか。あんな期待されてんのに何がキャラメルだふざけるのも大概にしろよ。
折角だし、日本語の和製感溢れる名前にしよう。俺日本語以外話せないし、しっかりと意味まで理解している素敵な名前を送ってあげた方が喜んでもらえるような気がするしね。
もう一度美女のことを見る。
鋭利な8本の脚を持ち、一見危険そうな雰囲気を持つ手前、際どいラインではあるが、腰から上は美しい女の身体を持ち、胸以外の肌をフルオープンしてはいるが見えている部分の肌はシミ一つない綺麗なものである。
俺が真顔でガン見していたのが恥ずかしいのか、美女は少しだけ頬を朱色に染めていた。
まるで……まるで変態露出狂だおっと危ない。
アカン致命的にエロイ。
真面目に考えようとした矢先にこれだよ。
でも仕方ないじゃん?こんなエロい格好されたらそっちに目が行っちゃうんだよ。
だが、名前もしっかり考えなければいけない。
でも、恥ずかしがってたの可愛かったなぁ……。俺のこと散々弄んだとか言ってたからこれ位は許さるはず。
頬が朱色に染まり、それがこの美しさと相まって……朱美というのはどうだろうか?編み物とも相性が良さそうだ。
「朱美っていうのはどうです?」
俺が提示した名前に、美女は反応した。
「朱美……それが、私」
何度も噛み締めるように、ゆっくりと朱美と呟く。その度に頷き、徐々に、嬉しそうに頬を緩めた。
俺は不覚にも、朱美が初めて見せた柔和な微笑に見惚れてしまった。
……こんな顔もできるんだな。何はともあれ、気に入ってくれたようで良かったよ。
名前を付けるのって、すごく難しいけど、気に入ってもらえた時は、結構心が温かくなるものなんだな。
前の世界での俺は、こういったことに積極的になったことがなかった。
少しでも興味を持っていれば、もしかしたら自殺なんてしなかったかもしれないな。今更だけど。
そんな固有の概念があるからこそ、それを一種の差別用語として扱ったり、それそのものを罵倒の別称として扱う存在から行われる集団社会的現象の一つとも考えられるいじめは、そんな差別化を図ったが故に起きてしまったのかもしれないし、その荒波に揉まれ、精神が病んでしまった存在は、世界からの卒業を望むことでしょう。
存在を消す、意識を消す、この行為にこそ救いがあると信じて。