やれることやろう
文明的な暮らしって楽を追求してて素晴らしいと思う。
名前が思い出せないってどういうことだ?他の記憶は思い出せるし……名前の部分だけ白い靄がかかったかのように全く分からなくなる。
これは結果的にどうなんでしょう?男の時の名前を覚えてないってつまり、これから新しい名前を自分で考えなきゃいけないってことだよね。
別に、男の時の名前分からなくする必要無いじゃん。
まぁ、いいや。ここが日本だったらいざ知らず、今のところは日本では無いような気がするし、元の姿に欠片も似てないんだから名前を偽ってもいいでしょ。
それでも親につけられた大切な名前だから忘れたくはなかったなぁ……。
とりあえず、名前のことは置いておこう。引きずっても何の進展もなさそうだ。俺は無駄な時間というものが嫌いなのである。
水面に映る自分の姿を見つつ、次なる問題に着目しようじゃないか。
「せめて、服くらいは欲しかったな」
そう、これよ。全裸はいかんでしょ全裸は。ただの痴女じゃん。ふざけんなよ。風邪引いちゃうじゃん。
衣服をどうしようか思考を練る。2秒ほどで無理だと悟った。
だって、俺裁縫の趣味とか無いし。服に興味があったわけでもないから、服がどのような構造でできているのかとか全く分からない。お洒落をする意味もよく理解できないような人間だったしな。
まさか、こういった状況に陥った時のために裁縫の技術とかって必要だったのか?
「いやいや、そもそも糸も針もないわ」
かといって、俺にはサバイバルの知識すら無い。熟練の人たちって葉っぱで紐を作ったり出来るみたいだけど、現代社会において、そんなことするくらいなら、ネット通販かその手の店に行けば済むことなので、重要視しなかった。
ふむ、このことから推測するに……俺詰んでね?人生ツムツムしてないこれ?
空を見上げれば、まだ日はそこそこ高いといえるだろう。サバイバルの知識がないということは、火起こしすら出来ないということを意味している訳ですよ。
今はまだよしとして、夜になったら終わりじゃん。
山菜とかキノコを見分けられるわけでもないし、簡易的な釣り竿とか罠を作れるわけでもない。狩りは逆に狩られそうで怖い。
森の中ということもあって、道は分からないし、地形も把握できてないから近くに街があるのかとかすらも分からない。そもそもこのままの恰好で出歩いたら完全に変態だ。
「詰むの早っ」
死んでいいかな?どう考えても生きられる気がしない。森の中ってことは、熊みたいなのもいるかもしれないってことだし、息があるうちに喰われて死ぬのは嫌だ。絶対痛いから。
流石にあきらめが早すぎたかもしれない。
もし、ここで死ぬのが運命なのだとしたら、諦めがつくまでは頑張って生きてみて、やっぱり駄目だとと思ったら死のう。うん、そうしよう。
「火起こしくらい挑戦してみようかな」
立ち上がりながらそう呟き、火起こしに必要なものを考える。
何となくだけど、よく乾燥した枝と、枯葉とかでなんとかなるんじゃないかな。
俺は、湖を見失わない程度の距離で枯葉と枝を探すことにした。
それにしても……胸が重い。これは肩こりますわ。
裸足なので、地面に気を付けながら使えそうなものを探す。いくつか見つけては湖のほとりに運ぶ作業を体感的に小一時間ぐらいやり、あらかた集めれたので、次の工程に進むことにした。
意外と乾燥した枝は見つかった。しかし、枯葉は全然見つからなかった。理由は分からない。枯れている木が近くに一本も無いからだろうか。というか、一定のところから奥に行こうとすると、やたら堅そうな草が所狭しと並んでて行けそうにないんだよね。
枯葉の代わりになりそうな枯れ草が無かったので、火起こしの難易度が急激に上がった気がする。
昔、何かの番組で見たことある方法だと、平べったい木に細い枝の先端を当てながら枝を回し、その摩擦で種火を起こし、枯葉などの燃えやすいものを着火剤にして、段階的に火を大きくしていくという感じなのだが、これは正直無理じゃないか?
着火剤が無い状態での方法なんて俺知らないよ?更に言えば、種火を起こすのって物凄く根気がいる作業だった気がするし、勢いも必要だったはずだから、思ってるほど簡単に事が進まないのは目に見えてるじゃん。
「あー……詰んだぁ……もっとそういうものに興味を持っておけば良かったぁぁぁ」
一気にやる気が急降下していくが、今のはあくまで俺の中の勝手な妄想だ。実際にやってみたらそんなに難しくなく、すんなり成功するかもしれない。
どんよりとした雰囲気を払う間もなく、俺は平べったい木に細い枝の先端を当て、枝を包み込むよう手を合わせた。そして、両手を前後に動かしながら摩擦を与えていく。
約30秒ほどが経過した。
……無理だわこれ。なんかね、先端が滑ってズレるのよ。そのせいで同じ個所に摩擦を集中させられなくて、熱が全く発生しないっていう。
たった30秒でこんな壁に当たるとは思わなんだ。緩やかに降下を続けていたやる気がここに来て逆らうのを止め、抵抗を失くしたやる気はスカイダビングの如く零地点へと落下していく。
めんどくさーい。
でも、と俺はもう一度気持ちをリセットするために、他にやるべきことを考えた。
服作り、食料探し、街探し、飲料水の確保、寝床探しなど、パッと思いつくのはそこら辺だったが、どれも無理そうだ。寝床とか探すも何もここで寝るしかなさそう。
大きなエベレスト二つを下から支えるように腕を組む。あ、これちょっとだけ背中楽だ。腕にその分の負担がかかるけど。
んー……やっぱり、出来そうなことがないな。何もしないよりは行動をした方が良い結果に結びつくだろうし、頑張って火起こししよう。
俺は再び枝を手に取り、摩擦を与え始めた。
くぼみとか作れば枝の先端を固定できたりすんのかな?
相変わらず滑る先端にイライラしながら、ふと思いついたことを実践してみる。先端が同じ個所に当たるように調節しながら平べったい木の表面に力を込めて押し当ててみた。ほんの少しだけだが、表面が陥没し細い枝の先端が固定されているのを確認する。
おお、さっきよりはやりやすい。あとは頑張って摩擦熱を与え続ければ種火が作れそう。
勉強とかスポーツとかでもそうだけど、何かコツみたいなのを見つけられるとちょっとだけ楽しくなるよね。
暫く摩擦を与え続けてみたが、煙も出なければ、何かが燃えるような匂いもしない。気づけば、空は薄っすらとではあるがオレンジ色がかかり、時刻は夕がたであることを示していた。
俺は休憩も兼ねて枝から手を離し、陥没している箇所を見てみる。……全然じゃん。
何となく理由は分かっていた。おそらく、俺自身の手の動きが遅いのだ。でも言い訳させてよ。これ本当に疲れるんだって。
これじゃあ夜までに火を起こすなんて不可能だ。集中してやっていたせいか、喉が渇いている。でも、いくら見た目が綺麗な湖とはいえ、そのままで飲むのは衛生面上よろしくはないだろう。
気を抜いたせいか、お腹も結構空いていることに気が付いた。
水なし、食料なし、服もなし、火も付けられない。
「……はぁ」
思わず、溜息を付いてしまった。先ほどから何度も同じことを考えてしまうのだが、男だった時の俺の環境は本当に恵まれていたものだったんだなと常々思う。
便利すぎたのだ。まさか、こんな大自然に突如として放り出されるなんて考えられないだろうし、金さえ払えば殆どのことが出来てしまったが故に、こういった生きるための術を何も身に着けずに今の現状に至る。
普通、自殺したらこんな場所にいましたとかって、自殺した本人しか分からないことだから、俺は単純に現代の進歩した便利な世界に馴染みすぎたのかもなぁ。そりゃあ、俺だって自殺した後のことが分かっていれば、それなりの準備をしてきただろうさ。
こんな理不尽な世界に癇癪を起こし、怒りに身を任せる人とかもいるのかもしれない。俺はもっと広い視野を持っていれば良かったなって反省してる。
このよく分からない場所に来たのも、俺が自殺したのが発端で今の状況に繋がるわけ。こいつぁひでぇや。
俺が自殺しなければこの状況すら起こらなかった、と。全部俺のせいじゃん。
やっぱりもう一度自殺しようかな。まさか、こんな夢みたいなよく分からん現象が連続で起きるとは考えにくいし。
だが、もしもう一度似たような感じの現象が起こり、今よりも過酷な場所で目が覚めたらどうしよう。ありえないだろうと鼻で笑えればいい。でもさ、今の状況を考えたら似たようなのが起きてもあまり不思議に思えないんだよ。
本当はそのまま魂まで浄化されたかったのに、変な体験させて可能性を広げるなよなー。
嫌だよ?もう一回自殺して、次起きたら目の前に熊とか。もう何の嫌がらせだよってなるよね。いじめだよ本当に。
気持ちが下がってる時って、何でも悪い方に考えちゃうよね。
ポジティブに生きたい。お先真っ暗とかごめんだよ。もう少しだけでいいから人生をイージーモードにしておくれよー。わしゃあもう疲れたのじゃ。
脳内でふざけていたら、なんだか眠くなってきた。枝とか拾うために歩き回ったり、火起こしのためにずっと作業してたからかは分からないけれど、仕事していた時とは違った疲れを感じる。
ここで寝たら風邪ひきそうだな。全裸だし。結局、何の問題も解消することは叶わなかった。自殺をしたらしたで、本当に次が無いかが未知数。これ近い内に動物に喰われて死ぬか餓死するやつでしょ。
あー、このまま風邪とかひいて病死もありそう。苦しいのは嫌なんだけどな……。
両手を後ろに付き、空を見上げる。薄かったオレンジは、その主張を強めており、本格的な夕暮れが訪れようとしていた。
もう少しで夜か……。俺が元居た場所は、夜中も街灯が辺りに沢山ついていて夜でも明るかったが、街灯一つない森の夜というのはどうなんだろうか。
想像しただけでも寒気がした。怖いのマジ無理。夜の森ってお化けが出るイメージがあるから、尚更俺の苦手な部類だ。お家帰りたい。
やはり、俺の選択は間違えていたのだろうか。火起こしに執着せず、他のことに集中すれば今とはまた違った状況になっていたに違いない。
もしかしたら、森の中を散策すれば、森を抜け街に辿り着けたかもしれない。確実に捕まるだろうが、こんな森で夜を明かすくらいなら捕まった方がマシだ。
また、もしかしたら、森から出れずとも、誰か人を見つけることが出来、事情を説明すれば助けてもらえたかもしれない。その前に確実に露出狂として通報されるだろうが、ここよりマシだわ。
何故全てのパターンで俺が捕まることになっているんだ。あ、全裸だからか。
いや待て、今の俺は女。それも、俺が思う限りかなりの美人に入るレベルの顔だとは思う。オパーイもでかいし。スタイルはいいんじゃないか?
それはつまり、もし、助けを求めて森を彷徨っていたとして、本当に人が見つかって、かつその人が男だった場合……レイプされる可能性も捨てきれないんじゃないか……?
それを想像した瞬間、俺は何を考えているんだと自分を恥じた。
全く洒落になっていない。今は妄想してる暇はないのだ。
現実逃避のために別ルートのことを考えていたというのに、別ルートが最悪のバッドエンドとかやめてほしい。
恋愛にも全く興味がなかった俺ではあるが、いや、俺だからこそ、好きでもない相手との性行為なんてくそくらえだ。ましてや、無理やりなんてされたら、自分の舌を噛むわ。
初めての身体ということもあって、いまいち動きづらさを感じてしまうのもあるし、慣れるまで時間がかかりそうだなこれは。
余計な思考に走ってしまうせいで、時間は刻刻と過ぎていく。
やばいなー。でもなんかやる気が起きないナー。時間と共に変化していく空模様を眺め、考えることすらめんどくさくなってしまった俺。もうダメかもしれない。
その時、近くの茂みが不自然に動いた。風かと思ったが、明らかに変な動きをしている。
これが何を意味しているか。そう、何らかの生物がいることを表している。
大きさ的に小さい生き物みたいだけど、オオカミとかだったら諦めるか、湖に飛び込んで逃げよう。その際に溺れ死んだら仕方ないってことで。
やがて、茂みの中からそいつは現れた。そして、その見た目に対し、俺は思考が停止してしまう。
「……は?」
10秒くらいそいつを見つめ、俺が絞り出せた第一声は疑問の声。俺には理解できなかった。理解できなかったのだ。
「え、何?これ生きてるの?」
戸惑いの言葉を投げかけてしまう。俺の脳内で出てきた言葉を処理できずにそのまま口にしてしまった独り言なのだが、そいつはまるで俺の言葉を理解しているかのように身を上下に動かしていた。
何故か俺もそいつが伝えたいことを理解できてしまう。意味が分からない。
でも分かってしまうのだ。こいつは上下に動きながら、『生きてるよー』と俺に伝えているのが分かってしまうのだ。俺、本当におかしくなっちゃったのかな?
……ダメだ。こいつのことをどうやって表現したらいいか分からない。とりあえず言えることは、最初は夕日の光が反射してるのかと思ったけど、どうやらそうではなく、こいつの体色はオレンジ色というところ。
手足は見当たらず、顔も見当たらない。
あぁ、よく考えると、元の世界のゲームで似たようなのいたよ。でも、それってフィクションの話だろ?
何で……何で俺の目の前に、スライムみたいなのが居るの?
文明的な暮らしって、人から生きる知恵を奪ってるとも思う。