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敬語と虚礼を廃すというおれの反儒教革命は、宛ら緊迫した
「言語ゲーム」だった。言葉はただ意味を伝える為だけにあるんや
なかった。かつて我々が言葉を持たないサルだった頃、叫び声や仕
草によって仲間を確かめたように、言葉の共有は価値の共有を生み、
価値の共有が共同体を創った。ところが、おれが敬語を使わ無くなっ
ただけで途端に対話がギクシャクして、言葉の共有が失われ、たとえ
価値を共有していても共同体はおれを疎外するようになり、やがてお
れの言葉に誰も耳を貸さなくなった。おれが教室で「石板をもってこ
い!」と叫んでも、たとえ級友がその言葉を理解出来たとしてもても、
もちろん「セキバン」を持って来させる理由が理解されないだろうけど、
しかしそこにたまたまセキバンが在ったとしても誰も石板を持って来よ
うとはしなかった。つまり、共同体の中では、言葉はその意味よりも誰
が言ったのかが重要なのだ。やがておれは学校という共同生活の中で
言語を共有しない「他者」として疎んじられた。おれの反儒教革命はま
さに「命がけの飛躍」となった。
儒教道徳において敬語や虚礼は専ら階序の低い者に強いられる。そし
て言葉とはその社会システムの反映に他ならない。つまりこの国は依然
として階級社会のままなのだ。肩書きとは単なる職分ではなく身分なの
だ。 おれが教師と同じように「お早う」と挨拶をすれば、彼らは間違
いなく無視をするだろう。つまり、おれがいくら平等に拘っても敵わな
いのだ。そこで、おれは一旦「お早うございます」と敬語で挨拶を交わ
して、教師が仕方なく「お早う」と言った後に、すかさずもう一度おれが
「お早う」と敬語を使わずに言い返した。すると、この試みはおれの立
場を一転して優位にした。生徒が「お早うございます」と敬語で挨拶し
ているのに教師は無視するわけにはいかなかった。すると彼らは「はい
、お早う」と挨拶の前に必ず「はい」を付けて挨拶した。そしてこの
「はい」こそが、生徒とは立場が異なることを暗に伝える彼らの安っ
ぽい矜持に他ならなかった。彼らは生徒の挨拶に対等に応じられず、
一旦「はい」とはぐらかしてから挨拶を交わした。だが、その時はお
れも同じように「はい、お早う」と言い返してやった。愛国主義者の、
従って社会主義者の、社会主義の対語は個人主義である、従って愛国
主義もまた社会主義者と同じ穴の中で暮らす生き物なのだ、山口という
熱血体育教師は歯茎を覗かせて怒りを顕わにした。
おれが、「お早うございます」と言う。すると熱血体育教師の山口が、
「はい、お早う」と応える。すかさずおれが、「はい、お早う!山口さん」
と言い返す。彼は「何じゃお前は!ふざけるな」と怒鳴った。
このように言語とは、特に複雑な敬語を使う儒教道徳に縛られた
社会の言語は、単に意味を伝える手段としてだけあるばかりでは無
く、詰まらないことだが、階序を確認する為の手段なのだ。 敬語を
使わないというおれの「命がけの飛躍」は、本来の「言語ゲーム」で
ある「他者」同士が対等の立場で互いに自己を主張する均衡した言葉の
交換が蘇った。儒教思想とは、均衡の不安に耐えられない者が安定を図
る為に身分の低い者に自己放棄を迫る思想なのだ。何故なら人間関係に
於いて均衡ほど不安定なものはないから。