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敬語と虚礼を廃すおれの「反儒教革命」はすぐに頓挫した。それ
は敬語がすでに標準語に取り込まれていたからや。後は「ため口」
しか残されていなかった。しかし、教師との会話は喋っている自分
が吃驚するほど「立場を弁えない」乱暴な言葉遣いに思えた。
そもそも標準語そのものが序列差別を認めているんや。どうも儒教
道徳の本質はこの「立場を弁える」ことにあるのではないか。そし
てそれこそが福沢諭吉の云う「名分」に違いないと思った。
「おはよう、北森さん」
「おう、おはよう、どうした今日は、早いな?」
「違うねん。朝まで起きてたから今から寝たら寝過ごす思て、
そんで寝んと来たんや。これから学校で寝よ思て」
「あほか!」
そんなため口は北森さんには通じたが、側で聞いていた教師には訝
しがられた。ある授業で教師が、地球が球体で自転していることは
キリスト教の宣教師によって日本に伝えられた、と言った時、おれ
は手を挙げて、
「山本さん、何で日本ではあっさりと地動説は受け入れられたん?
せやかて西洋では裁判までして地動説を認めなかったやんか」
「山本さんって私のことか?」
「はい」
「君はものを言う前にちゃんと言葉の勉強をしなさい!」
山本教師は腹を立ててしまい、おれの質問には遂に応じなかった。
おれは、自分の言葉使いに吃驚したからか、克服した筈の吃音に
また悩まされ始めた。ただ、かつては阻喪からだったが、今度は
ことばを失ったことによるものだった。我々は言葉をただ記号とし
て交わしているだけではなかった。ことばの遣り取りには序列意識
への本能的な執着が隠されている。目上の者への「ため口」は言葉よ
りその言い方が彼らのプライドを刺激した。敬語を使わず「おはよう」
と言っても素直に「おはよう」と応えてくれる「先生」は皆無だった。
それどころか、「誰に言うてんねん?」と凄まれたことさえあった。
つまり我々は敬語による「立場を弁えた」言葉しか持ち合わせが
無いのだ。それはいかなる共同体であれ、序列を超えた「立場を弁
えない」自由な議論など成り立たないということである。敬語を使
う者は、上司の過ちを指摘したり異なった意見を述べる時には、そ
れこそ切腹する覚悟で挑まなければならない。我々は「先生」の前
では、想っていることが言葉になっても何時も吐かずに飲み込んで
しまう。部下は上司のカツラがずれていることさえも畏れ多くて「
お告げする」ことが出来ないのだ。それをこの国では「奥床しさ」
だとか「惻隠の情」といい、美しい日本語だとさえ思っている。
おれの吃音は日に日に酷くなって「わが闘争」を支持してくれ
た北森さんでさえ「おい、大丈夫か?」と心配するほどだった。
「たった一人の反乱」は、武器の不具合から口撃ができなくなり、
「先生方」から逆襲を喰らい「口ほど」の負け犬と罵られて忍従の
日々を過した。幸いすぐに夏休みが始まって「城天」での路上ライ
ブを再開した。人前で歌うことへの不安はあったが、ことばを失っ
た自分にとって予め詩がきまっている歌は全く吃らなかった。
自信を取り戻すと、あんまり悔しかったので「吃りの唄」まで創っ
てしまった。それはフレーズの始めの発音が全て吃音を繰り返す、
どっどっどっ、どうしてだろう
かっかっかっ、かなしみさえも
たったったっ、たのしいのは
きっきっきっ、君がいるから・・・
そんな感じ。ほら、読むだけで曲になったやろ。これが信じられ
へんくらい路上オーディエンスに受けた。




