(1)
古より大阪は朝鮮半島の国との交流があり、市内には
百済という地名も残っているほどで、今も「在日」の人々
が多く暮らしている。近鉄大阪線の鶴橋駅を降りると辺りは韓国料
理店などが軒を連ねる「コリアタウン」が拡がり、「ここは日本か
?」と訝しく思いながら商店街を抜けると「疎開道路」と呼ばれる
通りを隔てた一角に、かつては「大日本印刷」と一際大きく書かれ
た社名の看板がビルの屋上に掲げられていて、「ここは日本だ!」
と訴えていたが、今ではそこもパチンコ屋になってしまった。
もともと鶴橋駅界隈は、戦後海のない大和地方の商人が鮮魚を求め
て近鉄電車に乗って大阪へ買い出しに来たことから闇市の魚市場が
生まれ活況を呈した。そしてその傍らには朝鮮市場もあった。子ど
ものころは馴染みのない香辛料の鼻をつく臭いに辟易したが、不思
議なもので韓流ブームでにわかに朝鮮文化が脚光を浴び始めると、
その臭いにも慣れてしまい気にならなくなった。その後、自家用車
が一般化して道路を走ってどこへでも行けるようになると、商人た
ちは重い籠を背負って電車を乗り降りする必要もなくなり、更にそ
の市場でなければならない理由もなくなり、魚市場は次第に廃れて
いった。それとは対照的に「コリアタウン」は韓流ブームを追うマ
スコミに頻繁に取り上げられて、今では全国に知れ渡る観光スポッ
トとして人気を集めている。
おれの家は、その「コリアタウン」から人通りが寂しくなる方ば
かりを歩いて10分ほどのところにあった。中学を卒業するまでは
北部の市外で暮らしていたが、いわゆる「家庭の事情」というやつ
で仕方なくここへ越してきた。高一の終わりだった。それまでは両
親と兄の四人家族だったが、兄は引越す前に東京の大学に行き、親
父は訳あって居なくなり、最後はおれと母の二人暮らしになってし
まった。親父は北部の新興都市で不動産業を営んでいたが、あの不
動産バブルの崩壊とともに泡のように消えてしまった。バブル期は
10人余りの社員を雇って寝る間も惜しんで働いていたが、それは
仕事熱心からと言うよりも金儲けに熱心だっただけだった。よく親
父は、ハンコを押すだけで大金が転がり込んでくるので、そのハン
コを「打出の小槌」だと言って自慢していたが、バブル崩壊の警鐘
が鳴り始めるとたちまち懐に仕舞い込んだ大金は泡と消え、自慢の
ハンコは負債を生むただのハンコになってしまった。さっそく返済
が滞り、やがて自宅にまで督促の電話が掛ってくるようになり、日
を追うごとに頻繁になり、ついには脅迫的になって、親父は家に戻
って来なくなって姿を消した。残された母は気丈に振舞い負わなけ
ればならない残務を熟して、最後には差押えられた自宅と家財を処
分するついでに親父との関係も躊躇うことなく処分した。そして、
躊躇いながら夜の仕事に就いた。
一夜にして変わってしまった生活は、まるで空を飛んでいる鳥が
突然魔法をかけられて魚に変えられ、胸ビレを羽ばたかせながら堕
ちていくようなものだった。運よく水面に落ちて命だけは残ったが
、水の中の暮らしは息が吐けなかった。学校から帰ると、母はクラ
ブ「ラグーン」へ餌を獲りに出た後で、水槽のような部屋には誰も
居なかった。朝になって眼を覚ますと、前の家から持ち込んだ唯一
のソファに窮屈な格好で横たわった母が、たぶん空を飛んでいる夢
でも見ているのだろう、小鳥の囀りのような鼻いびきをかいて酒臭
い息を吐いて寝ていた。
母は初婚だったが、親父は再婚だった。のちに経緯を知る者から
聞いたところによると、親父は母と一緒になるにあたって前妻との
間に一悶着あって、たぶん浮気だと思うが、結局前妻は子どもを置
いて出て行き、親父は下の根の乾かぬうちに、母をまるで辞めてい
った従業員の欠員を埋めるように採用した。5コ上の兄の人見知り
の性格はおそらくそんな生い立ちと無縁ではないのかもしれない。
しかし、一緒に暮していればそんなことなどまったく気にならなか
ったし、それどころかおれとの間にはまったくわだかまりはなかっ
た。隠し事のない普通の家族だと思っていたが、兄は思春期を迎え
る頃から家族の者に対して急にヨソヨソしくなった。そして、いよ
いよ大学受験が迫ってくると東京の大学を受験したいと言い出した
。母は、家から通える関西の学校にするように説得したが、どうや
ら兄は進学そのものよりも家を出ることを望んでいた。合格が決ま
って家を出る時、兄は母に何とも他人行儀なあいさつをして出て行
った。
「これまで育てていただいてありがとうございました」
人間というのは傍から見れば取るに足りないことに拘って、それが
人生の岐路で重大な決断を左右する契機になることだってあるのだ
。その後、たまたま家の電話に出たら兄からで、互いに近況を話す
ことはあったが、会うことはなかった。
親父は、いわゆる「団塊の世代」で、隣県の高校を卒業して大阪
の会社に就職したが、あからさまな学歴差別に嫌気がさしてすぐに
辞めてしまった。そして、職を転々としている時に友人に誘われて
建設業を手伝うと折しも建設ブームが始まった。人夫さえ集められ
ればいくらでも仕事のある時代で、友人の援助を得て人夫の請負会
社を起こした。高度経済成長の波に乗って業績は右肩上がりに伸び
、更に業務を拡げるために資材置き場として使うために買い取った
空地のすぐ近くに大学病院が移転して来る予定であることが分かっ
た。ひそかに買収されることを期待していたが区画から外れてガッ
カリしているところへ、薬局チェーン店の経営者という人物が現れ
て、その土地をぜひ譲ってくれと言うので、断るつもりで吹っ掛け
ると相手はあっさり応諾した。それは親父が寝る間も惜しんで稼い
だ年収の何倍もの金額だった。味を占めた親父は、さっそくその金
を元手にして近くの値上がりしそうな土地を買い不動産にも手を染
めると今度は不動産バブルが起こり、見様見真似の取引きでも利益
を上乗せして売ることが出来た。こんな楽に儲かるならと、一癖も
二癖もある人夫相手の請負業なんぞやめて不動産業だけでやって行
こうと決めた。おれは親父の機嫌がいい時に何度もこの自慢話を聞
かされた。しかし、実際は上手くいったのは始めの頃だけで、土地
が金になることよりも、金が土地を買うために使われることの方が
はるかに多かった。それでも親父は土地は値上がりする資産である
ことを信じて疑わなかった。他人は親父の成功を羨んだが、実は何
一つ手にしてはいなかった。つまり、何もかもが「途中」だった。
親父は仕事に明け暮れてほとんど家に居なかったし、母はそんな親
父を忘れることで繋がっていたし、兄とおれは親父の学歴コンプレ
ックスを晴らすために有名大学への進学を託されて毎晩学習塾に通
い満足に家族そろって団欒を囲むことさえなかった。たまに親父が
帰って来た時にはすぐに学校の成績を確かめて、悪いと怒鳴り散ら
した。親父はキレると自制心を失った。いつだったか、しばらく出
張で留守にするというので羽根を伸ばして遊び呆けていると成績が
落ちて、帰ってきた親父が激怒して振り下ろした拳がおれの耳に当
たって鼓膜が破れたことがあった。それでもおれは決して親父を恨
んだりはしなかった。それどころか、勉強をサボって遊んでばかり
いた自分が悪いと反省した。親父の学歴社会での辛い体験談は説得
力があったし、それに学校はもちろん世間さえも勉強のできる子に
は一目置いてくれることが分かっていた。やがて親父の鉄拳制裁に
も慣れて、自分の中ではそれは想定内の出来ごととして堪えるほか
なかった。そうは言っても親父の顔色を窺いながら暮らすのは決し
て楽しいことではなかった。今はただ受験競争を勝ち抜くまでの「
途中」なんだと自分に言い聞かせた。思い出すと今でもその時の緊
張が蘇ってきて独りの時に突然大声で叫ぶことさえある。家族の誰
もがそれぞれの「途中」を耐えながら歩いていた。