水中少女
私はいつしか、どこか深い、水の中で生きるようになった。
そこが湖の中なのか、海の中なのか、本当に水の中なのかも私には知れない。
ただ、自分の形をとどめている肌は今にも崩れ落ちてしまいそうで、その輪郭は朦朧としている。
半ば消えているようなその景色は、次第に私の意識の中へと甘く吸い込まれていく。そうして自分は、自分の意識を保ち続けている。
朧気な肌への干渉を、私はただ、水の干渉だと思う。時々、はっきりとしてくる意識に拍車をかけるように響く波の音だ。これもきっと、水の中であるから聞こえるのだ。
その音は、私の救いだった。
流れてしまいそうな私を、小さくぴんと張った指で、確実な場所へとひっかける。それはどこにあるかも分からぬ心を鍵裂きにするようにして、私を飲み込む意識の形だ。その波は、寄せては返す、人に似ている。
この世に生を受けて、形有るもの。
その、いつしか離れてしまって、流れ出した意識も、私なのだ。
自分の中にあった人の形、それを証明していた私の形も、今や波の中だ。それでも私は、生きているものと思う。
まだ流れゆくその意識を、波のおかげで感じ取ることが出来ている。辛いようなときに、自分の意識を餅みたいに取ってきて盾にするように、その意識、そっとした風に肩を支えられ、押されるかのように確かに感じている。
私は、水の中に入る前もこんな意識を持っていた。
それは遠い国より来た人のように、丁度こんな意識みたいな雰囲気で私の代行者を務める。焼けるような恋をした時などに、その意識の波が私に取って代わって走り去る。何とも分からぬ感情の旗のなびくまま、断じて傷つくまいと流れ去っていくのだ。
それでも、一人は寂しかった。
いつか誰か、同じ方角へ、同じ曖昧な感情に身を任せて共に走ってくれる人を心の底では待ち望んでいた。
それは、この、起こる波全てをすり抜けて私にそっと触れてくれるであろう人だ。
幾度となく過ぎ去った私の恋は、その美しさとも取れる棘を私に向けることが一度としてなかった。
無限に、波の飛沫に刺さって消えゆく言葉の数々を、私は遠く眺めているに過ぎなかった。正しさは等しく人を、酷く傷つけるものであるが、その弱いものは波に流されて消えるだけなのである。
ある秋の日に、私はもう人の来ることの殆ど無い冷たい浜辺で眠っていた。
心地よい、良い風の吹く日は決まってそこで眠っているのだ。自分をさらって洗い流す海風は、どこよりやってきたのかも知れぬ。
そんな風のほとりへ、彼はやって来た。
見知らぬ彼は、見しらぬ私に話をかけた。
どうにかして、いつか全ての人を愛せぬものかと私に問うのだ。
その問いは、その勢いを冷たい風が助けたのだということは、お互いにとって明瞭であっただろう。彼も、それは知っていたはずなのだ。
それは、できないことだと私は返した。
愛というものが人と共に変わっていく中で、人はまたそれを大切にするのであるから、それを求めて人は生きるのであるから、愛が一つとして存在し全てを救うことはないのだ。それが感情のことであるならば、尚更のことである。
そう、私は思って答えた。
事実、私の中ではいつもそうであった。人を多く愛してしまえば、愛された人の心がどこか見知らぬ場所ですれ違い、無数の傷を刻んでいく。それは誰も知ることのない、後になってその姿を現す静かな一瞬だ。
流れゆく人の心には、いつも歯止めがかけられない。
一つ一つ、言葉が渚を行く砂のざわめきと同じくして、溶けていった。
言葉全ての端々に寂しさの煮凝りがちりばめられて飛んでいく。
風の中に、優しさの断面のかたえを振り向けた時、温かさが舞って行った。彼は、私を全て見透かしたみたいにほほえんで去っていった。小指の一端でもいいから、今の彼の素肌に触れてみたかった。
それでも、私のほのかな望みを裏切るようにして、彼は次の日に死んでいった。それは、自殺であったそうだ。
私は、彼のことを私が殺したのだと思った。
昨日の去り際のほほえみが、実はもう死ぬよと言っているように見えてきたのだ。私は、泣いた。私の心を磨り減らして、直にほんの少しひっかかっていた何かが、確かにもう、どこかへはがれ去っていってしまったのだ。
それは水に溶けずに、赤く深い血を撒き散らして私を染めていった。もうどこから湧いているかも分からぬ悔しさも相俟って、血よりもっと大きくて黒いものが自分をおおっていく感じがした。
私は知らなかったのだ。
私はまばたきの内に、開きかかった瞼の裏を刹那の閃光が射抜き去っていくように、入り込んだ細い棘一つに身体の奥底まですっきり犯されていたのだ。そしてその棘一つが、自分の忌み嫌い、遠ざけて見てきた愛というものだということをも同時に悟ったのである。そんな、たかだか棘一つが全ての人の心に等しく潜んでいて、輝いて見える星一つすらも、犯していくのだ。
その感情は、そうして星を覆って、それを妖しく輝かせる。それに涙を流すように思って、私は生きているのだ。
ーーー
それから、私は水の中で生きていた。
未来が変わるにつれて過去も変わるように、彼の温かさが今の私の形であった。
朧気に見えている自分の姿の輪郭は、それに酷く似ていると思うのだ。突き刺さって、もう抜けそうにない棘と、私に触れた全ての言葉がいつしか温かく宿っていた。
彼はきっと、それを知っていて、私を信じて死んでいったのであろう。私の心の足跡から、同じ速さで絶え間なく変わるその心に、私は生きたいと思うのだ。
今はもう、心を染めた毒の分子一つ一つが私をそっと抱きしめてくれる。それは、水の中にいるからかも知れない。それでも、私はすぐに水面から顔を出して、水面に映っている星空に目を落とした。
私もほんのちっぽけな棘に毒された、ほんのちっぽけな星だった。
これでこそきっと、誰とも知れぬ人の涙を、人知れずして誘う私なのであろうーーー
私は、深呼吸をした。体中を満たす、氷のそっと胸を擦ったような涼しげな感動に、私は生きたいと思うのである。
そう思うが故に、私は生きているのである。
「生きたい。」