温泉に湧くモノ
温泉回ですが、色気もへったくれもないほぼ説明回という。
下層にて温泉が発見されて数日。
それなりの広さを整え、男女別に分けられた温泉では、一つの事件が発生しそうになった。
覗きである。
ただし、しそうになった、という通り、未遂である。
そういう意味ではまだ弁明の余地もあるかもしれないが、覗こうとした相手が悪かった。
神である。
アルテミスであった。
「……まあ、未遂だったし、このぐらいにしておかないか」
大急ぎで造られた割にはよく出来ている女性用脱衣所は、今は関係者により封鎖されている。
この一件が片付けば、参拝客らの入浴も再開出来るので、解決は早いに越した事はないと、ウノは思う。
現場に居合わせたウノだが、一応湯冷めしないように、麻のシャツとズボンはちゃんと着用済みだ。
「ですが! 乙女の柔肌を覗こうとした罪は万死に値します! このまま晩餐に供するべきです!」
タフタフと短い前脚を地面に叩きつけるのは、怒れる子熊アルテミスであった。
「と被害者女性は言ってるんだが、どう思う、マ・ジェフ」
「ヒィン!?」
そして、容疑者というか間違いなく犯人である冒険者、マ・ジェフは……今は鹿の姿をしていた。
力をほとんど発揮出来ない、動物の形を取っているにも関わらず、人間一人を動物に変えてしまう辺り、アルテミスの怒りの程がしれようというモノだった。
アルテミスの恐ろしい提案に、マ・ジェフが後ずさる。
マ・ジェフを弁護すれば、本当に軽い冗談だったのだ。
久しぶりにダンジョンにやってきたマ・ジェフとハイタンは、温泉が発見されたと聞くと、それは俺達も入ってみたいと、入浴を希望した。
もちろんウノも歓迎したが……。
「向こうに女湯があるなら、それを覗くのは男の浪漫だろ!!」などと言い、ウノやハイタンが止める間もなく仕切りに手を掛けたところで、向こう側にいたアルテミスの怒りに触れたのであった。
そもそも、向こうに声が丸聞こえなのに、堂々と覗き宣言をするのもどうなのか。
しかも、覗こうとした向こうにいた相手は、子熊と小さな雌ライオンである……覗こうとした向こうにいたのは人間ですらなく、とことん残念なマ・ジェフであった。
そんな訳で、脱衣所を一時封鎖して、アルテミスの怒りを解こうとしているウノ達だ。
イシュタルは笑って許したが、アルテミスの怒りは収まる気配がなかった。
「……いえ、これを食べてはお腹を壊すかもしれませんね。ここは、かつてのように犬に追わせましょうか」
子熊の視線が、ウノを見据える。
「え、そこで俺を見るの!?」
「幸い、ここでの私の僕達も、その適性がありますし」
アルテミスを信仰するのは、犬頭達である。
「アルテミスも落ち着いて。ただ見せしめとしては悪くないから、今日一日はこの姿のまま暮らしてもらおう」
「ヒンッ、ヒゥン!?」
「おい、マジで!?」とでも言いたげに、鹿が鳴き声を上げた。
「自業自得だ、諦めろ。どうせ一泊するつもりだったんだ。それぐらい、甘んじて受けろ」
ハイタンが非情な一言で締めた。
この日から、温泉の脱衣所には注意書きが張られるようになった。
覗き厳禁、違反者は動物変化の刑。
……もちろん、それから覗きをしようなどという不届き者が現れる事は、少なくとも今のところはない。
……などというささやかな事件もあったりする温泉に、ウノはこの日も身を沈めた。
ここは外に繋がっており、オレンジ色の夕焼け空が覗く事が出来る場所だった。
今はいいが、雨が降ると寒いので、屋根を設置する案も出ている。
つくづく、仕事には困らないダンジョンであった。
「それにしても、なんか変なのが湧いてきている気がする……何だ、これ」
湯に肩まで浸かりながら、ウノは白い湯煙を眺めていた。
時折、その中にふわりと、薄い青や赤の靄が混じっているのだ。
触ると、ほんのりと冷たかったり、温かかったりする。
首を傾げていると、仕切りの向こうからバステトの声が響いてきた。
「それは精霊にゃー」
「これが? 羽とか生えた奴じゃないのか」
「それは小妖精にゃ。精霊は名前のない、精気みたいなモノにゃー……」
バステトの声には力がない。
温泉に完全に身を委ねて、緩んでいるのだろう。
ウノの前にスイー……と泳いできたのは鷹のシュテルンで、彼女はパクリと目の前を漂ってきた青い精霊をクチバシで捕らえた。
「主様、食べてもあまり、美味しくありません」
ザバリ、と勢いよく向こうで水音がした。
「ちょっ、てるん食べちゃ駄目にゃ!? っていうかなんで男湯に入っているのにゃ!?」
「問題ありません。鳥ですから」
シュテルンは平然としていた。
ウノとしても、まあ、実際鳥だからなぁである。
「アルテミスが激怒した件が台無しにゃ!?」
「んー、まあ、シュテルンが気にしてないし、いいんじゃないか? それでこれは、害はないのか?」
「有害どころか有益にゃー……多分、湧いてきたのはウチキら神が温泉に歓喜したのに、引き寄せられたのにゃあ。ウチキ一柱じゃこうもいかないにゃあ」
「……六柱分だもんなあ」
そりゃあ、精霊も湧くってもんである。
なお、神々は暇さえあれば温泉に入るので、参拝するよりむしろこちらの方が、直に神と遭遇出来る確率は高かったりする。
「有益というのは、どういう事でしょうか。腹の足しにはなりませんが」
シュテルンが、今度は黄色い靄をついばむ。
精霊の色は大雑把に、赤、青、黄色、緑になっている。
「だからてるんは食べ物から離れるのにゃ。青っぽいのは水の下級精霊なのにゃ。温泉だから、一番多いのにゃあ」
と言う事は色と照合すると、火、水、土、風といった所なのだろう。
「下級って事は上級もいるのか?」
「上級精霊は、もうちょっと形がちゃんとしてるにゃ。火蜥蜴とか風精とか聞いた事はないかにゃー」
「ああ、そういうのか」
この靄には意志はあまり見受けられないが、その辺りが上級下級の差なのだろう。
「それで有益っていうのは?」
「そりゃあ、例えば水の精霊と仲良くなっとけば、何となく水を使いたくなった時、水を出してくれたりするのにゃ。こういう交渉を行うのが、精霊魔術師にゃ」
「魔術師……!」
なり方とかあるのだろうか。
それは是非、バステトに教わらねば。
ウノは立ち上がり、男女の湯を分けている仕切りに向かった。
まるでそれを見抜いたかのように、バステトの声が向こうから響く。
「はい、てるん、ウノっちを落ち着かせるにゃー」
「主様、そのまま女湯に突撃すれば、本当の犬にされてしまいますよ」
「はっ!? そうだった」
「女性の姿を眺めたいのでしたら、私を存分にご覧下さい」
再び湯へ身体を鎮めたウノは、さあ、と頭を上げるシュテルンの背中を撫でた。
なお、鳥の体を鑑賞して興奮する趣味はウノにはない。
「……まあ要するに、放っておいても問題はないんだな?」
「んー、そうにゃー。火の精霊にしても、このレベルだとちょっと温かくしたりする程度だからにゃあ」
そして風呂上がり。
ウノ、シュテルンと、バステトがそれぞれの脱衣所から出たのはほぼ同時だった。
「いい湯だったにゃあ……しかしこうなると、コーヒー牛乳やフルーツ牛乳がないのが、悔やまれるのにゃ」
「……飲み物なんだろうけど、ないなら作ればいいんじゃないか?」
「言われてみればその通りにゃ。ここはカミムスビと手を組んで、新たな商品の開発を頑張るべきなのにゃ!」
かくして、新たな飲み物が温泉前で販売される事になるのだが、それはまた別のお話。