魔力を操ってみよう
「それじゃ次は魔力の練り込みなのにゃ」
バステトはおそらく魔術で作ったのだろう、数人分の料理が入りそうな、ほとんどボウルのような深皿を触媒の隣に置いた。
その中には、なみなみと水が注がれている。
飲む訳ではないだろう。だったらコップを用意するはずだ。
「深皿なんて用意して、どうするんだ?」
「魔力放出と操作のトレーニングなのにゃ。これに片手をつけてみるにゃ」
言われた通りに、ウノは深皿に右手を入れる。
水はひんやりと冷たいが、冷たすぎるという事もない……やっぱり、ただの水だ。
そのまま、深皿の底に手を置いた。
「これで、いいのか?」
「にゃ。手を動かさないまま、渦を作るのにゃ」
「は? 掻き混ぜずに?」
しかし、手を動かさなければ、渦どころか波すら立ちそうにないのだが。
戸惑うウノに、バステトは説明を続けた。
「その動きが、ウノっちから放たれる魔力なのにゃ。手の平は底へつけたままにゃ。そしてそのまま、見えない手で掻き混ぜるイメージなのにゃ」
まあ、ちょっと分からないでもない。
子供の頃に(そして今でも時々)幽体離脱が出来ないかなと、眠る間際に練習をした事がある。
……成功した試しはないが。
せめて、コツだけでも教えてもらえないだろうかと悩むウノの心を見透かしたように、シュテルンが声を発した。
「では、お手本を見せてくれませんか?」
「にゅむ。参考になるか分からないけど、やってみせるにゃ。ウノっちちょっとどくのにゃ」
「あ、ああ」
ウノが手を引っ込め、代わりにバステトが褐色の小さな手を水につけた。
そのまま、そこに手をつく。
その様子に、シュテルンが首を傾げた。
「猫なのに水は大丈夫なのですね」
「にゃ、ウチキはお風呂も大好きなのにゃ。コップのお風呂につかる仔猫動画とかたまらんにゃあ」
「相変わらずこの神様、よく分からない事を時々言うなあ」
「とにかく刮目して見るにゃ! これが魔力のにゃにゃにゃにゃにゃあ!?」
深皿の中の水が渦を描いたかと思うと、凄まじい勢いで回転し、当然のように皿から飛び出した。
結果、一瞬にしてバステトはずぶ濡れになった。
……薄衣の衣が褐色肌に張り付き、本来なら少し色っぽい展開にでもなりそうなのだが、切り揃えた前髪から水を滴らせるバステトの様があまりに悲惨で、ウノとしてはそれどころではなかった。
しばしの沈黙の後、シュテルンが一言、呟いた。
「勢いが強すぎます」
「ううう、びしょ濡れになっちゃったにゃあ。薄衣美少女の濡れ姿とか、エロいのにゃ。テンプレツンデレキャラならパンチの一発も食らわしてるにゃ」
「自分でやっておいて、それは理不尽というモノです」
「まったくその通りにゃ。もー……乾燥させるにゃ」
バステトが身体を振って、水を弾き飛ばす。
「うわっ、冷てっ!」
「細かい事を気にするなにゃあ」
そして、やや強めの温風が吹いたかと思うと、バステトの身体を乾かしていった。
「ふぅ……お風呂上がりみたいになったにゃ。フルーツ牛乳を所望するにゃ」
「そんなモノはありません。それよりも気になるのは、神は触媒を使わないのですか」
「一応使ってるにゃ。この場合の触媒は、ウチキ自身なのにゃ。
人間の身体を四元素で説明すると、
全身から発する熱が『火』。
全身を巡る血液は言わずもがな、涙や唾液といった体液全体の『水』。
分かりやすい呼吸はもとより、実はやぱり全身に行き届いている空気である『風』。
筋肉、脂肪、臓器に骨といった肉体そのモノは『土』。
あと『光』と『闇』は精神に属するのにゃ。
ウチキはこれらを触媒としてるけど、素人にはお勧めしないにゃ。使いすぎると死ぬのにゃ。
ちなみに五元素のパターンもあるけど、今回の魔術には関係ないから割愛させてもらうのにゃ」
「まあ、熱がなくなったら人は死ぬよな」
「そういう事にゃ。……ま、とにかくこんな風に出来るようになるのにゃ。温風は置いておいて、魔力放出のお手本は示したのにゃ」
バステトは、空になった深皿を指差した。
すると、再び深皿を水が満たした。
「なるほど、手本は見せてもらった」
しかし、ううむ……。
皿の底に手をつきながら、ウノは心の中で唸った。
これは、何の助けにもなりそうにない。
出来るという事は分かったが、やり方はサッパリ分からないままなのだ。
「ウノっちも鍛錬あるのみ……と言いたい所だけど、まあ手本としては、ウチキとしても微妙だったと思うにゃ。で、実はもっと簡単な方法があるにゃ」
なんと、バステトにも自覚があったらしい。
「え、じゃあ何でそれ、使わないんだ?」
「にゃー……」
ウノの、当然の疑問に対し、何故かバステトは警戒の視線をシュテルンに向けていた。
何だか少し、及び腰のようにも見えた。
「はい?」
「てるん、これから教えるのは、単純に魔力の扱い方のレクチャーにゃ? クチバシでつついたり、鉤爪で裂いたりは無しなのにゃよ?」
「……卑猥な事ではないのでしょうね?」
何だか、シュテルンの周囲の空間がぐんにゃりと歪んだように見えた。
……本気の殺気だ!!
バステトの黒髪が、猫耳が、尻尾が、あまりの恐怖に逆立っていた。
「ほら、目! 目が怖いにゃ!? ちょっとシュテルンの主と手を重ねるだけにゃ! セーフ! セーフのはずにゃ!」
「ぐぬぬ……分かりました。私ではなく、主様の了承を得て下さい」
「と、という事にゃ。さ、さて、始めるにゃ……だから、その目が怖いのにゃ、てるん!」
ビクビクしながら、バステトも水の中に手を突っ込んだ。
そして、その小さな手の平が、ウノの手の甲に重ねられる。
すると、じんわりと少しだけ温度の高い水が自分の手に流れ込んでくるような感覚を、ウノは覚えた。
その『水』はウノの手から溢れ、放射状に広がっていく。
放射状に広がりながら、架空の『水』はゆるりと回転をはじめ、現実の水へと干渉――渦を描き始めた。
「おお……!?」
「今はウチキが、ウノっちの手越しに水を回してるのにゃ。この感覚をウノっち自身がやれるようになるにゃ」
「な、なるほど」
「訓練としては『補助輪無しの自転車で、いつの間にか後ろで支えてくれていたお父さんがいなくなっていた』法にゃ」
「長いな」
「長いです」
「でも、実際、これが一番効率がいいのにゃ!」
そもそも自転車って何だよ、とウノは心の中で突っ込んだ。