公爵邸、早朝の事件
『聞くがよい』
カムフィスが厳かに告げた。
「は、はい……っ!」
自分達の祈りは通じるのか……それすら考える余裕もなく、オーネストは一心に目の前の神に祈り続けていた。
『ダンジョンの主……すなわち、私の上位にいる御方からの、伝達が入った。戦わないというのならば、その意を汲もう。疾く立ち去るが良い。貴方達の主にも、こちらから話をつけよう』
それまで、全身にまとわりついていた重圧から、一気に開放される。
助かった、のだ。
神の慈悲……いや、今の話では、あのダンジョンの長とも呼べる人物の口添えなのだろう。
「あ……ありがとう、ございます!!」
オーネストは神と、ダンジョンの長に心底感謝した。
少なくとも、この地が滅びる事は、回避された。
ならば後は、速やかにこの場から退散しなければならない。
それが、この慈悲の条件なのだから。
『ただし、この件は領地全ての民に知らせる事とする』
「……はっ!」
オーネストとしても、異存はない。
そのぐらいは当然だろうとすら、思える。
『また、戦わぬとは言え、剣を向けた事は事実。故に、罰を与える』
「……っ」
オーネストの身体に緊張が走る。
それは、国は守れるが自分達は死ぬという事だろうか。
『案ずる事はない。ダンジョンの主は無益な死は好まぬ。なので、呪いを掛ける事にする』
カムフィスの言葉が途切れると、オーネスト達の身体を、赤い光が包み込んだ。
しばらく明滅を続けていたが、やがてそれも消えてしまう。
「……?」
オーネストの身体には、特に異常はない。
周りの部下達を見渡しても、やはり同様だ……いや。
ガラン、と金属質な音と共に、甲冑が地面に落ちた。
オーネスト自身のもだし、周囲の騎士達の装備も同様だ。
『貴方達は、これからしばらく武器を手に取る事が出来なくなる。また鎧も、装備出来なくなる。一生ではないが、それでも今日明日解けるモノではない』
オーネストの顔から、再び血の気が引いた。
それは、領地を守る剣であり盾でもある騎士という存在の否定だ。
戦えない騎士など、無駄飯ぐらい以外の何物でもない……と思いきや、まだ救いは残っていた。
『それでもなお、この地を守る意志があるというのならば、素手で戦うべし』
そう、拳と足はまだ残してもらえているのだ。
ならば、やりようはある。
まずはさしずめ、城下町にいくつかある素手格闘の道場から指導を受けるか、衛兵の詰め所で教えを請うか辺りから始めるべきだろう。
武器を扱えないという事は、その技術はドンドン鈍る。
素手での道は残されたとはいえ、神に剣を向けたのだ。
騎士の道を断念する者も多く出るだろう。
それはとてつもなく痛い話だが、それでもこれで済んだと喜ぶべきなのだろう。
『――話は、以上である』
カムフィスの宣言で、オーネストは我に返った。
「ぜ……」
カムフィスの言っていた事を思い出し、急いで立ち上がって声を張り上げた。
「全軍撤収!! 急ぎ、オーシンに戻るぞ!!」
「ハッ!!」
それはもう凄まじい速度で、オーネスト達はその場を立ち去った。
天幕や準備していた糧食も全部、置いていったのは、少しでも速くこの地から離れるためだ。
――数時間後、多数のモンスター達が現れ、これらの物資は全て回収した。
城下町オーシンの、コバルディア公爵邸。
早朝の寝室に、公爵の怒声が響き渡った。
「そんな馬鹿な話があるか!!」
「ですが、事実なのです!! このような問題、私どもでは対処が出来かねます!!」
悲鳴を上げているのは、公爵邸の執事だ。
普段は冷静沈着な壮年の男なのだが、この時は違っていた。
主である公爵に怒鳴り返すなど、明らかに尋常ではない。
逆に、公爵は冷静さを取り戻す事が出来た。
「……本当に、本当なのか?」
コバルディア公爵は、執事に聞き返した。
何せ、執事の報告は耳を疑うような内容だったのだ。
「早朝から、こんなホラで閣下を和ませる趣味はございません」
「まったく和みはしないが、だとしたら事態は由々しき事だ。とにかく早急に、受け入れの準備を整えろ」
女中達に自身の服を脱がせながら、執事に命じる。
これは、自分も急がなければならない事態だ。
「出来うる限りの事はいたします。ただ、何しろ事前の報せも何もありませんでしたので、かなり簡略化されてしまいますが、よろしいでしょうか」
「構わん。このまま庭で待たせるよりは遙かにマシだ」
執事が部屋から出ていき、再びコバルディア公爵は困惑する。
「しかし……どういう事だ。王が、こちらに来ている、だと……?」
あり得ない。
まず、用事があるならば自分が呼ばれるはずだ。
地位の高い王の方から出向くなど、前代未聞である。
加えて、仮にそういう事態があったとしても、事前の連絡を行わないなど、やはりこれもあり得ない。
つまり……何らかの、尋常ではないことが起こっているという事だ。
思案するコバルディア公爵の耳に、扉の向こうから揉み合うような声が響いてきた。
「お、お待ち下さい、陛下……! まだ、閣下は支度も何も……」
「構わん! こちらは急いでいるのだ!! コバルティア公爵は、ここか!!」
バンッと両開きの扉が開き、立派な白い髭を蓄えた老人が怒鳴り込んできた。
冠は省いているが、手には王錫を持つこの老人こそ、エンベル王国の国王、その人であった。
「へ、陛下!? 何故、ここに……」
「そんな事は、どうでもいい。とにかく、急いで支度をするのだ」
「陛下、お言葉ですが、閣下は正にその着替え中でして……」
おずおずと執事が口を挟むのに対し、王は怒鳴り返した。
「だから、のんびりしておらんで、さっさとしろと言いに来たのではないか!! コバルディア公爵、貴様のその両手は案山子か何かか!? 人任せにせず、さっさと自分で着替えよ!! ……よいか、事は国の存亡に関わる問題だ。これが、焦らずにいられる訳がないであろう」
「く、国の存亡?」
女中を振り払って、自分で礼服に袖を通すコバルディア公爵。
他国からの侵略でも起こったというのだろうか。
いや、それでもやはり、王がこちらに出向くという事はないはずだ。
では、一体何があったのだろうか……?
「説明は現地に着いてから行う。よいか、五分で着替えを済ませ、外に出るのだ。馬車を待たせてある。すぐに出発するぞ」
そういうと、王は踵を返した。
外で待つ、ということだろう。
「ど、どちらへですか?」
「この城下町の大聖堂だ。そこに、今回の一件の大きな問題となっているもう一人を、待たせてある」
冷たい視線でコバルディア公爵を見てから、王は部屋から出て行った。
……何が起こったのかは分からない。
しかし、何だか途轍もなく嫌な予感がするコバルディア公爵であった。