ティンダロス
「ティンダロス……」
「異界の生物の名にゃ。性質は今話した通りで、この能力を獲得すれば、ダンジョンまでも一瞬なのにゃ」
「だけど、デメリットもある、だろ?」
ウノの問いに、バステトは頷いた。
「然りにゃ。まず空腹。常に飢えちゃうにゃ」
「それぐらい、我慢出来……いや、難しいか。飢えはきついな」
「飢餓の苦しさは主様はよくご存じですからね」
シュテルンの言う通りで、ウノは貧民街の生まれだ。
大きくなり、冒険者ギルドで稼げるようになってからはそうでもないが、子供の頃は空腹などしょっちゅうだった。
少ない食糧を数日に分けて食べたり、水で腹をごまかしたり、街の外にこっそり出て食べられる草で飢えを凌いだりもよくしたモノだ。
アレをまた経験するのかと思うと、ウノの気も少々重くなってしまう。
「次に、とても醜悪になるのにゃ。絶えず得体の知れない有害粘液を分泌するのにゃ」
醜悪なのはまあ、いい。
別に今だって、それほど自慢出来るような容姿ではない。
これが今、そこで傍観している王子のような外見をしている鍛冶屋みたいな奴ならともかく、だ。
しかし粘液とは……。
「ダンジョンが汚れるのは、ちょっと困るな。せっかくマルモチが綺麗にしたのに」
「にゅむー」
ウノと共に、ジャケット形態に擬態しているスライム・マルモチも唸った。
「主様、そういう問題でもないと思うのですが」
シュテルンが突っ込む一方、珍しくバステトはウノの天然をスルーしていた。
それだけ、余裕がないという事か。
「さらに、恐ろしく不浄であり、目を開けるのも辛いぐらいの悪臭を放つのにゃ」
「……聞けば聞くほど、酷い生物だな」
頑張って清掃したダンジョンもぶちこわしにしかねない生物である。
存在するだけで、臭くて汚い粘液まみれのダンジョンにしちゃわないか、ウノは不安になる。
「っていうか、味方に襲われないかそれ」
「にゃー、その辺りは先に皆に話しておくのにゃ。ウチキやイシュタルだけなら、こうしている今でも向こうと連絡が取れるからにゃ」
「そうしてもらえると、助かる」
「そして最後に一番肝心にゃのは」
コホン、とバステトは咳払いをした。
「一度ウチキが進化を施すと、元の姿には戻せないって事にゃ」
「一方通行か」
「まあ、元々それが正道なのにゃ。だから、これはとても重要な選択肢なのにゃ」
ウノは考える――
ウノが駆けつけるまでもなく、今ダンジョンにいる連中で攻めてきた連中を排除出来るかもしれない。
これはない。
ゼリューンヌィやユリンの実力を疑っている訳ではなく、それも込みでバステト達は「ヤバい」と言っているのだ。
条件も酷い。
飢える、汚い、臭いと三重苦の化物化。
トッピングで、人間に戻るのも不可と来たもんだ。
何だかんだ言っても、これまでの付き合いで――口に出すと絶対調子に乗るので言わないが――バステトの事はそれなりに信用はしている。
この代償を支払ってやっと、現場に間に合うのだ。
しかもその後、敵を排除出来るかどうかは、別問題。
だが、やらなければ、家は奪われる。
祭壇は破壊され、神々は消え、中のモンスター達もおそらく皆殺し。残った人間も殺されるか、生き残っても関与を疑われてしょっ引かれる。
ウノ自身はここでは生き残れるが、世間を騒がせた罪でお尋ね者になるかもしれない。
いや、なるだろう。
ただ、自分の住処が欲しかっただけなのに、だ。
うん、これはないな。
結局の所、単純に二つに一つなのだ。
化物になって徹底抗戦か、間に合わずにダンジョンを奪われるか。
やるのかやらないのか。
――この間、一秒にも満たない。
「いやまあ、それはもう決まってるんだけどな。――やってくれ」
「決断早いにゃ!? そこはもうちょっと悩む所にゃ」
普段とボケとツッコミが逆になっている、ウノとバステトであった。
ただ、今の二人はこれでどちらも大真面目である。
「そんな迷うような余裕があるなら、こんな所で話してないで、ダンジョンに向かって走ってるっつーの。あー……だけど、すまんシュテルン」
「いえ、主様が望まれるのでしたら、どのような姿になろうと、私の愛は変わりません! 汚かろうが、臭かろうが全然大丈夫です! むしろ私を食べて、飢えを満たしてくれても!」
そしてシュテルンは、ぶれない雌であった。
「いや、それはさすがに遠慮したい」
長い付き合いの相棒だ。
本人が望んでいようと、食用にするのは抵抗があった。
「そうですか」
そして拒否されようとも、シュテルンはまったく気落ちもしない。
この程度で凹むほど、柔な精神力は持っていなかった。
シュテルンは首を、バステトに向けた。
「しかして、神。確か私もすんごい鳥になれるという話があったと思うのですが」
「進化名『シャンタク』にゃあ。とてつもない巨体で、羽根の代わりに鱗が生えてるのにゃ」
「聞いた感じではドラゴンのようですね」
「今の説明だけだと、近いにゃあ。実物は何とも形容しがたいモノだけどにゃあ」
「ではそれを――」
「却下」
二体の会話を遮ったのは、ウノだった。
「却下だそうです」
ならば、シュテルンは主に従うのみである。
「ちょっ、ウノっち」
「だってシュテルンがそんな大きくなったら、肩に乗せられないだろ」
「なるほど、それは確かに」
「……粘液で、足が溶けちゃう線も濃厚だけどにゃ」
「何より、俺が化物になるのは構わないけど、シュテルンになられると困る。俺はコイツほど許容範囲は広くないんだ。俺の嫁になるって言うんなら、初志貫徹、人化の方向で行ってもらわないと」
「確かに……」
コクコクと頷くシュテルン。
しばし間を置いて首を傾げた。
「……んん?」
「にゃ?」
非常に珍しい事だが、目を丸くして、ウノを見た。
バステトも同様だ。
「あら、まあまあ」
意味に気付いたエルタは微笑ましいモノを見るような目をし、イシュタルは、ダンジョンのある方角に視線を向けた。
「さて、どの神で祝福するべきかしらね。神父ならちょうどダンジョンに今、いるけど」
「あ、あ、ああ、主様それはっ!?」
「ちょっ、肩の上で暴れるな!? 羽! 羽が顔に当たってる!!」
ウノの周囲は、シュテルンが暴れたせいで羽まみれになっていた。
「指輪はいるか? つい最近作った事もあるし、祝儀代わりに、時間をくれるなら用意するぞ」
鍛冶屋のゾーンは、やれやれと肩を竦めた。
「まあ、俺が人に戻れないってのなら、これぐらいはな」
ガシガシと頭を掻く、ウノであった。
「にゃー……じゃあ、ウノっちの進化はもう、確定でよいのにゃ?」
「ああ、さっきも言っただろ。っていうかさっさとやってくれないと、迷いが出そうだから、早くやってくれ」
「にゃー……ウノっちの体内に存在する、神性物質を活性化させるのにゃ。これはこちらの世界では無害にゃけど、活性化させると変質するのにゃ。後はウチキが方向性を与えると、進化が成立するのにゃ」
「あ、そりゃ、前に一度聞いた、『アレ』とは別の方向性か」
「そうにゃ」
ダンジョンで採れた作物には、バステトやセンテオトルといった神々が関わっており、どれも神性物質が含まれている。
その最たるモノが、カミムスビが生み出す『生命の水』であろう。
魂を奮わせる水であり、嘘偽りなく身体に活力を与える効果がある。
また数日から数年レベルでの延命効果、病を治す力もある。
他の農作物なども似たり寄ったりで何らかの力はあるモノの、大抵の効果は数日程度だ。
食べ物という性質上、体内に宿る神聖物質は消化、もしくは排泄されてしまうからである。
バステトが呼び出した件の黒山羊の串焼き肉にもそれは適用される。
その効果は、治癒の促進と体力の回復。
ダンジョン周辺の状況がきな臭くなってきた辺りで、ウノはバステトからこの食物のある効果を聞いており、『アレ』とはその事を指していた。
「『アレ』のお陰でダンジョンもしばらくは持つと思うけどにゃー……祭壇破壊されちゃ、それもご破算なのにゃ」
そして、バステトはウノの体内に残る神聖物質に干渉する事により、『進化』を与えようとしていた。
「さあ、始まるから動いちゃ駄目にゃ」
鉄臭い部屋の中に、無音の圧力が放たれる。
発生源は、バステトが指を突きつける先――ウノだ。
その身体が、光を帯びる。
「これは……」
ウノは、自分の手を見つめた。
白く色が沈んだかと思うと、黒く輝く。
「光……? いえ、闇……?」
シュテルンの声が聞こえた。
暗く深い光に、眩く輝く闇。
形容しがたい明滅を繰り返し、次第にウノは己の姿がぼやけていくのを自覚する。
「……イノグ……トブ=ニグ……ケアワ……ミタマエ……」
やがて、五感の感覚すら薄れてきて、白と黒の世界の中で、バステトの呟きだけが響いていた。
「っ……」
自分の身体が、人の輪郭から外れていく感覚。
今、ウノの身体は再構築されているのだ。
そして――白と黒の世界が同時に弾け、世界の色が戻っていく。
……『進化』は、完了したようだ。
「主様……!!」
「おう」
ウノは、細めていた目を開き、自分の手を見た。
どうやら、指は以前と変わらず五本ある。
「主様?」
「……んん?」
疑問系の声を放つシュテルンに、ウノも首を傾げる。
粘液なんて、分泌されていない。
それに話に聞いていた悪臭も、していないようだ。
ウノは、バステトを見た。
「神様、どういう事だ?」
「にゃ、にゃあー……?」
バステトも、困惑しているようだった。
どういう事なのかは待て、次回という奴です。