背負った重みと旅立ちの日
父親、ヨハネスから学園への入学命令書を渡されたのは、ヒルダさんの妊娠を聞いた翌日のことだった。
ーー知っていた。
普段の勉強の時に、この世界の常識は学んでいる。
早いうちに家を出て学園に行くことになると、覚悟していたのだ。
しかし、実際に命令書を渡されるとやはりと言うか、手が震える。
俺はちゃんとやっていけるのか…。胸中は不安でたまらないのだ。
外にも殆ど出たことのない身で、学園で帝王学のようなものを学び、前世ではやったことのないような貴族間のパイプ作りを行う。
本当にやっていくことが出来るのだろうか。
そう思うだけで吐きそうになる程のプレッシャーに体が押し潰されてしまいそうだった。
この世界では、才能は目に見える。
以前あった『白の巫女』への謁見といった才能を見られる機会というものは貴族の誰もが持っているものだ。
そんな中で、才能がまるで無いというのは、稀なことであるらしい。
つまり、才能に溢れる学生達に囲まれ、生活することが決定しているのだ。
ただでさえアンジェリカ一人に差を見せられ、嫉妬しているような俺に、そんな環境が耐えられるのだろうか。…腐らずに居られるだろうか。
いや、大丈夫だ。
努力は報われる。落ちこぼれにならないよう頑張ればいいだけだ!
出発は翌月。
かなり早急だけれど、荷物など最低限で問題無い為、準備はほぼ不要だ。
移動もそれほど時間がかからないらしい。
とはいえ、心の準備はまだまだ不足しているし、片付けておかなければならない問題が幾つもある。
まずは、アンジェリカの対応を考えなければ……
「アンジェ。お願いだから離してよ。」
「嫌。行っちゃダメ!一緒にいるの。」
「僕もアンジェと一緒にいたい気持ちは一緒だよ!でも、お願いだから、手を、離して!」
「ジークがいなくなるなんてやだぁ!!」
「そうだね。一緒にいれる時間を大切にしよう。だけど、今だけは手を離して!!」
「ジーク…おねえちゃんのこと嫌い?」
「アンジェ…好きだ!愛してると言っていい!!僕たちは心の中でいつも繋がっているんだ!だから、大丈夫、手を離して!!」
「ジーク…大好き!!」
「あ、待って、来ないで!抱きつかないで!!あ、ああああ!!」
ーーー
「俺が冒険者だった頃の話だ。食料の配分を間違えて、次の街にたどり着く前に食料が尽きた事があった。その時、近場にあったキノコを採取し、仲間と共に食べたのだが、それは浣腸作用のあるキノコでな…」
「あ、大丈夫です。父さま。僕は大丈夫ですから。」
うん、大丈夫。なにも、問題はなかったのだ。なにも、なかったのだ。
「アンジェと一緒にいく事は、出来ませんよね。」
「無理だ。制度上の問題もあるが、お前だけでなくアンジェリカまで連れて行かれたらヒルダが悲しむ事だろう。」
「そうですよね。」
行き先が宗主国とはいえ、幼い自分の娘を何年も外国に送るのだ。そんな事、簡単に許容できるはずが無い。
全寮制の学校であり、帰省も殆ど認められていない為次に会うのは数年単位になるだろうからな。
そんな寂しい思いをさせたくは無いだろう。
因みに父親が卒業する事が出来たのは13歳だったらしい。
『緑の瞳』を持つ妹が6歳の頃に生まれたので、合計7年の修学だ。その中でも帰省した回数は2、3回程度だったそうだ。
ふと、昨日案内してくれた領の名産などの説明を思い出し、疑問が湧く。
「父さまは、僕に領主を継いで欲しいですか?」
「お前の自由だ。」
父さまは、無表情のまま短くそう答える。
珍しく、その表情から父親の真意を読み解く事ができなかった。
ーーー
「私の教えられる事は、教えたつもりよ。あとはジーク、貴方が使い熟しなさい。」
「はい、ヒルダさん。」
ヒルダさんは、悲しそうな目をしていた。
いつも優しげな笑顔でいるのに、妊娠で少し心が不安定になっているのだろうか。
「ジーク。…私は貴方の本当の母親では無いけれど、貴方の事も愛しているわ。本当は、貴方を連れて行かれたくないのよ。『世界樹の森』を敵に回してでもね。」
「ヒルダさん…それは……」
「わかってるわ。ごめんなさい。でも、この子がいるから貴方はいらない。なんて、考えはしていないって信じて欲しいの。」
俺が思っていた以上に罪悪感を感じていたらしい。よくよく考えると、ヒルダさんの状況って前の奥さんの子供を追い出して、周りを自分の子で固めている様なものなのか。普通の国ならば問題ありそうだけれど、世襲制ではない国では関係ないことだ。
「大丈夫ですよ。分かっていますから。僕もヒルダさんを実の母親のように愛しています。弟にかっこいいお兄ちゃんって思われたいですから、ヒルダさんから教わった魔法で『世界樹の森』を沸かせて伝説を作ってみせますよ!」
そんな大言壮語を吐くと、ヒルダさんは穏やかに笑った。ヒルダさんには落ち着いた笑顔が一番だ。
ーーー
「ラウズ。そんなに強いのに、どうして執事なんてやっているのさ?」
鍛錬の後、ラウズの剣戟でズタボロにされ、無様に転がっている俺は、そんな疑問を投げかける。
剣の修行を始めて2年。少なくとも、相手の力量を測る程度は出来るくらいに成長したつもりだけれど、ラウズの力の底は全く見えてこない。
…少なくとも父親よりずっと強い。
例え、父親が100人総出で攻撃を仕掛けたところで、傷一つ付くことなく一蹴してしまいそうだ。
「それが私のやりたい事ですので。」
模範解答。
しかし、それはきっと本心だろう。
ああ、こんな質問したことすら馬鹿らしい。同じ質問を今まで何度もしている。
これも単なる嫉妬なのだ。
そんなに強いなら、もっと違うことができるだろう…と、そんな言葉を飲み込むための無駄な会話だ。
「ジーク様は、どのようになりたいと思っていますか。」
将来の夢。
アンジェリカの隣に立てるようになる。
これはちょっと違うな。
職業でいうと、この領の領主。父親の仕事を継いで家族と幸せに生きる。
でも、やりたい事なのかって考えると違うな。
分からない。とにかく俺はがむしゃらに力をつけたいと思っている。
何があっても跳ね返せるように。大事なものを守るために。
「強くなりたい。アンジェリカから守られるんじゃなく、守れるように強くなりたい。僕の大事なものを誰からも奪われたりしたくないから。」
「良い心意気でございますな。」
「そろそろ休憩は終わりだよ。ねぇ…ラウズ、僕は強い?」
「ふむ。話にならない程、弱いですな。そんな体たらくでは、誰一人守れはしませんぞ。」
ーーー
時は流れ。出発の時。
今から外国へ向かうとは思えないほどの軽装で、俺は玄関先で見送られていた。
着ている服は指定の緑色の制服。左手には魔道具のブレスレットを装着している。
持ち物は右手に握られている小さなポーチ。中には金貨数枚が入った財布と、使用人を除く家族の髪束の入った一つのお守り袋。
…悲しいほどに少ない。
過去に、余計なものを大量に持ち込ませた親や、日用品に紛れされた呪具を持ち込ませた者がいたらしく、余計なものを一切持ち込ませないように規定されたそうだ。
先人は余計な事をしてくれる。
「シャル。ジークハルトをよろしく頼む。」
「承知致しております。旦那様。」
シャルは俺と共に『世界樹の森』へ向かう事になっている。あちらでの教育係、兼世話係としてサポートしてくれるそうだ。
規則として1年限定だそうだが、今まで身の回りの世話をやってこなかった身としては、いいリハビリ期間だ。色々と教えてもらおう。
「ジーク。体に気をつけて…ぅ、うぅ…。」
嗚咽を漏らし、涙を流すヒルダさん。
「………」
口元を両手で強く押さえながら、無言でボロボロと涙を溢れさせるアンジェリカ。
そして、気持ちを読まれまいと昨日から全く目を合わせようとしてくれない父親。
「ヒルダさんこそ、体に気をつけて。元気な赤ちゃんを産んでくださいね。アンジェリカ、僕は強くなってくるよ。次は負けないから!父さま、ぼ、くは…あれ?おか、しいな。こん、なの…何で。」
父親と目が合った瞬間、涙が止めどなく溢れ始めた。
無表情の父の秘めた感情を受け止めてしまったかのように。
目を見ても、父の感情は読み取りきれない。
別れる悲しさとか不安とか、息子への期待とか何だかもうありとあらゆる感情をごちゃ混ぜにしたような感覚が一気に襲ってくる。
…やめてくれよ。
感動の別れなんてキャラじゃねぇよ。
俺は家族に心配かけたくないから、もっと飄々として笑顔で出発したかったのに。そんな精神攻撃されたら計画が崩れてしまったじゃないか。
「どうざま…ぼくは、行きたくない!ずっと、…ここで、……とうさまや、ヒルダさんや、アンジェリカと一緒にぃ……」
耐えきれず、俺は父に向かって駆け出していた。
いままで俺はアンジェリカやヒルダさんに愛してるだの何だのよく言ってきた。それは軽口みたいなものだったし、そんなに重く考えて言っていたわけではない。
けれど、今わかった。
俺はこの家族を本当に愛していたのだ。
仕事から帰ってきては無言で頭を撫でてくる大きな手が好きだったし、剣術を教えてくれる勇ましい姿は頼もしく格好良かった。あんな性格でもポツリと冗談を漏らす父は面白かった。そんな父親をぼくは愛していた。
醜い嫉妬と劣等感に襲われる俺を救ってくれるのはいつもヒルダさんだった。何度も鍛錬を止めようと思った。魔法や剣術の練習に躓いて、アンジェが先々進んでいるのを見て腐っていきそうな俺のお尻を引っ叩いてくれたのはヒルダさんだった。
心の弱い俺をさり気なく支えてくれる彼女は、本当に俺の母親だったのだ。
アンジェリカはいつも俺の目標で憧れだった。強く、優秀、そしてどこまでも真っ直ぐだ。
いつも彼女は俺の先を歩いてくれた。魔法でも剣術でも、自慢しているようでいて、実はコツを教えてくれていたと知った時は涙が出そうになった。彼女はちょっとお馬鹿だけど、どこまでも姉だったのだ。
道に迷った俺に正しい道を示してくれる最高の姉だったのだ。
ーー彼らと離れるなんて、俺は嫌だ!
「シャル。」
「承知」
父の体に飛びつく寸前。目の前にいたはずの父の姿が消え、周囲の景色がガラリと変わる。
地面に転がり、呆然としたままボロボロと涙を零す俺に、凛とした声がかけられる。
「ジーク様。『世界樹の森』下位国家育成機関、ミルズ学園に到着致しました。」
振り返ると、今まで髪に隠していた長い耳を晒している、笑顔のシャルがそこにいた。