事件発生
私は今でも思うのだ。あの時、私が彼を否定しなければもっと別の道が拓けていたのではないかと。私が人間ではない化物を見て動揺しないような、気持ち悪いと思わないような強くて優しい心の持ち主だったら、こんなことにはならなかったのではないかと。
私の吐いた言葉は長い時をかけて築いてきた信頼を無に帰すには十分すぎるほどだった。結局私は、友だと胸を張って言える幼馴染でさえ、一瞬で化物だと思って罵ってしまえるような人間だった。後悔しているかと聞かれれば、イエスとは言えない。あの日目撃した化物は私の側から居なくなった、その事実が私を安心させる。
ただ、今でも夢に見るのだ。彼が人間ではありえない筈の握力でそれを握り潰したのを。彼の、酷く傷ついたような表情と共に。
塾の帰り道。夜の闇も深くなり街頭のみが辺りを照らす中を歩く。彼が消えてしまったのも、こんな風に暗い夜だった。
夜は暗いものだから、私は夜だと自然と彼を連想してしまう。つまり私はほぼ毎日いない彼の事を考えている事になる。消えてしまっても私の中ではまだ、彼は消えていない。全くお前は罪な男だよ、要。こんな冗談も、もう言い合えなくなって久しい。
突然だが、世の中には不思議な事が沢山ある。
怪奇現象に都市伝説、現実的なものでは犯人が全く分からない猟奇殺人とか。要はどちらかと言うと存在そのものが怪奇現象みたいなものだった。一瞬だったから、あまりよく覚えてはいないけど。
さらに薄暗くなった小路を通る。家屋の立ち並ぶ住宅地は中心街のような華やかさは無いが、この時間帯は暗く静かで、どこかドラマのような雰囲気を私に感じさせてくれるので、私のお気に入りの場所の一つでもある。同時に何か犯罪が起きそうな雰囲気はご愛嬌である。
あと五分くらいで帰宅できるだろうか。帰ったら最近発売したゲームを消化しよう。ご褒美があると、自然と足取りが軽くなる。
その時、街頭が遮られて暗かったのも原因の一つだろうか、細い小路の角を曲がった時、人と衝突した。まさかこんな時間にここを通る人がいるとは。この小路は昼間でも住宅に日の光を遮られて薄暗く、日中でさえ利用者はすくないのだ。
「うわっ! すみません大丈夫ですか?」
勢いをつけて歩いていた訳ではないので幸い転倒する事は無かったが、相手は私より背が高いようで逆に私がよろけてしまった。
「こちらこそごめんなさい。まさかここを通る人がいるなんてね。夜道は危険よ、お嬢さん。怪我はない?」
「ありがとうございます。警察の方ですか? この辺りで何かあったんなら引き返して別の道を通りますけど」
相手は優しそうな顔をした女性だった。彼女は謝罪しながら私に手を差し出してくる。その手をかりて立ち上がると、彼女の夜道に溶け込む紺色の制服が目についた。
こんな夜中に見回りだろうか。彼女は困った、と言いたげに苦笑した。
「大きな事件じゃないんだけどね。ちょっと近くに危ない人がいるかもしれないから、暫くの間ここを通るのはやめた方がいいかも」
「そうなんですか。ご丁寧にありがとうございます」
ぺこりと頭を下げた。ぶつかって来たのは私の方なのに、わざわざ注意までしてくれるとはいい人だ。しかし、女性一人で見回りとは、私が危ないのは重々承知だが、自分は危なくないのだろうか。優しそうなお姉さんだが、案外腕っ節には自身があるのかもしれない。
ーーーー立ち去ろうとした、その時、何かが鼻についた。
都会独特の廃棄物の匂いとはまた別の、生々しいにおい。私はそれを嗅いだことがあるが、それにしては臭いが濃すぎる。鉄のような、臭い。
「あの…お姉さん…」
私がおずおずと声をかけると、お姉さんはしまったというように目を見開いた。
彼女は見回りなどではなかった。彼女の後ろで、何かがあったのだ。お姉さんは顔色一つ変えないので気づくのが遅れたが、これは血の臭いだ。しかも、日常では嗅ぐことのない程強烈な臭い。どれくらい出血したのだろう。
私はここに来る途中、パトカーや救急車のサイレンは聞いていない。現場は臭いが嗅ぎ取れる程に近い場所にある筈なのに、テープの一つも張っていない。つまり、お姉さんの後ろには…。
「もしかして、後ろ、」
「見ない方がいいわ。あなたが繊細な子なら、忘れられなくなっちゃうから」
全てを理解した途端、すぐさまこの場から逃げ出したくなった。吐き気がこみ上げてくる。小さく呻きながら、私は思わず後ろに一歩後ずさった。死体を見なかったのが唯一の救いだろうか、だがこのお姉さんの後ろには死体があるのだ。
お姉さんは相変わらず困ったような微笑みを絶やさない、私は内心このお姉さんの精神力の強さに感嘆した。
「あの、これはお姉さんが第一発見者ということで…?」
「そんな事を気にする余裕があるのね。思ったより気丈な子」
「私は、思ったより怖いお姉さんで驚いてます」
お姉さんはふふ、と笑うが、私は笑えない。なんで私達は死体を前にしてこんな会話をしているのだろう? 今すぐ警察に通報するべきなのだろうか、でも見た所お姉さんは警官、この人によって通報されている筈だ。だが警察はまだ来ない、お姉さんの態度もおかしい、冷や汗が私の頬を伝う。
「まさかお姉さんが犯人だったりしませんよね?」
ちょっと遠慮気味に尋ねる。いや犯人だったら私今頃口封じされてるだろ、と失言した後に気づく。
私は大分混乱しているらしい、とても失礼な事を言ってしまった。
「あ、いや、ごめんなさい…」
「いいのよ。もしかしなくても、警察が来ないのが心配になったんでしょう。大丈夫よ、もう通報してあるから」
「でも遅すぎなんじゃ。私は見てないけど、何か話さなきゃいけなかったり、するんじゃないんですか」
「いいの、私には私の仕事があるから。そういうのとかは別の人。もっと重要な仕事が先にあるしね」
お姉さんが意味ありげな言葉を吐く。私は完全にこのお姉さんのペースに乗せられている、話しすぎだ。私は関係ないと言われたのだから、早々に立ち去ったのが良い選択だろう。
「それなら私は失礼します。早く帰らないと、家族も心配しているので」
「そうね。それがいいわ」
「じゃあ失礼しま「その前に」
背を向けて歩き出した私の肩を、お姉さんが掴んで止める。彼女の体が動いたので、奥にあるものが見えそうになり、私は目を背けた。
お姉さんは私の体を正面に向かせ、少し屈んで私に目線を合わせてくる。彼女の目は大きく零れ出しそうな瞳で、夜なのにきらきらと輝いているようで、それでいて不思議な色合いをしていた。こんなに綺麗な瞳を私は今まで見たことがない。彼女の瞳そのものが宝石や星、その他きらきらした何かで作られているようだった。
「な、何ですか」
「うーん、お姉さんの仕事。直接は見てないけど、やっぱり消しといた方がいいわよね。普通の女の子なんだし」
消すって何を、そう言おうとした時、私とお姉さん以外の、第三者の足音が聞こえてきた。
お姉さんは私から一旦目を逸らす。私は緊張感からまだ体が強張ったままだった。ふうん、とお姉さんが呟く。気づけばずっとそこにあった筈の微笑みは消えていた。
「お姉さん」
彼女を呼ぶ。今度は不安に、恐怖が入り混じった声で。足音は死体のある、お姉さんの方向からしていた。彼女は私を庇うように死体がある方向へ向き直った。
ーーーー段々足音が近づいてくる。ピチャ、という雨上がりに聞くような音がする。ここ数日雨など降っていないので、その音の発生源を推測することは簡単だ。足音の主はもうそこまで来ている、私のように純粋に道を通りに来た一般人ではないのだろう、その人はもう血の水たまりを踏んでいる。
足音は止まる気配が無い、何者か動揺していないのだ。
「下がってて、大丈夫だから」
素直に後ろへ足音を立てないように少しずつ交代する。お姉さんは相変わらず前を見据えたままだ。
「困ったわね。私は戦闘系じゃないんだけど」
戦闘系って何だろう、私は非日常に巻き込まれている。何もかもがおかしい。お姉さんも、お姉さんの瞳も、この現場も、こちらへ向かってきている人間も。
逃げ出したくなった。だがここで私が逃げ出したら近くに人間が居ることがバレてしまう。いや、恐らくもう相手は知っているのだろう。私達の話し声くらい、この簡素な住宅街では聞こえる筈だ、ならなぜ。
街頭に照らされて小路に影が伸びた。息が詰まる。目が話せない。
「よかった、間におうたみたいやな」
ーーーー刹那、だ。ひゅっ、と音がして、ぱんっ、となって、ごと、って落ちた。少し遅れてばたっ。
崩れ落ちるそれを反射的に目で追う。一瞬見えたその目にはもう、先程きらきらは宿っていなかった。
体と胴体が分離している、なぜか。
逃げろ、と本能が警鐘を鳴らしている。
「………っ」
だが体が動かない。声も、出ない。
「ん、自分どなた?」
相手は男だった。どなた、と聞いた割には興味の無さそうな瞳が私を捉える。顔は笑っているのに、目は笑っていない。これはそう、まるでゴミか何かを見るような冷たい目。
私が答えられないでいると彼は、「ああ」と一人で納得したように手を打った。
「もしかしてあんさん、フツーの人やったりするん? そーかそーか」
普通の人、どういう事だ。あんたは特別なのか、そりゃあ特別だ。彼女の頭をふっ飛ばしたのはおそらく彼なのだろう。
量の多くなってしまった血だまりを踏みしめながら、彼はこっちへ歩いてくる。物言わなくなってしまった彼女に冷たい一瞥をくれながら。
そして彼はそのまま私に、死刑宣告を下した。
「やったら、殺してもええな」
何で、どうやって、どうして。言いたいことは山ほどあるが、どれも言葉にならない。
一瞬で私の命を刈り取ることができるであろう手が、至近距離に迫る。走馬灯は走らなかった。
「ほな、さいなら」
ーーーーそう言われた瞬間、視界が白に染まる。
薄明かりの街頭をかき消すような、太陽に似た光。ようやく私の体は動いた、何が起きたかなんて考える余裕は無かった。なんでも良かったのだ。警察か何かが閃光弾を投げたのかもしれないし、古ぼけた街頭がショートしたのかもしれない。
理解できたことはただ一つだけ。本能に従って、私は彼に背を向けて走りだした。相手が何か言っていた気がするが、彼は追って来なかった。私には気にしている余裕がなかった。
いつもの道を走りぬけ、自宅に駆け込む。階段を走って上がり、二階の窓から人影が追ってこないか確認する。
結局私が一息つけたのは、それから三十分後だった。時計を確認するともう日付は変わっていた。
私は着の身着のままベッドに倒れこむ。安心感に包まれながら、泥のように眠りに落ちる。
ーーーーその日は、久しぶりに彼の夢を見た。相変わらず同じ事の繰り返しだったが、何故か、夢のなかの私は彼に親近感を感じていた。本当に、何故か。