第四章 虹の彼方に (3)
玲は、弥生から何気なく聞かれた桂との関係を軽く受け流すことができず、つい真剣に答えてします。
玲の心の中を知った弥生は、玲の前から立ち去ります。その姿に玲は何もできなかった。
第四章 虹の彼方に
(3)
早めに待ち合わせの場所に行くと彼はまだ来ていなかった。“早いから仕方ない”と思うと交番の横の壁を背にして待った。
地下鉄の階段を上り、左手にくるりと回ると彼女が壁を背にして立っていた。自分を見つけたのか、“にこっ”とすると手を挙げた。“もう来ていたのか”時計を見ると一〇分前だ。周りの人にぶつからないように早足で歩くと
「待ちました」
「いえ、今来たばかりです」
玲は、弥生が自分の駅の一つ前だと思うと
「電車で一つ違いだったのかな」
そう言って“にこっ”と笑った。
何も言わずに歩き始めると
「どちらへ」
「はい、この前は、コンチネンタル田舎料理という感じだったので、今日は純和風にしようかと思って。五分くらい歩きますが。でも澤口さんの好きなもの有れば」
会うということまでしか頭になかった弥生は、聞かれても答える中身がなかったので
「いえ、葉月さんのきめたところで良いです」
そう言って、彼の後をついて行った。
宇田川町の交番を過ぎて右手に行くとそのままビルの階段を上がって行った。小さな庭に打水がしてある。入口の引き戸を引くと“ガラガラ”という音がして開いた。仲居さんのような和服姿の人が、
「いらっしゃいませ。お名前を」
「葉月です」
「お待ちしておりました。こちらへどうぞ」
弥生は、障子で区切られた和風の座敷に連れて行かれるとしっかりしたテーブルに厚い座布団が向かい合いに置かれているのを見た。
“わーっ、高そう。この人この前の所といい、ここといい、誰なんだろう”すでに体を許した相手のことを知らないままに、またこのような所に来た自分が、不思議だった。
仲居が置いていったお品書きを見るととても自分では来れない値段が書かれていた。“花屋のお給料ではとても無理”と思うと
「葉月さん、いつもこのような所に来るのですか。この前も私ではいけないような処でしたし」
「いえ、あっ、いや、せっかくだからと思って」
言葉がうまく出ない玲に
「もしそうであれば、無理しなくていいですよ。普通の値段で食べれる処で」
その言葉を聞きながら“桂とは大違いだ”、昨日も買ってあげた指輪だけで十万は超えていた。食事もとても普通のところはいけない。
「分かりました。では、次の時は、普通のところで」
そう言いながら、“あまり知らないな。会社の仲間と行っているところなんて連れて行けないし”そう思うと返事をしながら困ったなと頭の中で思っていた。
やがて、仲居が注文した料理を持ってくると弥生は、瓶ビールを玲のグラスに注ぐと自分は麦茶の入ったグラスを手に持った。
“あの時はどうかしていたんだ”そう思ってアルコールを今日はやめることにした。
「あの、聞いていいですか」
弥生の言葉に
「えっ、なんでも」と言うと
「お仕事は何を」
「普通のサラリーマンです。IT系の部門にいます」
「そうですか」
「ご自宅は、用賀ですよね」
「はい」
「そうですか」
「あの、この前のこと」
弥生は下を向きながら
「初めてなんです。男の人とこうやって話すのも、あの時のことも」
“えーっ、桂と同じ。どうしよう”
「責任とれとか言わないですが、どうすればいいか自分で分からないんです」
すがるような目で見る弥生に
何も言えずにいると
「慣れているんですか、ああいうこと」
“何も言えないことを悪く取られたのか”と思い
「まさか、それに、こうやって今日も、そして水曜日も誘っているのは、澤口さんのことが、心に残っていて、自分でも・・」
弥生の瞳を外さずに言うと少しだけさっきより目を柔らかくして
「分かりました」
“信じていいんですよね”暗にそう言うと
「食べましょう。美味しそうです」
そう言って玲は箸を付けた。
「葉月さんは、お付き合いしている人いますよね」
弥生は、花屋と世田谷運動場で見た可愛い女性を頭に浮かべながら目の前に座る男性に聞いた。
玲は、弥生の言葉に女性を思い浮かべると言葉が出なかった。そして目の前にいる女性を見ながら、ただ時間を過ごしていた。
長い時間が経ったのか、短い時間なのか分からない中で
「桂は、生まれた時からの幼なじみです。そして・・・」
最後の言葉を頭に残しながら黙っていると
「そうですか」
睨むように玲を見ると
「あの事は、やはり遊びだったんですね。最初から。初めてのようなふりをして」
弥生は、心の中に“裏切り”という言葉が生まれてきた。“初めて。自分の大切なものを”と思うとたまらなかった。席を“すっ”と立つと
「失礼します。さようなら」
そう言って、足早に部屋を出て、靴をはくと玄関の引き戸を引いて表に出た。涙が止まらなかった。
“だまされた”そう思うと、そのまま、駅の方に走って行った。
人に当たらないように早足で歩きながらハンカチで涙がこぼれるのを抑えた。“私が、馬鹿だったんだ。この年まで、大切に守ってきたものを。遊ばれた”その思いが、弥生の心の中に深く入り込んでいた。
やがて渋谷の駅に着くと、とても地下鉄に乗る気にはなれず、タクシーン乗り場に行くとそのまま、家までタクシーを走らせた。
ずっと下を見ながら、自分が犯した過ちに、自分自身を抑えきれないでいた。
玲は、まだ状況を把握できないでいた。いきなり立ち上がったと思うと“失礼します。さようなら”と言って出て行った。頭の中の思考が停止していた。
そのままにしていると、仲居が
「料理お持ちしました」
そう言って、テーブルに置くと少し不思議そうな顔をして出て行った。仲居の行動に頭が戻ってくると
「あっ、すみません。お会計してください」
驚く顔の仲居に
「まだ、出ていない分も含めすべて払います」
またまた、驚く仲居を見ながら玲も席を立った。
自分が馬鹿だった。軽く受け流せばいいことを、桂の事と思うと、真剣に言葉を出してしまった。歩く気にもならずタクシーを拾うとそのまま帰った。
母親の玄関での言葉も無視して二階に上がると、そのままソファに横になった。“最初からおかしかったんだ。もう会うことはないんだろうな”そう思うとゆっくりと立ち上がって一階に降りて行った。
次の水曜日は、何もなく過ぎた。心のどこかでまだ、残る気持ちを思いながら、“連絡もないのだから”そう思って弥生は心の中から忘れようとした。
帰り道、“何もないはずなのに”そう思いながら通過するはずの渋谷で降りた。自分で“馬鹿見たい。弥生、何を思っているの。何も有るはずはないじゃない”。
心の揺れを無視して、足は、地下鉄の出口の階段を出て左に曲がった。“いるはずがないし、いなかったら信号渡って、反対側の入り口から地下鉄に入って帰ろう”そう思っていた。心の残り火を消すように。
すぐに分かった。壁にもたれかかる様にしている。“誰かと待ち合わせなのかな”なぜか心とは裏腹の気持ちを思いながら地下鉄出口を曲がりきらずに待っていた。
“ずーっ”と待っていた。時計を見るとあれから三〇分も経っている。七時半だ。少しキョロキョロしながらまた、下を見ると、また待ち始めた。“誰を待っているのだろう”そう思う気持ちの中にほんの少しだけ“いるはずのない気持ち、捨てたはずの気持ち”が消えかけたロウソクが再び燃えるように心の中に入ってきた。
もう八時五分前。弥生はそのまま帰ろうと地下鉄を降りようとした時だった。彼が、こちらに向かってきた。
“えっ”と思うと降りようとしてハンドバッグのひもが地下鉄のスロープにかかった“あっ”と思った時は、遅かった。玲と視線が合ってしまった。
「澤口さん」
玲は全く理解できない頭の中で、弥生の顔を見ていた。あの時、勝手に過ぎ去った弥生の事が重くのしかかっていた。ただ、水曜日会うという約束をしていたので、万一と思い、六時から待っていた。さすがに二時間待ってこなかったので“もうだめなんだ”そう思って家に帰ろうとした時だった。
何も言葉を出せないまま、玲の顔を見た。そしてもう一度階段を降りようとして、バッグのひもが引っ掛かっているのに気付くと引っ掛かっているひもをスロープから取ろうとした時だった。自分の腕に玲の手が伸びた。
「待ってください」
玲は、弥生の目を見ると
「話を聞いて頂けませんか」
真摯にそして真っ直ぐに弥生の目を見ながら言うと弥生も見返した。周りの人が“何をしているんだろう”という目で通り過ぎていく。
やがて、弥生はスロープからひもを取ると階段を上がった。
どこに入るわけでもなく、ファイヤ通りからパルコ通りへ上がっていった。何も話せなかった。やがて、上がりきると
「お話は何ですか」
弥生が足を止めて玲の顔を見た。
「“あの時の続きを話さないと”と思って」
「あの時の続き」
少しだけ蘇った記憶をたどりながら黙っていると
「僕と一緒にいた女性。桂と言います。私の本当に小さい時からの幼なじみです。母親たちが仲良くて、自然と小さい時から一緒にいました。母たちは僕が桂と一緒にいることで安心しています。ボディーガードのような立場です」
「ボディーガード」
まだ、意味が分からないという顔をしていると
「桂が、仕事以外で外に出る時は、ほとんど僕がついて行きます。だからボディガードです」
「ほとんどいつも」
また分からない言葉を聞くと
「ええ、そうです」
「だからと言って、恋人同士とかではありません」
「それに、・・・・澤口さんの事が頭から離れないんです」
そこまで言うと下を向いた。
「葉月さん、どこかに入りませんか」
その言葉に頭をあげると
「僕もお腹すきました」
と言って微笑んだ。さすがにこの前のところはと思うとパルコの反対側にある普通の若者のお店が目に入った。
「あそこでいいですか」
玲の指が指す方向を見ると、普通に若者が出入りしていた。
「いいですよ」
と言うと二人でそちらに歩きながら弥生はいつの間にか、心の中で消えるはずだったロウソクの火がまた、燃えて行くのが分かった。
弥生は、家に帰ると自分の部屋で今日の事を思い出していた。
「僕は、澤口さんとお付き合いしたい」
突然の言葉に弥生は、言葉が出なかった。ただ、相手の顔を見るとそのまま無言でいた。
少しの間の静けさの後、
「いつも心が澤口さんを見ているんです」
「心が」
玲の一言につい、言葉が出た。自分自身も分からないままに、心の中に彼がいた。
「最初、お誘いした時、会えば自分の気持ちがはっきりすると思いました。でも残念ながら分かりませんでした。ただ、思いが強くなりました」
一呼吸置くと
「そして、二回目、不思議でした。何かに動かされたように澤口さんを誘いました。そしてあなたも素直についてきました。気がついた時は。この後は、言わなくても良いと思います。そしてはっきりしました。僕にとってあなたは大切な人なのだと」
弥生は、消化しきれないでいた。“全く自分と同じ心の揺れを過ごしていたなんて”。言葉が出ないままに静かに座る目の前の人を見つめながら思っていた。
玲は、自分の気持ちを素直に現した後、弥生の瞳を“じっ”と見た。自分自身の心の揺れを言葉にした後の思いだった。
「葉月さん、またお会いしましょう。縁があれば」
そう言って、玲と別れた。
弥生は自分の心の中で何かを感じていた。“桂”名前しか言わなかった玲の言葉に違和感があった。間違いなく、言葉とは違った関係。それが、女性として敏感に感じ取れた。
「弥生、弥生。どうしたの」
「えっ」
「帰ってくるなりリビングで“ぼーっ”としているんだもの。帰ってからもう一時間は経つわよ」
「えーっ」
家に帰ってから疲れたと思い、手も洗わずにリビングに入った後、ソファに座ったことは知っていたが、そんなに時間が経ったとは、気付かなかった。
「早く、お風呂に入って寝なさい。もう十一時をまわっているわよ」
心配そうな顔をする母親に
「うん、分かった」
そう言って、ソファを立つと自分の部屋に行った。
お風呂に入りながら、あの時の事が蘇った。少し恥ずかしい気持ちになりながら、湯船に浮かぶ自分の胸を見ると何とも言えなかった。ただ、“どうしよう”と言う整理しきれない気持ちだけが有った。
家に戻った玲は、玄関に出てきた母親に
「ただいま」
と言うと視線を合わせないまま、二階に上がった。
“澤口弥生”頭の中に消えない名前だけが残った。自分の意識はそのままに風呂からあがると携帯が点滅していた。“誰からだろう”と思ってディスプレイを見ると“桂”と書いてあった。そのままタップすると
“玲、電話して”
いつもの我がままに少しだけ微笑むと玲は、スマホの通話履歴からタップしようとしたが、まだ、タオルだけの状態で有ることに気付くと、一度スマホを置いて、もう一度階下に降りた。ドライヤで髪の毛を乾かし、再び二階に上がって、ベッドに入る支度をして、再度スマホを手に取った時だった。突然スマホが鳴った。
運命のいたずらか。何気なく寄った渋谷のハチ公前交番に彼はいました。そしてまたしても弥生は、心の奥にあった残り火が、しっかりと燃え始める自分自身をしります。
家に帰った玲が受けた桂からの電話。それは思いもかけないものでした。
次回もお楽しみに。