2「赤ペンを置いた日」
四月。新年度が始まったばかりの高校。
彼女は、職員室の自分の机で、生徒が書いた記事の下書きを読んでいた。学校新聞の原稿だ。毎月発行されている校内新聞の、今月号の記事。
彼女は、この部活の顧問を三年目で、四回目の春を迎えている。教員生活も二十年を超えた。
教え子たちは、毎年少しずつ変わっていく。でも、自分の指導は、ずっと同じだと思っていた。
彼女は、赤ペンを手に取り、記事の一行目に印をつけようとした。でも、その手が止まった。
もう少し具体的に、という表現。以前なら、すぐに修正を入れていた。新聞は、正確で、わかりやすく、読みやすいものでなければならない。それが、彼女の信条だった。でも、今は違った。
彼女は、その記事を読み返した。拙い文章だった。主語が曖昧で、接続詞が乱れている。でも、その拙さの中に、その生徒の「言いたいこと」が詰まっているように思えた。
彼女は、しばらくその記事を見つめていた。赤ペンは、まだ手の中にある。でも、そのペンは、まだ紙に触れていなかった。
彼女が、『彼女の計画』という本を読んだのは、冬休みのことだった。
たまたま手に取った本だったが、その中に、印象的な言葉があった。冬休みに読んだ本の中に、印象に残る一節があった。
「ありのまま書くこと」と「その人の声を残すこと」は、必ずしも同じではない——そんな意味のことが書かれていた。
彼女は、その言葉を思い出しながら、赤ペンを置いた。その言葉は、彼女の中に引っかかって、しばらく離れなかった。
彼女は、その言葉の意味を考えた。
自分は、生徒たちに「正しい表現」を教えているつもりだった。
でも、それが「誠実さ」につながっているのかどうかは、別の話だった。
放課後。
新聞部の部室に、彼女は向かった。
いつも通りの時間だ。
ドアを開けると、部員たちが集まっている。三人の生徒が、机を囲んで原稿を広げている。彼女が入ると、一人が顔を上げた。
「先生、今日の原稿、どうですか?」
彼女は、その原稿を見た。
さっき職員室で読んだ、あの記事だ。
彼女は、机の上に原稿を置き、生徒の前に座った。
「うん。読んだよ。よく書けていると思う」
「でも、ここ、なんか変ですよね。自分でもわかってるんですけど、どう直せばいいか」
彼女は、その言葉を聞いて、少し間を置いた。以前なら、ここで修正案を示していた。でも、今日は違った。
「……ここ、どうしてこの表現にしたの?」
生徒は、少し驚いたように目を見開いた。いつもなら、先生はすぐに直してくれる。でも、今日は違った。生徒は、少し考え込んだ。
「えっと……なんか、ここだけ、うまく言えなくて。でも、これ以外に思いつかなくて」
「そう。じゃあ、その『言いたいこと』をもう一度、言葉にしてみて」
生徒は、自分の書いた記事を見つめながら、ゆっくりと話し始めた。
最初は戸惑っていたが、次第に、自分が何を伝えたかったのかを言葉にしていった。
それまで、文章の中でうまく表現できなかったことが、口にすることで形になっていく。それは、生徒自身も気づいていないことだったかもしれない。
彼女は、その言葉を聞きながら、赤ペンを置いた。この子には、修正するよりも、聞くことが必要なんだと思った。
生徒が話し終えると、彼女は言った。
「……それを、そのまま書けばいいよ」
生徒は、もう一度自分の記事を見つめた。
そして、ペンを手に取って、書き直し始めた。
それから一週間後。完成した記事が、彼女の机に届いた。
彼女は、それを読んだ。
前に読んだ記事より、ずっと良い文章になっていた。まだ拙いけれど、その拙さが、文章に温かみを与えている。
彼女は、その記事を読み終え、微笑んだ。
生徒たちの文章が、少しだけ自由になった気がした。
それは、明確な成果ではない。でも、確かに、何かが変わっていた。
彼女は、その変化を、生徒に伝えはしなかった。気づかない方が、自然だから。
【観測記録】
対象:匿名(読者B)
作品:『彼女の計画』
読了後経過:三ヶ月
観測項目:「聞く」という指導
特記事項:
彼女は「修正する」ことをやめたわけではない。
ただ、「修正する前に、まず聞く」ことを覚えた。
その変化は、生徒たちの文章に、ほんの少しの自由をもたらした。
その観測は、続いている。
―『読後観測』―読者地図―は各話を独立短編で投稿―
第1話「今日は、書かなかった」
https://ncode.syosetu.com/n9601mn/1/
第2話「赤ペンを置いた日」
第3話「ノートを戻さなかった日」
https://ncode.syosetu.com/n9612mn/1/
第4話「送信しなかった夜」
https://ncode.syosetu.com/n9615mn/1/
第5話「何も感じなかった本」
https://ncode.syosetu.com/n9621mn/1/
第6話「感想を書いた日」
https://ncode.syosetu.com/n9625mn/1/
また、「読者地図」にも「読後観測シリーズ」として同時投稿されます。
―――関連作品―――
『彼女の計画』
カフェ「あおい」で上司の裏アカを覗いた瞬間から、私の日常は狂いはじめた。
『読者地図』本編はこちら。
物語が届く/届かないのは、作品の問題ではないかもしれない。




