七. 城下町へ(一)
「お……っ、穏翊様……っ! わっ、」
「あはは、すごい人だ! 澄蘭、しっかり掴まっておいでよ!」
問答無用に向かってくる人の波に逆らいながら、穏翊は澄蘭の手を力強く握りしめて進んでいく。滑らかな大きなその手にも、じわりと汗が滲んでいた。
礼の皇都ある授天府は、宮城を中心に半円状に広がっている。前王朝、暁よりそのまま引き継いだが、末期の騒動により壊滅状態に陥っていた皇都に、始祖は碁盤目のように細かく道を敷き直し名を改め、都市を再整備していた。
文字通りの国の中心である、宮城の南に位置する外廷との境。南端門からわずかに東にずれ、まっすぐ南へ延びる広大な街道──地央道を軸に、宮城の東、西、南の三方向に、身分に応じて定められたそれぞれの区域に、民は暮らしている。
なお、宮城の北側には、先帝のものを始めとした歴代皇帝の王墓や皇族たちの墓、彼らを祀る寺社などが立ち並んでおり、民の立ち入りは許されていない。
宮城に接した地央道から東側の区域は、学問の徒と、英玄試受験生のための地だ。高名な儒学者の屋敷や、英玄試受験のための官立学府である玄明館をはじめ、数多の私塾や書店、文具や書画を専門に扱う商店が立ち並んでいる。北東には、隣省へと続く古道が伸びており、英玄試及第の希望を抱いた地方の民が、この地を目指してやってくる。その古道に沿う形で、儒学以外の学問──医学や天文、法の学徒の住まいや、庶民のための治療院や施薬院などが立ち並んでいた。
一方、反対の北西側は、宿場町と軍のための領域だ。こちら側へ伸びる街道は複数の省を越え、やがては錚雲を始めとした西方の国々へと通じている。宮城の西には、交易特使のための逗留地が並び、そこから更に、異国の商人のための宿場や遊行場、国軍の駐屯地と広がっていた。
その合間、南東から南西にかけては、宮城から近い順に、上級官僚の邸宅、中級官僚や富裕商人の住区、下級官僚の長屋群となっている。
更に、衣や食に特化したいくつかの市場や、数多の飯店を挟んで、庶民の住まいや、花街を中心とした娯楽地が密集していた。当然、市場に近い広い家に住まう庶民ほど、暮らし向きに余裕がある。
中流家庭のものに扮した馬車に乗って、地央道を南に進んだ穏翊と澄蘭は、中級官僚の住区の手前で馬車を降り、徒歩で市場へ向かった。
二人とも、穏翊のかつての乳母の息子やその妻の衣装を身に着けており、ぱっと見には、どこにでもいる商人の子らといった雰囲気だ。
ただし、涼しい顔で歩けたのは、市場の手前までだった。
ひとたび足を踏み入れたそこは、作り立ての鹹点心や甜点心のにおいや、それらを求める人々の熱気、様々な食材を扱う商人たちの喧騒に満ち溢れている。次から次へと人が押し寄せ、真っ直ぐに歩くことも困難だった。
あっという間に人波に飲まれ、目を白黒させる澄蘭の手を引き、穏翊は楽しげに歩を進める。
「気になるものはあるかい? 遠慮せずに言っておくれよ!」
「は……はい!」
喧騒に負けないように声を大にする穏翊に、澄蘭は返事をするのがやっとだった。通り過ぎる店が何を商っているのか、確認することも困難だ。
どこをどう歩いているのか分からないまま、手を引かれ、はぐれないよう必死に穏翊の背を追い、もみくちゃになりながら、ようやく人通りの少ない道に出る。
汗を拭う穏翊の横で、澄蘭は胸に手を当て荒くなった息を懸命に整えていた。先ほどの食料品の市場に比べ、格段に静かなそこは、どうやら庶民にとってはやや高級な類の、衣料や装飾品を扱う市らしい。
「はあ……、大丈夫かい?」
「なんとか……」
二人同時に息を吐くと、目が合い、意図せず吹き出してしまった。
「なんだい、澄蘭?」
「穏翊様こそ……」
髪をぐしゃぐしゃに乱し、顔を真っ赤にしたお互いの姿を、義兄妹はくすくすと笑いあう。
髪紐が人波に攫われたのか、いつの間にか髪を下ろしていた穏翊は、いつもの完璧な貴公子といった雰囲気ではない。一方の澄蘭も、薄く施した化粧は汗で流れ落ち、自然なままの素顔を曝け出していた。
ようやくひと心地ついたのか、一息ついた穏翊は、ぐるりとあたりを見回す。やがて一つの店に目を止めると、澄蘭に向き直った。
「ああ……。簪を扱っている店があるね。入ってみようか」
「え、あの……!」
さり気なく澄蘭の手を取り、その店へ足を向ける穏翊に、澄蘭は思わず声を上げるが、彼はお構いなしに進んでいく。つんのめるようにその店に足を踏み入れた澄蘭は、その瞬間、眼を射た輝きに言葉を失った。
深い紅に輝く石をたたえたそれは、蝶と蘭花を模した簪であった。日の光を浴びて強く輝く、曇りのないその瑪瑙を、澄蘭は魅入られたように凝視する。
そんな義妹の様子に気づいたのか、穏翊は「ご主人」と、店の奥に悠然と腰かける男性に声を掛けた。彼はのそりと立ち上がり、揉み手をしそうな様子でこちらに近付いてくる。
「……旦那。お気に召すものはありましたか?」
「こちらの簪をいただきたい。幾らだろうか?」
澄蘭の手からするりと抜き取った簪を軽く掲げ、穏翊は店主に問いを返す。店主の男性は簪を受け取り、しばし目を眇めた後、にやりと唇の両端を釣り上げた。
「さすが旦那、お目が高い! こちらはなんと特別に、百五十銭で……」
「百五十? ……ずいぶんと吹っ掛けるね。この瑪瑙なら、百が妥当だろう?」
据わった目で微笑む穏翊に、店主の男性は閉口したように黙り込む。しばし無言で見つめあった結果、太鼓腹の店主は観念したように両手を挙げた。
「……それでは、百二十銭で手を打ちましょう」
「手を打ったと言える金額なのかな?」
「これは質のわりにお手頃な瑪瑙でさぁ。……奥方の前で吝嗇るなんて、野暮ですぜ! 旦那」
奥方と呼ばれた澄蘭は、顔を真っ赤にして否定する。
「ち、ちが……っ」
穏翊はさり気なく澄蘭の肩に触れて制し、粗末な白の麻の貼裏の懐から、銭入れを取り出して言った。
「……なるほど。彼女の笑顔をその金額で贖えるとなれば、安いものだ」
いただこう。
微笑む穏翊に、澄蘭は息を飲んだ。
動揺する彼女を他所に、金銭のやり取りはあっさりと終わってしまう。ほくほく顔で頭を下げる店主から簪を受け取った穏翊は、彼に背を向けて歩き出した。澄蘭は慌てて後を追う。
「お、穏翊様……! 申し訳ありません……!」
「ん? 何がだい?」
穏翊は立ち止まり、不思議そうに首を傾げている。焦って小銭入れを取り出そうとする澄蘭に、「ちょっとかがんで」と微笑みかけ、彼はさっそく買い求めた簪を髻に差した。頬を赤く染める澄蘭を満足げに見やった後、穏翊はにこりと微笑む。
「うん、似合うね。……澄蘭? どうしたんだい?」
きゅっと口元を引き結ぶ澄蘭に、穏翊は首を傾げる。震える手で小銭入れを握り締め、澄蘭は俯いた。
「あの、申し訳ありません。百二十銭……私の扶持で賄える金額でしょうか?」
いざと言う時のためにと、母方の祖父に持たされていた小銭袋を持ってきてはいたが、そもそも小銭の意味も使い方も、話に聞いている程度。ものの値段の妥当性も分からず、先ほどの簪が「高い」ものなのかすらも判断できない。
義兄に負担を掛けたのではないだろうかと、不安に俯く澄蘭に、意表を突かれたように黙り込んだ穏翊は、不意にぷっと噴き出した。
笑われた理由が分からず、顔を真っ赤にする澄蘭に堪え切れないように、穏翊は腹を抱えて笑い続ける。
「気にしないで。少なくとも、君の一月分の扶持よりは遥かに少ないよ。……今日、付き合ってくれたお礼」
こんなもので申し訳ないけど、と穏翊は眉尻を下げて澄蘭の頭をポンポンと撫でる。安堵から息を吐く澄蘭の手を自然に引き、穏翊は再び歩き出した。後に続く澄蘭の頭に刺された簪が、二人の歩みに合わせてシャラシャラと鳴る。
簪を買ってもらったこと、手を繋ぎ、二人きりで静かな道を歩く状況。
両方に対して恐縮する澄蘭は、「申し訳ありません……」と蚊の鳴くような声で頭を下げるが、穏翊は「何がだい?」と笑顔で首を傾げた。
曇りのない彼の笑みに、澄蘭はふるふると頭を振る。涼やかに鳴る簪の飾りに、澄蘭の鼓動が高鳴った。




