六. 穏翊(おんよく)の誘い
その後の料理の講義では、澄蘭が生来の不器用さを前面に発揮してしまった。黒焦げになった包子を口にした講師は悶絶し、その介抱と、衝撃を受ける澄蘭を慰めるため、陽葵が四方を駆け回る。
そんな騒動ののち、その日は散会となった。
日が暮れかける中、恐縮する陽葵を、澄蘭は央廷を迂回する専用通路まで送り届けた。
央廷は、皇帝が日中を過ごす場である。そのため、そこを通り抜けて後宮のある内廷や、完了や女官たちの職場である外廷に出入りする際は、身位に応じて定められた通路を選ばなければならないのだ。
声量は控えめながら、二人はおしゃべりを欠かすことなく、この複雑な経路を辿った。
やがて、内廷と央廷の境にまで辿り着き、澄蘭は案内の女官に陽葵を託す。何度もこちらを振り返る陽葵に手を振り、その背が見えなくなるまで見送ると、ようやく澄蘭は踵を返した。
そして振り向きざま、後ろから歩いてきた誰かと、正面からぶつかってしまった。
「わ……っ」
「危ない!」
咄嗟に身体を支えてくれた相手に礼を述べようと、顔を上げた澄蘭は、驚きに目を見開く。
「……穏翊様?」
慌てた表情を浮かべた涼やかな美貌の持ち主は、第二皇子――義兄の穏翊であった。
彼はざっと澄蘭の全身を見やり、きゅっと眉根を寄せて申し訳なさそうに言った。
「澄蘭! すまない、怪我はない?」
「はい……。こちらこそ、よそ見をしていて」
頭を下げる澄蘭に微笑みかけ、穏翊は背後に控えていた彼の近侍に、「先に戻っていてくれ」と告げる。手に布包みを抱えた、澄蘭と同年代と見えるその青年は、ちらりと澄蘭に目をやったあと、「かしこまりました」と頭を下げてその場を立ち去った。
義兄が一人、その場に留まったことに戸惑い、澄蘭は去っていく近侍の青年の背と、眼前の義兄を交互に見やる。
穏翊は澄蘭の戸惑いには気付かない様子で、さり気なく澄蘭の背に触れた。
「送るよ。崔媛儀の邸は、翠流殿だったね?」
暖かな手の感覚にどぎまぎし、滅相もないと頭を振る澄蘭に、穏翊は悪戯っぽい笑みを浮かべて言う。
「送らせておくれ。先日は十分に話せなかったし……。なかなか、こんな機会もないからね」
「あ、あの……」
しどろもどろになる澄蘭に構わず、穏翊は緩やかに歩き出す。
その場から動けないでいる澄蘭に、穏翊が振り返って、先ほどと同じ、子どもっぽさの残る笑みを投げかけた。澄蘭は観念したように、彼の後を追う。隣に並ぶと、穏翊は澄蘭の歩幅に合わせるように再び歩き始めた。
「母が、『快気祝いに顔を見せてくれ』とうるさくてね。こんなに連日、内廷に足を運ぶなんて久しぶりだよ。――澄蘭は、今日はどうしたんだい?」
「あ……。温忠業の、妹君を見送りに……」
「そうか。婚礼前の淑女教育を、一緒に受けているんだったね。琴華に聞いたよ」
『淑女教育』の言葉に、澄蘭は一瞬息を詰まらせる。
進捗はどうか、などと聞かれたらどうしよう。背に冷や汗をかく彼女の様子に、何かを察したのか、穏翊は「そうなんだ」とだけ返して、柔らかく微笑む。内心溜息をついた澄蘭に、穏翊はさり気なく別の話題を振った。
「そう言えば、この間読んでいた本。……錚雲の歴史書だったね? ああいった書物が好きなのかい?」
再び息を飲み、澄蘭は拳を握り締める。
女性に対して「節婦たれ」、「烈女たれ」と唱えるこの国では、女性の学問も推奨されている。だが、求められるのは、あくまで夫を立て、義父母を敬い、息子に尽くす――家庭を円満にまわすための知恵だ。
間違っても、澄蘭が好むような、国家の歴史について議論したり、政治に考えを述べるための知識ではない。
ここで「はい」と答えたら、穏翊に何を言われるのだろうか。
表情を強ばらせて黙り込む澄蘭に、しかし、穏翊は穏やかな声で言った。
「あの本は私も読んだよ。歴史書とは思えない軽妙な語り口が読みやすくて、頁をめくる手が止められなかった。興味深い本だよね」
女性の読書──推奨されない書物を読むこと──への嫌悪もなく、さらりと告げられた言葉に澄蘭は驚いた。夕焼けを見上げる穏翊の口元には、淡い微笑が浮かんでいる。
その表情を見て、澄蘭は意を決して口を開いた。
「……はい。とても、面白かったです」
緊張の滲んだその声音に、穏翊は目線を澄蘭に戻して破顔した。同意を得て嬉しそうな義兄の表情に、澄蘭もほっと胸を撫でおろす。
しばらく二人、黙って並んで歩いでいると、穏翊はおもむろに「そうだ」と声を弾ませた。
「澄蘭、明後日の午後は空いているかい?」
唐突なその言葉に目を白黒させ、澄蘭は頷く。
「は、はい……」
「良かった。……実は、こっそり市場を見に行こうと思っていてね。錚雲からの交易品が並のは、もう少し先だろうけど、他の地域からの品はたくさんあると思う。――よかったら、一緒に見に行かないかい?」
「え、えぇ……⁉」
思いもよらない言葉に、澄蘭は息を飲む。
皇族、特に皇女は公務や封地の移動、元宵節といったごく限られた行事以外に、市井に出ることは、基本許可されていない。
封地を持たない澄蘭は、物心ついてから外廷の南端門を出たことはなく、唐突な義兄の申し出はまさに寝耳に水の誘いであった。
二の句が継げない澄蘭に、穏翊は「内緒だよ」と口元に指を立てて囁く。
「先ほどの私の近侍の手荷物は、乳母──母の侍女の息子の衣服なんだ。彼女に頼めば、澄蘭に合う変装用の衣装も融通してくれると思う。
……皇族として、父皇や皇太子殿下のお役に立つため、まずは、民の生活を身をもって理解すべきだと思って」
「どう?」と微笑む穏翊に、澄蘭の鼓動は早鐘を打ち始める。
養母や侍女に見つかれば、何を言われるだろうかとの恐れが、彼女に即答を許さない。
しかし、一方で、見知らぬ世界を見てみたいと、澄蘭の好奇心は激しくうずいた。
今まで疎遠であった家族──義兄を失望させたくない、仲良くなりたいという、幼い頃から満たされなかった孤独感も彼女の背を強く押す。
葛藤の末、ついに澄蘭はこくりと頷いた。
嬉しそうに笑った義兄は、彼女の方にそっと身をかがめた。
「じゃあ明後日、未の刻の初めに、先ほどの内廷門近くで。衣装は明日届けさせるから、当日はこっそり着替えて来てね」
穏翊が、澄蘭の右の耳元に囁く。
不意に詰められた距離感、笙の音のように低くなめらかな彼の声音と、僅かに感じた吐息。
頬を真っ赤にした澄蘭は、咄嗟に耳を押さえて飛び退った。澄蘭の初心な反応に、義兄は楽しげに声を上げて笑う。
ちょうど、翠流殿の門の手前に着いたところであった。彼はそのまま気安い動作で手を振り、「またね」と踵を返した。
夕陽に紛れてその姿が見えなくなるまで、澄蘭は呆然とその場に佇んでいた。




