五. 淑女教育
「……この逸話が示す通り、良妻の第一歩は、日々家を守る重責を担う夫を敬い、感謝の念を持ち、労うことから始まるのです。
私たちが生きていけるのも、夫と、夫を育んでこられたご両親のおかげであることを、私たちは肝に命じなければなりません。
……温 陽葵様、何か質問ですか?」
滔々と語る教師は、難しい顔を浮かべていた少女に気付き、首を傾げた。
少女はすかさず顔を上げ、まくし立てるように問う。
「先生の仰ることは理解できます。……ですが、それはあくまで、夫や義父母が尊敬に値する人物であるという前提ですよね?
夫が妓楼や賭場に入り浸る、家庭を顧みない穀潰しだったり、義父母から理由もなく冷遇されるとなれば、どう対応するのが正解なのでしょうか?」
真っ直ぐに背を伸ばし、真剣な表情で質問を発した少女に、問われた講師の口許がひくひくと引き攣り始める。
「……尊敬に値しない夫も、夫の両親も、存在しません。自身の至らなさを反省し、真心から尽くすのです」
講師の解答に「そんなものですかね」と呟き、少女──陽葵はそのまま引き下がった。手中の女範烈女伝を握り締め、肩を震わせる講師と、講師の答えを手元の教本に書き取る陽葵を、澄蘭は冷や冷やしながら見守っていた。
先日の、遠珂との面会時、養母の芙澤に借りていた客間。
婚礼に備え、澄蘭の淑女教育が行われるその場に、「公主の将来の義妹」として特別に同席を許される形で、陽葵も貴族の妻の心得を学んでいる。
本日が初回の講義であるが、十五歳の聡明な少女は、不明なことがあれば臆することなく問いを発し、講師役の老婦人をたじろがせていた。
曰く、夫が妾を連れて帰ってきた時の正しい反応は、曰く、口うるさい小舅や小姑との付き合い方の基本は。
一事が万事このような調子で講義は進み、間に挟まれる澄蘭の胃はしくしくと痛み出す。
それでも何とか初回に予定されていた範囲を読み終え、それぞれに課題を伝えた講師が鼻息も荒く部屋を出ていくと、澄蘭は思わず腹の底からの溜息を零した。
(疲れた……)
痛む頭を軽く押さえながら、澄蘭は、部屋の隅に控えた侍女に声を掛ける。普段はツンと澄ましている彼女も、心なしか疲れた雰囲気を滲ませていた。
「──申し訳ないけれど、何か、甘いものをお願い出来る?」
かしこまりました、と頭を下げ、部屋を出ていく侍女の背中を見送ったあと、澄蘭は何気なく背後に視線をやった。
そして、目を見開く。
「……陽葵様? どうしたの?」
髪を左右に花のように結った双花髻の頭を両手で抱え、陽葵が前のめりになっている。具合でも悪いのかと、慌てて駆け寄って身体を起こすと、陽葵は引き結んだ唇から盛大な溜息を吐いた。
「……やってしまいました……」
「……は?」
ぽかんと口を開ける澄蘭を涙目で見つめた後、陽葵はがっくりと項垂れる。
「先生、呆れていましたよね……澄蘭様も……。お恥ずかしい。
先生の仰ることは教本通りで、とても分かりやすかったんですが、気になったら止まらなくなってしまって……」
母に散々釘を刺されていたのに……と嘆く声は、あまりにしょんぼりと落ち込んでいて、澄蘭は、はしたなくも吹き出してしまう。くすくすと肩を揺らして笑う澄蘭を涙目で見上げ、陽葵は再び頭を抱えた。
笑い過ぎて滲んだ涙を拭い、澄蘭は励ますように陽葵の肩を叩く。
「大丈夫よ。あなたに悪意がなかったことは、分かっているわ。……先生も落ち着かれたら、あなたが純粋に教本に疑問を抱いただけと、理解されるでしょう」
部屋に戻ってきた侍女から、澄蘭は核桃糕を受け取り、「次の講義の開始まで、下がって休んでいて」と退出を促す。頭を下げた侍女の姿が部屋の外に消え、甜点心の一切れを陽葵に勧めたあと、澄蘭は自分も皿に手を伸ばした。
刻んで練りこまれたクルミの香ばしさと、米粉のもっちりとした甘み。それらが、疲れた身体にじんわりと染み渡る。
一緒に供されたのは花茶で、茉莉花の上品な香りに、ふっと緊張が溶けていくのを感じた。
茉莉花茶を堪能し、ひとつ息を吐く澄蘭に倣い、陽葵もおずおずと湯呑みを手に取った。茶を口に含み、陽葵が苦笑する。
「……ありがとうございます。次回の講義の際、先生には、今日の不躾な態度について謝りたいと思います」
「それがいいわね。……核桃糕、もっと食べない?」
「はい、遠慮なく!」
菓子を勧められた途端に、声に元気が戻った陽葵に、澄蘭は再び笑ってしまう。
優雅な笑顔の下で腹を探り合い、厭味を飛ばし合い、表向きは親しげに振舞っても、影では足を引っ張り合うのが当たり前――。
そんな宮中で長く過ごす澄蘭にとって、陽葵のように、自分の感情に素直な人物は新鮮で魅力的だった。
ふと、こちらをまじまじと見詰める視線に気付き、澄蘭は首を傾げる。
「……どうしたの? 私の顔、何か付いてる?」
不思議そうに問う澄蘭に、陽葵ははっと我に返り、「申し訳ありません!」と頭を下げる。しばらく彼女は俯いて、モジモジとしていたが、やがて意を決したように顔を上げた。
「あ、あの! もし、もし差し支えなければ……二人きりの時は、『お姉さま』とお呼びしても良いですか!?」
「え、ええ……構わないけど……」
まくし立てるような勢いに飲まれるように、釣り込まれるように澄蘭が頷くと、陽葵はパッと喜色を浮かべた。核桃糕を持つ澄蘭の手を取り、そのままぎゅっと握り締め上下に振る。
目を白黒させる澄蘭をよそに、陽葵は満面の笑顔だ。
「嬉しい! 私、八歳上の兄と二つ下の弟に挟まれて、ずっと姉妹に憧れていたんです。澄蘭様が兄に嫁いくださるって聞いて、とても楽しみにしてました!
先日初めてお会いした時も、澄蘭様みたいなお優しいお姉さまがいらしたらなって……。
私のことはぜひ、『陽葵』って呼んでください!」
きらきらとした眩しい笑顔に、くすぐったいものを感じながら澄蘭が頷くと、陽葵は「やった!」と声を上げてはしゃぐ。
その姿は、先程の講師に見られれば、「貴族の女性として、なんとはしたない」と、眉を顰められるものだろう。それでも、澄蘭には好ましく映った。
手を握られたまま、間近で見る彼女の顔立ちは、兄の遠珂と似通っていて、やはりどこか異国の雰囲気を纏っている。
喜怒哀楽がはっきりした表情も、彼らの血によるものなのだろうか。
そう言えば、と、ふと彼女の発言に気になるものがあったことを思い出し、澄蘭は眉根を寄せた。恐る恐る口を開く。
「さっそく、陽葵、と呼ばせてもらうわね。
――ねえ、陽葵。先程、お母君に何か言われたというようなことを言っていたけど……。お母君は、厳しい方なの……?」
「えっ、ああ!」
慌てて澄蘭の両手から手を離し、陽葵は両手をぶんぶんと振る。
「私が言うのもなんですが、母は、穏やかな人間ですよ! ただ、兄と私が何かとやらかしがちなので……」
「どういうこと?」
澄蘭が首を傾げると、陽葵は、どこかバツが悪そうに首をすくめて答えた。
「……兄は本当に本の虫で、ちょっとでも気になることがあれば、寝食も忘れて読書にのめり込むんです。周囲の話も耳に入らない有り様で、何日も徹夜して……。
子どもの頃から呆れていたんですが、最近、私も似たようなものだと母に溜息を吐かれて、愕然としました」
澄蘭は目を瞬かせる。
確かに先程、講師役の老女に勢いよく詰め寄った姿は、彼女が「呆れる」と評した遠珂のものとよく似ている気がする。
陽葵も自覚はあるのか、苦笑いを浮かべた。
「そんなわけで、『兄妹揃って、澄蘭公主様にご迷惑をおかけしないように』と、口を酸っぱくして言われていたんです。……私は、早々にやっちゃいましたけど」
あはは、と開き直ったように笑ってこめかみを掻く陽葵に、澄蘭は笑いを堪えきれない。
将来の義妹を微笑ましく見つめながら、澄蘭は言った。
「良かったらもっと、ご家族のお話を聞かせてほしいわ」
「……分かりました。恥を晒すようで恐縮ですけど」
そうして始まった陽葵の話は、尽きることなく、彼ら家族や、彼女の婚約者の話など、次々と話題は転がっていった。
特に、自身の婚約者の話をする陽葵は、本当に幸せそうで、澄蘭も微笑ましさを隠しきれず、彼女を煽った。
普段は素っ気ないそぶりを見せながらも、陽葵が自分の兄と楽しげに話していると、彼女の婚約者は唇を尖らせて、じっと二人を見つめているのだと言う。
甘酸っぱいやり取りを聞かされ、澄蘭は照れる陽葵の頬を突いて笑った。
次の講義の始まりを、痺れを切らした侍女が呼びに来るまで、二人はいつまでも話し込んでいた。




