四十一. 旅立ちの朝
泣き腫らした目を冷たい水で洗い、澄蘭は顔を上げた。
無表情で脇に佇んでいた、顔に痘痕のある年老いた女官に顔を拭われる。別の女官が進み出て、長旅に適した褲の上から、厚手の襖を重ねて着せた。
彼女たちは皆、宮中勤めの最中、病を得て後遺症が残ってしまったり、刑罰により喉を潰され話すことが出来なくなったりなど、事情を抱えた者たちだった。一切の感情を見せず、淡々と業務に臨んでくれるので、澄蘭は気楽ささえ覚えていた。
身支度が整うと、彼女たちは黙って部屋の隅に並ぶ。その姿を見やり、澄蘭は口を開いた。
「ありがとう。一月、苦労を掛けました。……皆、達者で」
女官たちは一様に目を見張るが、無言で頭を下げ、部屋を出て行く。その姿を見送り、澄蘭は自分の両頬を軽く叩いた。
錚雲へ持ち込み予定の荷物は、今朝早く、宦官たちの手によって運び出されていた。価値がありそうな衣装や、僅かばかりの装飾品類のいくつかは、途中、彼らの懐に収められているだろう。
幼い頃に祖父が用立ててくれた簪や耳飾り、遠珂にもらった稀覯本。そして、昨晩託された義姉の簪と、養母の仕立ててくれた婚礼衣装、遠珂からの文と訳語集。大切なそれらは、自分の手で運ぶと決めていた。
澄蘭は大きな荷物を抱え、一月の間過ごした冷宮の一室を、ぐるりと見回した。
昨晩、義姉の琴華が言っていた通り、澄蘭の見送りは禁じられている。見送る者もなく、隣国への最低限の随員は、外廷の西門で待っているという。その他にも、目くらましのため飾り立てた馬車衣乗り込んだ別働隊が、皇都外れの宿屋にて待機しているそうだ。彼らも随身の一部であるので、そこで合流する予定だという。
今回の件で、温家を担ぎ上げようとしていた勢力もあると聞く。その彼らが騒ぎを起こす可能性を、考慮してのことだった。
澄蘭は手ずから荷物を抱え、内廷の最奥から央廷を抜け、外廷を目指して歩き始めた。
皇族用と定められた、石畳の道をゆっくりと踏みしめる。通り掛かった女官や宦官たちが、不遜な笑みを浮かべて澄蘭を指差すが、彼女はそれらを無視して歩を進める。
冬月とは思えない、穏やかな風の吹く日の朝だった。
見慣れた絢爛な建物群は、父帝の妃たちの居所だ。上級妃になるほど建物の数が増え、位置も中央に近づいていく。最も中央寄りにある、一際壮麗な建物は、皇后のための殿舎だ。逆に、南西に行くと、下級妃が集団で暮らす棟や、司率局所属の女官たちの寮がある。
そこから決められた道を行くと、央廷を抜ける。皇帝が日中執務を行い、皇太子や親王が居を構え、重要な儀式が行われるそこは、警備も厳重だった。
長距離の移動に息を切らし、時々立ち止まりながら、澄蘭はひたすら南へと下っていく。投獄により衰えた脚力は、この一月、冷宮を歩き回ったり自ら清掃をしたりして、鍛え直していた。
宮城の端から端まで、東西を結び聳え立つ壁は、近くで見てもやはり荘厳だった。
かつては身分を隠し、こそこそと下働き用の門から出たものだった。今日は、皇族に割り振られた門を潜り、いよいよ外廷へ足を踏み入れる。
北の中央には、朝議が行われる謁見殿がある。前回、公にここに立ち入った時には、南東の六部府へ向かったが、今回は南西の総統院府を回り込む。西の端、武装した兵が守るそこが、他国へと繋がる街道のある、南西門だ。
ようやく辿り着いたその場所の手前で、澄蘭は上がった呼吸を整えた。
ここを出て、随員たちに合流すれば、いよいよ錚雲への出立だ。
身を奮い立たせ、澄蘭は南西門へ向かって再び歩き出した。
武具を構え南西門前を背に佇む二人の兵が、澄蘭に向かって無言で軽く頭を下げる。澄蘭も会釈を返そうとして、ふと覚えた違和感に足を止めた。
二人のうち一方は、それなりに鍛えられた身体つきを総兵の制服に包んでいる。だが、もう一方はすらりとしていて、どう見ても武官には思われない。剣を持つ手つきも、そちらの者は一見して、不慣れと分かるほどだ。以前、外廷でぶつかった若者たちとは似ても似つかぬ雰囲気に、澄蘭は全身を緊張させて二人を見た。
そして、その正体に気付き、澄蘭は驚愕に目を見開く。
周囲に気取られないよう、小声で囁くように問い掛けた。
「こんなところで……何をなさっているのですか? 父皇様」
ふん、と面白くなさそうに鼻を鳴らした壮年の男性は、大礼国第五代皇帝、蘇 冽然に間違いなかった。鍛えた身体つきは、武具を構えた姿も様になっている。
隣に立ち、華奢な身体を不似合いな武官の制服に身を包んだ、同年配の美貌の男性は、父帝付きの筆頭宦官だろう。侍奉局の首であり、全宦官の頂点に立つ、砂掌太監の姿は、さすがに澄蘭もよく知っている。
そんな二人が総兵に扮して、こんなところで何をしているのか。
澄蘭は思わず眉を顰めた。
父帝は澄蘭を黙して見据えるのみで、一言も発しない。主が口を開かないのに、自分が前に出るわけにも行かないのか、砂掌太監も沈黙を貫いていた。
居心地の悪い沈黙が、三人の間を重苦しく埋める。遠くから響く、外廷に勤める者たちの幾重にも響く喧騒が、風に吹き流されていく。
しばらくして、父帝は唐突に、無言で澄蘭に向かって足を踏み出した。咄嗟に身構える娘に一瞥もくれず、彼はそのまま反対側、総統院府のある方角へ向かって歩いていく。慌てたように、侍奉局首がその後を追って駆け出した。
遠ざかっていく背中をじっと見詰めていた澄蘭は、おもむろに口を開いた。
「……行ってまいります」
決意を込めてそう告げ、澄蘭は荷物を抱えたまま、その背に深く頭を下げる。ちらりと宦官の長がこちらを振り返るが、父帝は見向きもしない。
足音が聞こえなくなった頃、澄蘭はそっと身体を起こした。建物の陰に紛れ、二人の姿はすでに消えていた。
その影を振り切るように、澄蘭も勢いよく踵を返した。本来の見張りであったのか、いつの間にか姿を現していた総兵が開けた門をくぐり、背筋を伸ばして敷居を跨ぐ。
門の外で待ち受けていた集団と馬車に、澄蘭は堂々とした足取りで向かっていった。
馬車に腰を落ち着けると、御者たちは無言で馬に鞭を入れた。ゆるゆるとした速さで、馬車は動き出す。
先頭と最後方には、錚雲の旗をつけた馬車がついている。怜悧な目をした文官風の男と、屈強な身体つきの男が、錚雲への案内官だと告げた。
彼らは、澄蘭が一人で門に現れたことと、随員の人数の少なさに驚いた様子だったが、深くは問わずに馬車に乗り込んでいた。
澄蘭の馬車には、他に誰の姿もない。周りを、馬に乗った武官が警護しているのみだ。
一人きりの馬車の中、澄蘭は懐から取り出した、遠珂が遺してくれた訳語集の裏表紙を撫でた。
昨晩ようやく辿り着いた最後の頁には、遠珂の筆だろうか、一輪の蘭が描かれていた。
こんなにも情熱的な人だったのかと、文と共に初めて知った彼の意外な一面に、澄蘭の口元は小さくほころぶ。
彼女は、静かに目を閉じた。
(愛してくれて、ありがとう。思いを返せなくて、ごめんなさい。私は、貴方を──友と憑み、貴方がくれた知識を武器に、戦い続ける)
馬車の窓の隙間から、一陣の風が吹き込んでくる。
春の訪れを一足早く告げるような、季節外れのその穏やかな風に頬を撫でられ、澄蘭はそっと目を開いた。
大礼国暦、端明十三年、正月の下旬。
礼と錚雲の後の世に長く続く交流の基礎を確立し、志半ばで斃れた温 孝思・璟父子と共に、民に深く敬愛された皇女・蘇 昭瑶は、隣国へ向けて旅立った。




