三十八. 簪と婚礼衣装(二)
「貴女のお祖父様、沈 如松様から預かっていたの。
温忠業と貴女、言い争いをしたのでしょう? その日、貴女と別れてすぐに、如松様に相談に来られたのですって。『検閲を経ずに文を渡すには、どうすれば良いか』と。如松様も良い案が浮かばず、その場で彼が書いた文を、いったんお預かりになったそうだけど。そのあとすぐ、あんなことになってしまって……」
気まずそうに押し黙った澄蘭の様子に気が付くと、芙澤は、「落ち着いたら目を通しなさいね」と彼女の頭を撫でる。その優しい手つきに、澄蘭は俯いた。
そして、琴華から受け取り、足元に置いていた布包みを取り上げ、そっと澄蘭に差しだした。
手渡されたそれに、澄蘭が顔を上げて目を瞬かせていると、芙澤は柔らかく微笑む。
「婚礼衣装よ。貴女の好みを聞けないまま、慌てて準備に取り掛かってしまったから、気に入ってもらえるか分からないけれど……」
この国では、娘の婚礼衣装は、母親が手ずから用意するのが慣例だ。布の裁断や縫製といった、大掛かりな作業は専門の職人に任せるが、壮麗な柄の刺繍は、気の遠くなるような時間を掛けて母親が一糸一糸施していく。
それは母から娘への、最後にして最大の愛情の象徴。
澄蘭は震える手を伸ばしかけ、何度も下ろしては、道に迷い途方に暮れた子どものような表情で芙澤を見上げる。
促すように頷く彼女に勇気づけられ、澄蘭はようやくその包みを両手で受け取った。
震える指で包みを解けば、目にも鮮やかな緋色の袍に、吉祥を現す文様や、彼女の名である蘭の花が、美しく盛大に刺繍されているのが目に入る。
その衣装を胸に抱き、澄蘭は言葉にならない言葉を紡ぐ。
「……お、かあさま。私……」
「──ねえ、澄蘭。あまり母親らしいことは出来なかったけれど、私は貴女を、大切な娘だと思っている。どうか無茶をせず、元気に過ごしてね。
そして、どうか……幸せに、長生きして」
こけた頬を伝い落ちる涙を見た瞬間、澄蘭は、母に抱き着いていた。
よろけた芙澤の身体は、いつも遠くから眺めていた記憶にあるよりも薄く、その事実が申し訳なく、悲しい。
血の繋がりがないからと、勝手に線を引いて目を背けていた。
邪魔だと思われたくない、邪険にされて嫌われたくないと、踏み込むことを躊躇していた。
母はそんな彼女の頑なさに、身動きが取れずにいたのかもしれない。
あと一歩、お互いに歩み寄っていれば、親子としての関係は、また違ったものになっていたのかもしれない。
思えばいつも、彼女は柔らかな目で、澄蘭を見つめてくれていたのに。
澄蘭の身柄が捕らえられたあの晩も、常にない必死の剣幕で、宦官を止めようとしてくれていたのに。
言葉もなく肩を震わせる娘の背中を、しばらく芙澤は黙って撫で続ける。
見張りの戻りに焦った琴華が再び部屋に足を踏み入れるまで、二人は黙って抱き合っていた。
別れ際、澄蘭は、最後に残った気がかりについて、二人に尋ねた。
「お母様、お姉様。――私に仕えてくれていた者たちは、無事でしょうか?」
最後まで打ち解けることは出来なかったが、いつも真剣な表情で澄蘭に化粧を施してくれた筆頭侍女。彼女を中心とした侍女たちとは、澄蘭が連行されて以降、ついに顔を合わせることはなかった。
芙澤と顔を見合せた琴華が、励ますように一つ頷いて答える。
「……実家に戻った子もいる。残った子は、ちゃんと保護しているから、安心しなさい」
姉の言葉を額面通り受け止めて良いものか、澄蘭は束の間逡巡した。主人の不明は配下の責任と、連座に問われることも多い。
けれども、今は、姉の言葉を信じるしかなかった。
「彼女たちを、よろしくお願いします」
思うところは多々あれど、自身も彼女たちの主として相応しい態度は取れなかったけれど、それでも、澄蘭は彼女たちの主人だ。
澄蘭は深く一礼し、去っていく二人を見送った。
その後、姉の簪と母の衣装を身近に置きながら、澄蘭は遠珂が遺したという文に手を伸ばしては躊躇するのを繰り返していた。
月明かりが少しずつ西へ傾き始めた頃、ようやく心を定め、澄蘭は文を手に取る。
長い長いその文を、澄蘭は噛み締めるように読み進めた。




