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蘭花伝 ──黎明の皇女は天命に抗う──  作者: 冬生 恵
【第一章】日陰に咲く花
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二. 央廷(おうてい)の貴公子


 茂みを掻き分け姿を見せたのは、琴華(きんか)の同母兄・穏翊(おんよく)だった。

 琴華や澄蘭(ちょうらん)の三歳年上である彼は、親王位を(たまわ)る第二皇子である。そして同時に、儀礼や外交の顔となる典部(てんぶ)(さい)の地位にあり、央廷(おうてい)──外廷(がいてい)内廷(ないてい)の合間、皇帝の執務殿や先帝府、太子府などが立ち並ぶ区域だ──に私邸を持つことを許されている。

 綺麗な杏仁(あんにん)型の目と通った鼻筋などは、妹である琴華とよく似ているが、穏やかな物腰が柔和(にゅうわ)で落ち着いた印象を与える。妻もおらず、浮いた噂のない見目麗しい公子は、宮中の女官たちの憧れを一身に集める存在だ。

 振り返った琴華は「穏翊兄様(にいさま)!」と破顔して彼に駆け寄り、澄蘭は黙したままその場で万福(ばんぷく)を行った。琴華の侍女たちも、澄蘭と同様の仕草で頭を下げている。

 彼女たちに姿勢を直すよう告げた穏翊は、自分の腕に添えられた実妹の手を、親しげに軽く叩いた。琴華も軽やかに笑って応じる。


「騒いでなんかいないわよ、失礼ねぇ。……お久しぶり、兄様。お母様に会いにいらしたの?」

「うん。この暑さで体調を崩しかけたと聞いて、心配になってね。大事なさそうで良かったよ」


 安堵したように息を吐いた穏翊が、不意ににこりと微笑んだ。


「琴華も変わりないかい? ……さっきの様子を見る限り、相変わらず元気いっぱいという感じだけど」

「もう! 人を落ち着きのない子どもみたいに!」

「あはは、ごめんごめん」


 間近で交わされる兄妹の気安い会話に、澄蘭が所在なく佇んでいると、それに気付いた穏翊が、「そうそう」と話題を変えた。


父皇(ちちうえ)がお呼びだよ。桂月(けいげつ)の観月の宴で、久しぶりに琴華の舞を見たいって」


 琴華がぱっと顔を輝かせる。

 詩作や絵画、裁縫など、幅広い才を見せる彼女が最も得意とするのが、舞である。その技量は、一流の舞姫にも引けを取らないと評判だ。

 活発な雰囲気とは裏腹に、女訓書(じょかいしょ)の教えをよく理解し、才能溢れる琴華は、父帝に最も目を掛けられている皇女だった。今年の観月宴(かんげつえん)は特別で、外国からの特使も招いて盛大に行われると聞いている。


「お父様ったら、観月宴って来月の中旬じゃないの! 急に言われても困るわ。……ごめんね澄蘭、行ってくる」


 隠しきれない喜びに弾む声で憎まれ口を叩きながら、「またね」と手を振って琴華は駆け出した。彼女の侍女たちも、慌ててその後を追う。お世辞にも淑女らしいとは言えない動作であったが、舞に鍛えられたその身のこなしはしなやかで、同性の澄蘭の目にも美しく見えた。

 春の嵐のような琴華が立ち去ると、寂れた庭園には、途端に静けさが戻る。後宮にありながら花が植えられておらず、晩秋の紅葉が唯一の見どころのこの楓光園(ふうこうえん)は、今上の好みからも外れており、宦官(かんがん)でさえ手入れを怠り、近寄ろうとはしない。

 こんなところへ供も連れず、義兄は一人でやってきたのだろうか。


 内心首を傾げる澄蘭(ちょうらん)に向き直り、穏翊(おんよく)は不意に相好を崩した。意外なほど親しみやすいその笑顔に、澄蘭の鼓動が僅かに跳ねる。


「――澄蘭も、久しぶり。元気にしていた?」

「は、はい、穏翊様。ご無沙汰しております」


 口ごもりながら答えた澄蘭に、穏翊は困ったように眉を下げた。


「そんなにかしこまらなくても良いのに。……琴華が済まなかったね、騒いで、迷惑をかけたんじゃないかな?」

「いえ……。琴華様にはいつも、気に掛けていただいていて……」


 真っ直ぐに澄蘭を見る穏翊に対して、澄蘭の目線は落ち着かずにあちこちを彷徨(さまよ)う。

 当然、互いのことは幼い頃から良く見知っているが、きょうだいの誰に対しても朗らかで親しみやすい穏翊は、澄蘭にとっても幼い頃からの憧れの存在だった。


 緊張を隠せない澄蘭へ、唐突に距離を詰めた穏翊が身を屈めて腕を伸ばす。息を飲み、咄嗟に身体を引いた澄蘭に、穏翊は「ごめん」と苦笑を浮かべた。


(かんざし)が落ちかけてたから。……動かないで、直してあげよう」


 四爪(しそう)の龍が刺繍された藍の貼貼裏(ちょうり)からも、彼自身からも、品の良い香りが漂ってくる。焚きしめられているのは、恐らく沈香(じんこう)だろうが、香道(こうどう)に疎い澄蘭には断定できない。

 左手を澄蘭の頭部に添え、右手で簪を引き抜き(もとどり)に戻す義兄の仕草は手馴れており、誤って髪を引っ掛けたり、地肌に刺したりすることもなかった。

 穏翊(おんよく)琴華(きんか)兄妹(きょうだい)仲の良さは、幼い頃から周囲の語り草だった。時にはこうして、妹の身だしなみを整えたこともあったのだろうか。


 とは言え、義兄妹としては近すぎる距離に澄蘭が戸惑っていると、穏翊は不意に視線を下げた。つられて彼の視線を追うと、そこには先ほど澄蘭が置いた書物──舞の教本がある。

 けれどもその瞬間、三度吹いた強風が舞の教本の頁を大きくはためかせ、その下に隠していた歴史書の表紙が覗いてしまう。



(しまった……)


 澄蘭は顔を青ざめさせた。


 慌てて穏翊の表情をうかがうと、彼は二、三度目を瞬かせた後、目尻を下げて微笑んだ。


「……ずいぶん難しい本を読んでるんだね」


 女のくせに、歴史書など生意気だ。


 そう叱られることを予想し、身体を強張らせていた澄蘭は、驚いて顔を上げる。義兄の表情に他意は見受けられず、純粋に感心してくれているのだと理解できた。


 思わず、澄蘭の胸が熱くなる。

 何を言おうと考えていたわけではない。けれど思わず口を開きかけた澄蘭は、しかし、響いた物音に再び表情を強張らせた。





 旺盛に枝を伸ばす木々の隙間から、姿を見せたのは、澄蘭の筆頭侍女である姷姷(ゆうゆう)だった。

 生い茂る木々や草木で汚してしまったのだろう、彼女は(とき)の衣を忌々しげに(はた)きながら、こちらに歩み寄って来る。その態度は、皇帝の娘に対するものとは思えない、ぞんざいなものであった。


「澄蘭様、またこんなところで読書なんか……。っ、お、穏翊殿下⁉ どうして……!」


 不躾(ぶしつけ)な物言いは、澄蘭と共にいるのが穏翊であると気づいた瞬間に、なりを(ひそ)める。彼女は慌てて、左腰に両手を添え膝を折る万福(ばんぷく)で、第二皇子に敬意を示した。

 しばらく無言で彼女のつむじを見下ろしていた穏翊は、十分な時間が経ったのち、姿勢を戻すことを許可する。顔を上げた侍女は、媚びるような笑みを浮かべていた。

 穏翊はしかし、変わらぬ穏やかな笑みで淡々と答えた。


「久しぶりの兄妹水入らずを楽しみたくて、近侍たちは庭園の入口に置いてきたよ。……さて、澄蘭に用かな? 侍女殿」


 優美な笑みに見とれていた侍女は、軽く首を傾げる穏翊にはっと息を飲んだ。

 彼女は慌てて胸の前で拱手(きょうしゅ)をし、軽く膝を曲げ、「恐れながら」と淑やかな声音で話を切り出す。


「澄蘭公主様、(おん)遠珂(えんか)様がお見えです」


 そうして彼女は、顔色を伺うように穏翊の顔を見上げる。彼はその目線には気付かないふりで、澄蘭にだけ笑顔を向けた。


「せっかくの婚約者との逢瀬(おうせ)を、邪魔してはいけないね。……澄蘭、名残惜しいけど、また」

「はい……」


 頭を下げて見送る義妹にひらひらと手を振り、穏翊は木立の向こうに姿を消した。

 彼の気配が完全に消えたあと、侍女は当初の横柄(おうへい)な態度に戻って、苛立たしそうに鼻を鳴らす。


「早く行きますよ。約束の時間は、散々念押ししていたでしょう?」

「ごめんなさい……」


 唇を噛んで俯く澄蘭に一つ溜め息をつき、侍女は澄蘭を促して歩き出した。

 これでも普段の扱いよりも幾分穏やかなのは、彼女が穏翊と二人きりで話していたことが影響しているのだろう。







 後宮では、愛されない女は不幸だ。誰からも軽んじられ、やがて忘れ去られる。そしてそれはその子ども達、特に娘も同じ。


 澄蘭の生母、蕙蘭(けいらん)は、皇帝に愛されることのないままこの世を去った。


 先帝の御代、蕙蘭は父が大きな功績を上げたために、皇太子に嫁ぐ栄誉を賜った。だが、入宮後に数度寵を受け、澄蘭を身ごもったのちは、後宮の片隅で母娘ともども、存在を忘れ去られた。澄蘭と同じく、男性向けの書物ばかりを好む変わり者の亡き母は、父の愛を受けられなかった。

 夫の即位に伴い、中級妃の最下位である「貞花(ていか)」に封じられたものの、間もなく病を得て寝込み、そのまま呆気なく帰らぬ人となった。



 彼女が息を引き取るまでの間、父帝は一度も見舞いに来ることはなかった。



 後宮では、皇帝の寵愛がすべてだ。

 琴華(きんか)のような、女性としての魅力も才もない。有力な支援者がいるわけでもない。


 そんな娘が、父帝に忘れ去られるのは、いたし方のないことだった。






 愛される才覚のない女に、後宮で幸せを得る術など、ないのだから。


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