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蘭花伝 ──黎明の皇女は天命に抗う──  作者: 冬生 恵
【第四章】黎明(れいめい)の空
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三十七. 簪と婚礼衣装(一)

 慌てて窓際に駆け寄ると、破れ目から杏仁(あんにん)型の大きな瞳がこちらを覗き込んでいる。澄蘭(ちょうらん)は潜めた声で返した。


琴華(きんか)様⁉ どうして……!」

「良かった。裏の部屋の壁が一箇所崩れてて、そこから入れるって聞いてるの。待っててね」


 悪戯っぽく微笑んでいたのは、義姉の琴華だった。


 彼女が言うのは、床板が腐り落ちた、かつての女官の控室である小部屋のことだろうか。

 なぜその存在を知っているのか、そもそもなぜ彼女がここにいるのか──。困惑する澄蘭を軽やかに振り切り、彼女は姿を消した。


 見張りに見つかるのではと澄蘭が肝を冷やしていると、やけにゆっくりとした足音が、それも二つ近づいてきた。異変を察した宦官(かんがん)たちかと、澄蘭は血の気を引かせる。だが、すぐに扉の向こうから澄蘭を呼ぶ義姉の声が聞こえ、澄蘭は息を詰めて粗末な木の扉に飛びついた。音をたてぬよう、慎重に細く開ける。

 その隙間をすり抜けるように部屋に入ってきた二人に、澄蘭は瞠目(どうもく)した。


「琴華様……。それに、(さい)媛儀(えんぎ)様まで……」


 琴華とよく似た、擦り切れた衣に身を包んでいたのは、養母の芙澤(ふたく)だった。

 心労からか、美しい丸みを帯びていた頬はげっそりとこけ、(なめ)らかであった肌も夜目にも明らかなほど荒れている。視線を移した先の琴華の顔も、美しく化粧を施され一見変わらぬように見えたが、大きな布包みを背から解いた手は、記憶しているよりも骨張っている。


 罪悪感に、澄蘭は視線を泳がせた。


「申し訳ございません……。たくさん、ご迷惑をおかけして……」


 苦渋(くじゅう)(にじ)んだ彼女の声を、しかし琴華は聞こえなかったように、軽やかに笑い飛ばした。



「まったく、お父様も(ひど)いんだから。大事な義妹(いもうと)の人生の門出なのに、見送りも挨拶も許してくれないなんて! 腹が立つから、こっそり来てしまったわ」


 可愛らしく頬を膨らませた後、彼女は養母の身体を支えて(とう)に腰かけさせる。恐縮しきりの芙澤の膝に、下ろした布包みを載せたあと、琴華は澄蘭に歩み寄ってきた。





「……どうしても、これを渡したかったの」





 (ささや)くように告げた琴華(きんか)から手渡されたのは、見覚えのある簪だった。

 澄蘭(ちょうらん)は目を見開く。

 それは、着道楽で洒脱(しゃだつ)な琴華が、いつも肌身離さず身に着けている簪。いつか彼女の侍女が、「初めて父帝の前で舞った際に(たまわ)った」と言っていたものだ。澄蘭に頬を叩かれ、転んで落としてしまった際にも、血相を変えて傷がないことを確かめていた。その義姉らしくない必死な姿を、澄蘭は苦い思い出とともに覚えている。


 受け取れない、と首を振る澄蘭に苦笑し、琴華は無理矢理その簪を握らせた。

 その際目に入った彼女の右(てのひら)に、見慣れない傷跡を認め、澄蘭は驚いて顔を上げる。刃物か、形の鋭利(えいり)な石ででも切ったかのようなその傷に、澄蘭は息を飲んで問いかけた。


「琴華様、その、怪我は……」

「ああ、ちょっと失敗してしまって。痕は残ったけど、舞にも刺繍にも支障はないから」


 困ったような笑顔を浮かべる義姉を見つめ、不意に澄蘭は、長く続いた取り調べ中、獄の外で度々響いていた女性の怒声を思い出す。誰か他に、取り調べを受けている女性のものかと思っていたが──。


 張りのある、良く通る声。


 あの声は、舞や歌でしっかりと鍛えた義姉のものに似ていた気がすると、今になって思い当たった。その声が突如悲鳴を上げ、戸惑うような、焦ったような宦官たちの声が響いた一瞬があったことも。


 あの取調室の周りは整備もされておらず、近づく者がいればすぐに分かるようにと、形の悪い大小の石があちこちに撒かれていた。


 まさか彼女は、連日取調室までやって来ていて、見張りの宦官ともみ合いにでもなったのだろうか。その際に転び、消えぬ傷を負ってしまったのだろうか。


 白菊(しらぎく)のような滑らかで美しい掌に(みにく)く走った傷跡に、澄蘭は肩を震わせた。





「お義姉(ねえ)様、まさか……」

錚雲(しょううん)の伝統。身内に借りたものを着けて婚姻(こんいん)の儀に(のぞ)むと、その花嫁は幸せになれるんでしょう? 観月宴(かんげつえん)で仲良くなった、あちらの踊り子に聞いたわ。

……貸してあげる。また次に会う時に、返してね」


 身を震わせる澄蘭(ちょうらん)をいなすように、琴華(きんか)は朗らかに言って笑う。けれどその瞳は、見まごうことなく潤んでいた。

 澄蘭は言葉に詰まる。


「琴華様……」

「もう、『様』はやめてって言ってるじゃない。姉妹なんだから」




 いつもと変わらぬ笑み、その言葉に、澄蘭は琴華に対して抱いていた思いが、誤解に基づくものであったと知る。


 義姉は哀れみや優越感から、彼女を構っていたわけではない。真実、姉妹として、家族として親しみ、愛情をもって接してくれていたのだと。

 その思いは今も変わらず、父の命令を破るという危険を冒してまで、会いに来てくれた。

 澄蘭に向けたかつての忠告も、彼女を案じる、その一心からだったのだと。



 「また会う時に返して」という言葉に込められた真意──彼女の無事と再会を願う気持ちを感じ取り、澄蘭は何も言えなくなる。



 そんな澄蘭の肩を優しく叩き、琴華は(きびす)を返した。



「……(さい)媛儀(えんぎ)、外で待っています。見張りに渡した賄賂(わいろ)の効果が切れる前に呼びに来るから、手早くね」

「ありがとうございます、琴華公主(こうしゅ)様」


 頭を下げる芙澤(ふたく)にひらひらと手を振り、琴華の姿が消える。

 訳が分からず養母を見つめる澄蘭をじっと見詰め、芙澤は義娘(むすめ)の左頬にそっと右手を添えた。

 その手はいつもの様な滑らかさはなく、がさがさに荒れ、骨張っている。養母にかけた心労の大きさを感じ取り、澄蘭は申し訳なさでいっぱいになる。表情を曇らせる澄蘭に、芙澤はいつも通りの、どこか困ったような笑みを浮かべた。


「……琴華様が、便宜(べんぎ)(はか)ってくださったの。私ではとても用意できない額の賄賂を、見張りに渡してくださって……。どうしても、これを貴女(あなた)に渡したかったから」


 そう言って彼女が懐から取り出したのは、くたびれた薄い紙包みだった。

 澄蘭は首を傾げ、養母を見上げる。


「文……ですか……?」

「ええ。(おん) 遠珂(えんか)様から、貴女宛ての」


 弾かれたように顔を上げる澄蘭に視線を合わせ、芙澤は一つ頷いた。


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