三十七. 簪と婚礼衣装(一)
慌てて窓際に駆け寄ると、破れ目から杏仁型の大きな瞳がこちらを覗き込んでいる。澄蘭は潜めた声で返した。
「琴華様⁉ どうして……!」
「良かった。裏の部屋の壁が一箇所崩れてて、そこから入れるって聞いてるの。待っててね」
悪戯っぽく微笑んでいたのは、義姉の琴華だった。
彼女が言うのは、床板が腐り落ちた、かつての女官の控室である小部屋のことだろうか。
なぜその存在を知っているのか、そもそもなぜ彼女がここにいるのか──。困惑する澄蘭を軽やかに振り切り、彼女は姿を消した。
見張りに見つかるのではと澄蘭が肝を冷やしていると、やけにゆっくりとした足音が、それも二つ近づいてきた。異変を察した宦官たちかと、澄蘭は血の気を引かせる。だが、すぐに扉の向こうから澄蘭を呼ぶ義姉の声が聞こえ、澄蘭は息を詰めて粗末な木の扉に飛びついた。音をたてぬよう、慎重に細く開ける。
その隙間をすり抜けるように部屋に入ってきた二人に、澄蘭は瞠目した。
「琴華様……。それに、崔媛儀様まで……」
琴華とよく似た、擦り切れた衣に身を包んでいたのは、養母の芙澤だった。
心労からか、美しい丸みを帯びていた頬はげっそりとこけ、滑らかであった肌も夜目にも明らかなほど荒れている。視線を移した先の琴華の顔も、美しく化粧を施され一見変わらぬように見えたが、大きな布包みを背から解いた手は、記憶しているよりも骨張っている。
罪悪感に、澄蘭は視線を泳がせた。
「申し訳ございません……。たくさん、ご迷惑をおかけして……」
苦渋の滲んだ彼女の声を、しかし琴華は聞こえなかったように、軽やかに笑い飛ばした。
「まったく、お父様も酷いんだから。大事な義妹の人生の門出なのに、見送りも挨拶も許してくれないなんて! 腹が立つから、こっそり来てしまったわ」
可愛らしく頬を膨らませた後、彼女は養母の身体を支えて榻に腰かけさせる。恐縮しきりの芙澤の膝に、下ろした布包みを載せたあと、琴華は澄蘭に歩み寄ってきた。
「……どうしても、これを渡したかったの」
囁くように告げた琴華から手渡されたのは、見覚えのある簪だった。
澄蘭は目を見開く。
それは、着道楽で洒脱な琴華が、いつも肌身離さず身に着けている簪。いつか彼女の侍女が、「初めて父帝の前で舞った際に賜った」と言っていたものだ。澄蘭に頬を叩かれ、転んで落としてしまった際にも、血相を変えて傷がないことを確かめていた。その義姉らしくない必死な姿を、澄蘭は苦い思い出とともに覚えている。
受け取れない、と首を振る澄蘭に苦笑し、琴華は無理矢理その簪を握らせた。
その際目に入った彼女の右掌に、見慣れない傷跡を認め、澄蘭は驚いて顔を上げる。刃物か、形の鋭利な石ででも切ったかのようなその傷に、澄蘭は息を飲んで問いかけた。
「琴華様、その、怪我は……」
「ああ、ちょっと失敗してしまって。痕は残ったけど、舞にも刺繍にも支障はないから」
困ったような笑顔を浮かべる義姉を見つめ、不意に澄蘭は、長く続いた取り調べ中、獄の外で度々響いていた女性の怒声を思い出す。誰か他に、取り調べを受けている女性のものかと思っていたが──。
張りのある、良く通る声。
あの声は、舞や歌でしっかりと鍛えた義姉のものに似ていた気がすると、今になって思い当たった。その声が突如悲鳴を上げ、戸惑うような、焦ったような宦官たちの声が響いた一瞬があったことも。
あの取調室の周りは整備もされておらず、近づく者がいればすぐに分かるようにと、形の悪い大小の石があちこちに撒かれていた。
まさか彼女は、連日取調室までやって来ていて、見張りの宦官ともみ合いにでもなったのだろうか。その際に転び、消えぬ傷を負ってしまったのだろうか。
白菊のような滑らかで美しい掌に醜く走った傷跡に、澄蘭は肩を震わせた。
「お義姉様、まさか……」
「錚雲の伝統。身内に借りたものを着けて婚姻の儀に臨むと、その花嫁は幸せになれるんでしょう? 観月宴で仲良くなった、あちらの踊り子に聞いたわ。
……貸してあげる。また次に会う時に、返してね」
身を震わせる澄蘭をいなすように、琴華は朗らかに言って笑う。けれどその瞳は、見まごうことなく潤んでいた。
澄蘭は言葉に詰まる。
「琴華様……」
「もう、『様』はやめてって言ってるじゃない。姉妹なんだから」
いつもと変わらぬ笑み、その言葉に、澄蘭は琴華に対して抱いていた思いが、誤解に基づくものであったと知る。
義姉は哀れみや優越感から、彼女を構っていたわけではない。真実、姉妹として、家族として親しみ、愛情をもって接してくれていたのだと。
その思いは今も変わらず、父の命令を破るという危険を冒してまで、会いに来てくれた。
澄蘭に向けたかつての忠告も、彼女を案じる、その一心からだったのだと。
「また会う時に返して」という言葉に込められた真意──彼女の無事と再会を願う気持ちを感じ取り、澄蘭は何も言えなくなる。
そんな澄蘭の肩を優しく叩き、琴華は踵を返した。
「……崔媛儀、外で待っています。見張りに渡した賄賂の効果が切れる前に呼びに来るから、手早くね」
「ありがとうございます、琴華公主様」
頭を下げる芙澤にひらひらと手を振り、琴華の姿が消える。
訳が分からず養母を見つめる澄蘭をじっと見詰め、芙澤は義娘の左頬にそっと右手を添えた。
その手はいつもの様な滑らかさはなく、がさがさに荒れ、骨張っている。養母にかけた心労の大きさを感じ取り、澄蘭は申し訳なさでいっぱいになる。表情を曇らせる澄蘭に、芙澤はいつも通りの、どこか困ったような笑みを浮かべた。
「……琴華様が、便宜を図ってくださったの。私ではとても用意できない額の賄賂を、見張りに渡してくださって……。どうしても、これを貴女に渡したかったから」
そう言って彼女が懐から取り出したのは、くたびれた薄い紙包みだった。
澄蘭は首を傾げ、養母を見上げる。
「文……ですか……?」
「ええ。温 遠珂様から、貴女宛ての」
弾かれたように顔を上げる澄蘭に視線を合わせ、芙澤は一つ頷いた。




