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蘭花伝 ──黎明の皇女は天命に抗う──  作者: 冬生 恵
【第四章】黎明(れいめい)の空
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三十六. 追憶

 錚雲(しょううん)の特使は、すぐに話に応じた。


 全権を任されているというその特使は、礼国(れいこく)内の騒動を見聞きしていたのか、当初は降嫁(こうか)する皇女が澄蘭(ちょうらん)であるという事実に悩む素振りを見せたようだ。

 だが、澄蘭が父帝に提言した通りの話を、典部(てんぶ)の官僚から聞かされると、一転して受け入れたそうだ。彼は即座に祖国に早馬を飛ばし、一旬(いちじゅん)あまり後には、早々に降嫁話が成立した。

 諸々の準備を考慮し、澄蘭の輿入れは、それから二旬(にじゅん)後に決まった。




 澄蘭は真っ先に、祖父と養母へ宛て文を出した。皇太子暗殺未遂に始まる一連の騒動に巻き込まれ、迷惑を掛けたことへの()びと、彼らの永の健勝を願う文面を、何度も書き直した末に仕上げたものだ。

 他にも、降嫁に際して、持参を許可された書物をまとめ、遠珂(えんか)の遺した訳語集に丹念に目を通し、ひっそりと日々を過ごした。


 その訳語集は、かつて(ぎょう)で官僚を務めていた役人が主導し、(れい)の国内で作成された古いものだった。

 礼王朝成立後、錚雲(しょううん)との国交は絶えて久しく、現在では意味や発音、言い回しが変わったものも多々ある。

 それらについて、訳語集には古い墨痕(ぼっこん)の走り書きと、その脇にまだ新しい丹念な解説が書き記されていた。見覚えのある字はどちらも、遠珂のものだ。古いものは錚雲に赴いた際の覚え書き、新しいものは帰国後に書き込んだものだろうか。


 彼は、錚雲との交渉の中で、かの国の官僚と会話が噛み合わずちぐはぐになってしまったことを、面白おかしく話してくれた。つい声を上げて笑ってしまった澄蘭に、遠珂も嬉しそうに微笑んでいた。



 あの時間はもう、二度と戻らない。



 懐かしい記憶に胸を痛めながら、澄蘭は時間を掛けて、彼の書き込みの跡を辿り続けた。






 気が付けば年は改まり正月(しょうがつ)となり、澄蘭(ちょうらん)は十八になった。

 七日にわたって続く、新年を祝う歳首(さいしゅ)大宴(たいえん)に盛り上がる声は、内廷(ないてい)の北の隅の冷宮(れいぐう)にも届いていた。やがてその喧騒(けんそう)も落ち着き、正月も半ばを過ぎた頃。澄蘭の錚雲(しょううん)へ向けての出立(しゅったつ)は、いよいよ明日に迫っていた。



 怒涛(どとう)のように過ぎ去った一年を、澄蘭は一人、夜空に浮かぶ月を眺めながら思い返している。



 春先の桃月(とうげつ)に錚雲との交渉が成り、その翌月、晩春の爽やかな風が吹き抜ける梅月(ばいげつ)には、かの地から礼国の使節団が戻った。牡丹の宴で皇帝直々(じきじき)褒美(ほうび)の言葉を(たまわ)り、恐縮しきりであった文官たちの姿を、澄蘭も遠目に見ていた。


 蓮の咲き誇る蒸し暑い夏の盛り、荷月(かげつ)の半ばに、澄蘭と遠珂(えんか)の婚約が結ばれた。


 人目のない庭園で読書に勤しんでいた、夏の終わりの蘭月(らんげつ)に、穏翊(おんよく)と親しく言葉を交わし始めた。婚約者となって一月あまり経ち、遠珂との面会も頻繁に行われるようになり、彼の妹の陽葵(ようき)とも一緒に淑女教育を受け始めた。初めて城下に降りたのも、この頃だった。


 月の美しさの増す桂月(けいげつ)の初めには、書物という共通の話題で意気投合した遠珂から、稀覯本(きこうぼん)を贈られ、それを読み解くために典部の書庫に赴いた。長兄の直謙(ちょくけん)の態度や、女官たちの陰口に打ちひしがれ、体調を崩した。

 現実から逃避するように、窮民救済(きゅうみんきゅうさい)にのめり込んでいったのも、この時期からだろう。義姉の琴華(きんか)とも仲違いし、兄妹(きょうだい)の中で唯一の味方と感じられた穏翊に傾倒(けいとう)していった。


 菊月(きくげつ)良月(りょうげつ)は、共に学ぶ陽葵(ようき)が困惑するほどの勢いで、淑女教育をこなした。


 そして、雪のちらつき始めた、冬月(とうげつ)

 父と義兄二人の企みにより、遠珂(えんか)とその父は獄中で死に、澄蘭(ちょうらん)も獄に囚われた。兄妹として親しみを感じていた穏翊(おんよく)の本性を知って絶望し、「誰も信じられない」、「消えてしまいたい」と嘆いた。

 自己憐憫(じこれんびん)に浸る澄蘭の目を、容赦なく覚ましてくれたのは、牢で再会した陽葵だった。


 年の終わり、腊月(らつげつ)、父帝と間近で対峙した。国を統べる長である父の威厳(いげん)に何度も怯んだ末、(おん)家の冤罪(えんざい)の証明と、錚雲への澄蘭の降嫁(こうか)を交渉した。




 夜が明ければ、澄蘭はその錚雲へ旅立つ。



 夜も()け、出国までの臨時として派遣されてきた女官たちも、寮に戻っていた。一度、かつての侍女たちがどうしているかと問いかけたこともあったが、口のきけない彼女たちは、黙って首を振るだけだった。

 外には今晩も見張りとして、武装した宦官(かんがん)たちがいるのだろう。

 女官たちが適当に支度をして行った寝床に向かおうと、澄蘭が腰を上げたその時だった。





「──澄蘭。起きている?」




  ところどころ格子(こうし)が折れ紙も破れた窓越しに、聞き覚えのある小声が聞こえ、澄蘭は目を見開いた。

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