三十一. 戦いの決意
澄蘭が現在捕らえられている一般牢は、影廠の取調室から北西に歩いてすぐの場所にある。
その僅かな道のりの途中、遠方から響く人々の歓声や、楽器の演奏音などの賑やかな物音に気が付き、澄蘭はふと足を止めた。
「……公主?」
背後を振り返る彼女に、警戒した様子を見せながら、移送担当の宦官が声を掛ける。
本来であれば、囚人と私的な会話を交わすことは禁じられているはずで、宦官は周囲の目を気にして明らかにソワソワしている。それでも彼は、澄蘭の目線を追い、辛うじて聞き取れる程度の声量で囁いた。
「……魯皇太子妃様が男児をお産みになったので、その祝いの宴ですよ」
驚きに目を見張り、澄蘭は宦官に視線を戻した。
たしかこの事態の発生の直前、彼女は産み月前にも関わらず体調の異変を訴えたと、穏翊が口にしていたはずだ。
その時は持ち直したそうだが、無事に出産が終わったのだろうか。
「いつ?」
「……七日前。温父子が獄死し、貴女様がここに入った日です」
「そう……」
俯いた澄蘭に構わず、移送官は再び歩き出した。澄蘭は黙ってその後に続きながら、内心でひとりごちる。
(ほんの少しだけ、穏翊の言っていたことが分かる気がする……)
あの朝、義兄である皇太子の直謙は、正妻の異変を聞きつけ、朝餉も取らずに部屋を出たという。
真偽のほどは定かではないが、もしあの時に彼女が出産を終えていれば。遠珂たちには、違う結果が待ち受けていたのではないか──
(たとえ、事件そのものの発生を、止めることは出来なかったとしても。
……せめて、もう少しだけ早く、産まれていれば。情けがかけられ、陽葵たちへの宮刑は減免されたかも知れない)
皇太子の嫡男誕生は、国にとっても大きな慶事だ。正妻との間に、待望の男児が誕生したとなれば、恩赦が出された可能性もあった。
「行氏の事件の発覚がもう少し遅ければ」と、血を吐くように叫んでいた穏翊の姿が脳裏に浮かび、澄蘭は黙って頭を振る。前方を行く宦官の訝るような視線を受け、彼女は足早に後を追った。
牢に戻った時、すでに陽葵の姿はそこにはなかった。血相を変える彼女に、移送官は「手当のために連れ出され、その後は然るべき者に保護された」と告げる。内心の恐慌を押し殺し、祈るような気持ちで頷いた澄蘭は、自分に宛てがわれた獄の中でじっと膝を抱えて過ごした。
そして、牢内に差し込む陽が隠れ、すっかり暗くなった頃。移送担当の宦官が、身なりの良い中年の宦官を伴って現れた。
身につけた玉佩が示す身分は、侍奉局の副首。纏うことが許された装飾品や、衣装の豪華さ、何より流麗に整った容貌から、父帝の側近の一人であろうと澄蘭は判断する。
彼は案内の宦官に手燭を掲げさせ、大仰な仕草で懐から取り出した書簡を、高く澄んだ声で読み上げた。
「『明日、巳の終刻、清寧殿にて』。……明朝、手伝いの女官を寄越す。澄蘭公主にあっては、司率局にて湯浴みをし、身なりを整え、案内が来るのを待つように」
正式な勅書ではないのだろう。最低限の用件のみが記された書を、澄蘭は押しいただくように受け取った。
侍奉局所属の宦官は、牢に漂う悪臭に閉口したように。顔を顰めている。皇族や妃嬪に侍る彼らは、全宦官の憧れと目標であり、その上位第二層の副首ともあれば、選民意識の強い者が多いと聞く。こんな薄汚れた牢獄に足を運ぶことは、彼にとっても甚だ不本意なのだろう。
手燭を持った宦官に先導を命じて、彼は早々と去っていった。
澄蘭は、薄っぺらなその書を両手で握り締める。
父帝が何を思って、こんなにも早く面会に応じたのかは分からない。取調官にああは言ったものの、彼女の要望など握りつぶされるか、叶えられたとしてももっと時間がかかると予測していた。
それでも、望んだ機会は与えられた。
澄蘭は、昨晩必死に考えた内容を、何度も頭の中でなぞる。
抜けはないか、理論が飛躍していないか。
自身の知る現状を整理し、切り札とすべき内容を確認し、度々言うべきことを反芻した。
そうして、自分の主張の全てを頭に叩き込んだ澄蘭は、明日に備えるように早々と藁敷きの寝床に潜り込んだ。




