三十. 覚醒と命令
湯気の立たない粥の椀を手に、一人の宦官がこちらに向かって歩いてきた。申し訳程度の朝食が済み次第、すぐにどちらかを取調室に連行するつもりなのだろう。獄の前に立った彼が、陽葵を起こす素振りを見せないことから、聴取の対象は澄蘭であるとすぐに理解できた。
逃走する様子を見せればすぐに、暴力を振るうことを許可されているのだろう。打擲用の鞭を腰に下げた、まだ幼さの残る面立ちの宦官は、眠り続けている陽葵の獄に粥の椀を押し込んだ。
その後、彼は澄蘭のいる方へ、真っ直ぐに歩いてくる。
格子の際に立つ澄蘭を邪険に追い払い、食事の差し入れ口の鍵を外した宦官は、粗雑な手つきで椀を差し出してきた。澄蘭は眉間に皺を寄せ、その椀を黙って受け取る。
「ご苦労さま」
そう言って相手を労い、澄蘭は長年叩き込まれてきた優雅な仕草で、藁敷に腰を下ろした。
粥に異物が入っていないことを目視で確認し、匙を手に取る。
粥を口に運び始めた澄蘭を、宦官は驚いたように見やった。昨日まで、ほとんど食事をとることもしなかったためだろう。その視線を、澄蘭は真っ直ぐに見つめ返す。
品良く、けれど勢いよく粥を平らげた澄蘭は、たじろいだ様子の宦官を見上げ、芯の通った声で告げた。
「……何をぼうっとしているの? 取り調べなのでしょう。早く連れて行きなさい」
叱咤され、焦ったように鍵を開けた宦官を押しのけるように、澄蘭は牢獄から足を踏み出した。宦官は慌てて先導を始める。
向かいの獄に目をやると、陽葵はあどけない表情で眠っていた。澄蘭は一つ息を吐き、その後は振り返ることなく、前へと進んだ。
目を瞑っていても障害物を避けて歩けそうなほど、慣れた取調室に足を踏み入れ、澄蘭はつかつかと空いている椅子に向かった。
すっかり顔馴染みとなり、もはや父帝よりも顔を合わせた回数が多いであろう取り調べ担当の宦官が、驚いたように目を見開いている。
改めて見渡した部屋の壁は、あの日穏翊が蹴り飛ばした机がぶつかり、今も穴が開いたままだ。蹴られた方の机も、天板がひび割れ、脚に不具合でも出たのか、手をつくとグラグラと揺れる。
溜息をついた澄蘭が、衣擦れの音も立てずに椅子に腰を下ろすと、向かいの取調官が気を取り直すように咳払いをした。
「連日申し訳ございません、公主様」
皇族牢から一般牢に移された澄蘭に、この宦官は時折、意図的に慇懃な言動を繰り返していた。罪が確定すれば廃籍となる彼女をいたぶるように、敢えて彼女を「公主」扱いする。
その底意地の悪さに、澄蘭は内心辟易辟易としながらも、優雅に両唇を上げて微笑んでみせた。
「……そちらも、毎朝早くからご苦労様。陶副帥」
労う素振りで発せられた皮肉に鼻白み、また、澄蘭が自発的に会話に応じたことに驚いたように、宦官――陶氏は口元を歪めた。ちなみに副帥は、影廠の上位二層目に属する宦官だ。彼は一日も途切れることなく、澄蘭の取り調べにあたっている。
「……公主様が罪を認めて下されば、私もゆっくり眠れるのですが」
「そう。でも、私は何も知らないし、やっていない。貴方の安眠の日々は遠そうね」
皮肉めいた言葉に眉を顰め、むっとしたように押し黙った陶を、澄蘭は真正面から見つめた。片目を眇めた彼に、わざとらしく首を傾げてみせる。
「ところで、陶副帥。貴方にお願いがあるのだけれど」
「……聞きましょう」
重々しく答えた彼に、澄蘭は表情を引き締めて告げた。
「一つは、昨晩連行された、温 陽葵について。父皇様が温家に下された裁定は、承知している。けれど彼女は、私と義姉妹の契りを結んだ間柄です。くれぐれもその立場に相応しい扱いを。
……それともう一つ。私と、父皇様の面会の機会を設けてください」
「……ふざけるな!」
両掌で激しく机を叩き、陶が立ち上がる。澄蘭の言い分に激高したように、澄蘭の胸元を掴み上げた。
取り調べの記録を取るため、脇に控えていた若年の宦官が、慌てて上官を制する。しかし、彼も澄蘭の変貌に戸惑ったように、上司である陶と澄蘭を交互に見比べていた。
「陛下がお会いになるわけがないだろう! 立場を弁えろ!」
間近で響いた陶の怒声に、澄蘭は内心怯みかける。だが、ここで退いては、父との面会など到底実現しない。腹を括った澄蘭は、寸毫たりとも動じていないとばかりに、大声で一喝した。
「――お前こそ、立場を弁えなさい!」
その声に怯んだように、陶は振り上げていた右の拳を彷徨わせる。そんな相手を、至近距離から睨み据えた澄蘭は、一転して冷ややかな声を発した。
「私を廃するという裁きが下されていない以上、まだ私は、お前が『陛下』と崇める方の娘です。――私が『お願い』と称した意味が、分かりませんか?」
陶が黙り込み、澄蘭を凝視する。
長い間洗っていない髪には脂が浮き、取り調べ中に水を掛けられた部分は、まだらにごわついている。幾日も着替えていない衣は、冬とはいえ饐えた匂いを発し、膝周りを中心に全身が土で汚れていた。
そんなみすぼらしい姿をものともせず、澄蘭は威圧的な雰囲気を漂わせている。
彼女は、見開いた目に力を込め、自分の胸元から忌々しげに手を離す陶に向かって告げた。
「端明帝の第二皇女、蘇 昭瑶の名において命じます。──父に会わせなさい。今すぐに」
静まり返った空間に、澄蘭の張りのある声が響き渡る。
しばらく押し黙った後、陶は背後の部下を振り向き、耳打ちをした。驚いたように自分を見る若い宦官を適当な手振りで追い払い、彼は音を立てて椅子に座り直す。無言で見つめる澄蘭に、真正面から目線を返し、両腕を組んだ。
重苦しい沈黙の中、二人は身動ぎもせず睨み合っていた。
やがて、部屋に差し込む日差しが僅かに高くなった頃。
記録官を務めていた若手宦官が、見覚えのある若い宦官を連れて、部屋に戻って来た。記録官は陶副帥のもとへ屈み込み、その耳元に何かを囁く。
配下の者の報告を受け、溜息を一つ吐いた後、陶は澄蘭に向き直って淡々とした様子で告げた。
「温の娘に関する貴女の要望は、影廠全体で徹底するよう、上官に報告した。面会の件も、侍奉局へ使者を送っている。陛下より、何らかのご回答があるまでは、牢で待機していただこう」
「……分かりました」
落ち着いた声音で答えた澄蘭に、陶は本日の聴取の終了を早々と告げた。無言で頷き、澄蘭は立ち上がる。
年若い記録官に連れて来られ、彼の背後で訳も分からず右往左往しているのは、今朝、彼女をこの部屋へと連行してきた宦官だった。食事の差し入れと囚人の移送を担当する、下級官だ。その彼を促し、澄蘭は力強い足取りで歩き出す。
澄蘭が取調室の敷居を跨ごうとした、その時だった。
溜息と共に漏れた陶の声が、澄蘭の背を追いかけてきた。
「……やはり母娘か。ふてぶてしいところは、沈貞花によく似ておられる」
弾かれたように振り返り、澄蘭は尋ねた。
「――母を知っているの?」
十年前に病で亡くなった母については、記憶ももう朧気だ。周囲はいつも、「冷遇された非才の中級妃」と言うばかりで、「ふてぶてしい」などと評する言葉は聞いたことがない。
驚く澄蘭に向かって、陶は犬の仔でも追い払うように、ぞんざいに手を振る。
無礼な振る舞いに顔を顰め、澄蘭は再び歩を進めた。




