二十八. 慟哭(どうこく)の糾弾
激しいその音に、澄蘭の意識は引き戻され、彼女は驚きに息を飲む。
重罪を犯した者が収容されるこの牢に入れられた直後には、目に入る範囲に人の姿はなかったように思う。
いつの間に、向かいに人がいたのか──澄蘭は久しぶりに明瞭になった意識の中、薄暗い視界に目を凝らした。
その人物は、拷問を受け、顔のあちこちをどす黒い色に染めていた。
背に打ち下ろされるはずの鞭の当たり所が外れたのか、ぼろぼろになった衣の右袖が破れ、腕に無残な傷跡がのぞいている。髪はざんばらに切り落とされ、腫れ上がった両目や両頬の周りを不規則に覆っていた。
その悲惨な面持ちには、しかし、微かに見覚えがあった。
澄蘭は目を見開く。
「……陽葵……?」
格子に縋るように中腰で立ち、息を荒げるその少女は、共に淑女教育を受けてきた友人――遠珂の妹である陽葵に違いなかった。
息を飲んだ澄蘭は、自身も格子に両手を掛け、慌てて立ち上がる。
「陽葵!? どうしてこんなところに……」
「──気安く呼ぶなぁッ‼」
しゃがれた声で叫ばれ、澄蘭は瞬時、呼吸を忘れた。
かつて彼女を「姉」と呼び、親しんでくれた少女の姿はそこにはなかった。
激憤に顔を歪めるその様子に、澄蘭は先日の義兄の姿を思い出し、顔を蒼白にする。
爪を剥がされる直前まで痛めつけられたのか、真っ赤に染まる指先で格子を掴んだ陽葵は、憤怒の感情を両目に宿らせ、澄蘭を睨みつけた。
「お前のせいで……っ! お前のせいで、お兄様もお父様も命を落としたんだ‼ 馴れ馴れしく呼ぶな!」
ぶつけられた激情に、澄蘭は何も言えずに陽葵を見つめる。無言で震える彼女にますます憤るように、陽葵は叫んだ。
「あんたが……あんたが余計なことを考えなければ、お父様もお兄様もこんなことにならなかった! お兄様があんな恐ろしいこと、企んだはずがないのに……!」
目から涙を噴き出し、陽葵が澄蘭を大声で詰る。
澄蘭は全身を瘧に罹ったように身を震わせ、呼吸を不規則に乱し、格子を握った手に力を込めた。
陽葵はそんな澄蘭をしばらく睨み付けていたが、やがて格子を握りしめたまま、ずるずるとその場に崩れ落ちる。地面に膝をつき、陽葵は大声を上げて咽び泣き始めた。
その背が大きく波打つのを、澄蘭は無言で見つめるしかなかった。
彼女は穏翊たちが、玄以鋭に命じて用意させた虚偽を、そのまま聞かされているようだった。
恐らく、世間の人々と同様に。
陽葵は地面に蹲ったまま、ぽつぽつと言葉を零し始めた。
「お父様とお兄様が亡くなったあと……一族は身柄を捕らえられた。弟は去勢され、母様と私は宮刑を受けて奴婢にされたわ……。その弟が昨日、高熱と激痛に魘されながら死んで……。母様は今朝、心の臓が止まっているのが見つかった……」
私は、牢の中での皇族への暴言を咎められて、ここに連れて来られた。
そう告げて嗚咽を漏らす彼女に、澄蘭は掠れた声で呻いた。
「そ……んな……」
澄蘭は、その場にへたり込む。
でっち上げられた罪の大きさから、遠珂の家族に及ぶ災難にも、危惧は抱いていた。
けれど、事態は澄蘭が想像していたよりも、遥かに酷い末路を辿っている。父や義兄達の容赦のなさ、陰湿さに、澄蘭は全身に寒気を感じた。
「その怪我は……」
「ほとんどは、宮刑を受ける時にやられたものよ。この指は……不敬罪への罰ということだけど」
格子を両手で握ったまま、腰を落とし目を見開いている澄蘭に、涙に濡れた顔を上げた陽葵は、血を吐くように叫んだ。
「……お兄様はいつも言っていたわ。『澄蘭様は皇女として、ずっと気を張って生きてこられたんだろう。これからは、好きなことを楽しんでもらえたら』って……! 嫁いでくる貴女を驚かせるために、古今東西の書物をたくさん集めてた。
『家を書物で埋め尽くす気ですか』ってお母様に呆れられても、『澄蘭様なら喜んでくださると思う』なんて、馬鹿みたいに笑ってた……!
父様は苦笑いを浮かべていて、弟は呑気に『自分も読みたい』って……!」
遠珂の笑顔が、賑やかに言い合う家族の姿がありありと想像出来て、澄蘭は顔を歪めた。
面会で語り合った時の、最後に喧嘩別れした時の、彼の姿を思い起こす。
不器用ながらも、彼女を楽しませようと、いつも話題を探してくれていた。
やがて書物の話で打ち解けたあとは、彼女の話を楽しげに聞き、貴重な稀覯本を惜しみなく与えてくれた。異国の思い出話をねだる彼女に、思い出せる限りの話をしてくれた。
業務に忙殺され、目の下に隈を作りながらも、「会いに来る」と断言してくれた。
澄蘭が危険な行為に身を投じていることを案じ、必死に止めようとしてくれた。
澄蘭が勝手に彼を誤解しただけで、『家族』に受け入れられたいと穏翊を優先していただけで、彼はいつも、真摯に澄蘭に向き合ってくれていた。そのことを、今になって痛感する。
けれど、今更悔やんでも、嘆いても、全てが手遅れだった。
彼は、理不尽に命を奪われた。
澄蘭の『家族』の策によって。
何も言えずに黙り込む澄蘭に、陽葵は顔をくしゃくしゃにして叫んだ。
「かえしてよ……お父様を、お兄様を、母様を、弟を……! 私の家族を、人生を、未来を返して!」
地に伏せ号泣する陽葵を、澄蘭は格子ごと拳を握り締め見つめていた。その爪が皮膚を食い破り、血がにじみ出していることにも、気付かないまま。
家名を不名誉に失い、奴婢とされた以上、陽葵が貴族である婚約者に嫁ぐことはない。
彼女が心から婚約者を慕っていたことを、澄蘭は知っている。講義の合間に婚約者について話す彼女は、羨ましいほどに幸せそうだった。
そんな彼らが夫婦として幸せを誓う日は、未来永劫やって来ない。
一緒に学んだ楽しい時間は、もう二度と戻らないのだと、澄蘭は頭を殴られたような思いで受け止めた。




