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蘭花伝 ──黎明の皇女は天命に抗う──  作者: 冬生 恵
【第三章】闇に堕ちる
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二十八. 慟哭(どうこく)の糾弾

 激しいその音に、澄蘭(ちょうらん)の意識は引き戻され、彼女は驚きに息を飲む。


 重罪を犯した者が収容されるこの牢に入れられた直後には、目に入る範囲に人の姿はなかったように思う。

 いつの間に、向かいに人がいたのか──澄蘭は久しぶりに明瞭になった意識の中、薄暗い視界に目を凝らした。





 その人物は、拷問を受け、顔のあちこちをどす黒い色に染めていた。

 背に打ち下ろされるはずの鞭の当たり所が外れたのか、ぼろぼろになった衣の右袖が破れ、腕に無残な傷跡がのぞいている。髪はざんばらに切り落とされ、腫れ上がった両目や両頬の周りを不規則に覆っていた。


 その悲惨な面持ちには、しかし、微かに見覚えがあった。


 澄蘭は目を見開く。


「……陽葵(ようき)……?」


 格子に縋るように中腰で立ち、息を荒げるその少女は、共に淑女教育を受けてきた友人――遠珂(えんか)の妹である陽葵に違いなかった。

 息を飲んだ澄蘭は、自身も格子に両手を掛け、慌てて立ち上がる。


「陽葵!? どうしてこんなところに……」






「──気安く呼ぶなぁッ‼」






 しゃがれた声で叫ばれ、澄蘭は瞬時、呼吸を忘れた。


 かつて彼女を「姉」と呼び、親しんでくれた少女の姿はそこにはなかった。

 激憤(げきふん)に顔を歪めるその様子に、澄蘭は先日の義兄の姿を思い出し、顔を蒼白にする。


 爪を()がされる直前まで痛めつけられたのか、真っ赤に染まる指先で格子を掴んだ陽葵は、憤怒(ふんぬ)の感情を両目に宿らせ、澄蘭を睨みつけた。


「お前のせいで……っ! お前のせいで、お兄様もお父様も命を落としたんだ‼ 馴れ馴れしく呼ぶな!」


 ぶつけられた激情に、澄蘭は何も言えずに陽葵を見つめる。無言で震える彼女にますます憤るように、陽葵は叫んだ。


「あんたが……あんたが余計なことを考えなければ、お父様もお兄様もこんなことにならなかった! お兄様があんな恐ろしいこと、企んだはずがないのに……!」


 目から涙を噴き出し、陽葵が澄蘭を大声で(なじ)る。


 澄蘭は全身を(おこり)に罹ったように身を震わせ、呼吸を不規則に乱し、格子を握った手に力を込めた。

 陽葵はそんな澄蘭をしばらく睨み付けていたが、やがて格子を握りしめたまま、ずるずるとその場に崩れ落ちる。地面に膝をつき、陽葵は大声を上げて(むせ)び泣き始めた。


 その背が大きく波打つのを、澄蘭は無言で見つめるしかなかった。

 彼女は穏翊(おんよく)たちが、玄以鋭(げんいえい)に命じて用意させた虚偽を、そのまま聞かされているようだった。

 恐らく、世間の人々と同様に。


 陽葵は地面に(うずくま)ったまま、ぽつぽつと言葉を零し始めた。


「お父様とお兄様が亡くなったあと……一族は身柄を捕らえられた。弟は去勢され、母様と私は宮刑(きゅうけい)を受けて奴婢(ぬひ)にされたわ……。その弟が昨日、高熱と激痛に(うな)されながら死んで……。母様は今朝、心の臓が止まっているのが見つかった……」


 私は、牢の中での皇族への暴言を咎められて、ここに連れて来られた。


 そう告げて嗚咽(おえつ)を漏らす彼女に、澄蘭は掠れた声で呻いた。


「そ……んな……」


 澄蘭は、その場にへたり込む。


 でっち上げられた罪の大きさから、遠珂の家族に及ぶ災難にも、危惧は抱いていた。


 けれど、事態は澄蘭が想像していたよりも、遥かに(ひど)い末路を辿っている。父や義兄達の容赦のなさ、陰湿さに、澄蘭は全身に寒気を感じた。


「その怪我は……」

「ほとんどは、宮刑を受ける時にやられたものよ。この指は……不敬罪への罰ということだけど」


 格子を両手で握ったまま、腰を落とし目を見開いている澄蘭に、涙に濡れた顔を上げた陽葵は、血を吐くように叫んだ。





「……お兄様はいつも言っていたわ。『澄蘭(ちょうらん)様は皇女として、ずっと気を張って生きてこられたんだろう。これからは、好きなことを楽しんでもらえたら』って……! 嫁いでくる貴女(あなた)を驚かせるために、古今東西の書物をたくさん集めてた。

『家を書物で埋め尽くす気ですか』ってお母様に呆れられても、『澄蘭様なら喜んでくださると思う』なんて、馬鹿みたいに笑ってた……!

父様は苦笑いを浮かべていて、弟は呑気に『自分も読みたい』って……!」





 遠珂(えんか)の笑顔が、(にぎ)やかに言い合う家族の姿がありありと想像出来て、澄蘭(ちょうらん)は顔を歪めた。



 面会で語り合った時の、最後に喧嘩別れした時の、彼の姿を思い起こす。



 不器用ながらも、彼女を楽しませようと、いつも話題を探してくれていた。

 やがて書物の話で打ち解けたあとは、彼女の話を楽しげに聞き、貴重な稀覯本(きこうぼん)を惜しみなく与えてくれた。異国の思い出話をねだる彼女に、思い出せる限りの話をしてくれた。

 業務に忙殺され、目の下に隈を作りながらも、「会いに来る」と断言してくれた。

 澄蘭が危険な行為に身を投じていることを案じ、必死に止めようとしてくれた。




 澄蘭が勝手に彼を誤解しただけで、『家族』に受け入れられたいと穏翊(おんよく)を優先していただけで、彼はいつも、真摯(しんし)に澄蘭に向き合ってくれていた。そのことを、今になって痛感する。


 けれど、今更悔やんでも、嘆いても、全てが手遅れだった。




 彼は、理不尽に命を奪われた。

 澄蘭の『家族』の策によって。





 何も言えずに黙り込む澄蘭に、陽葵は顔をくしゃくしゃにして叫んだ。





「かえしてよ……お父様を、お兄様を、母様を、弟を……! 私の家族を、人生を、未来を返して!」





 地に伏せ号泣する陽葵(ようき)を、澄蘭(ちょうらん)は格子ごと拳を握り締め見つめていた。その爪が皮膚を食い破り、血がにじみ出していることにも、気付かないまま。


 家名を不名誉に失い、奴婢(ぬひ)とされた以上、陽葵が貴族である婚約者に嫁ぐことはない。

 彼女が心から婚約者を慕っていたことを、澄蘭は知っている。講義の合間に婚約者について話す彼女は、羨ましいほどに幸せそうだった。

 そんな彼らが夫婦として幸せを誓う日は、未来永劫(えいごう)やって来ない。






 一緒に学んだ楽しい時間は、もう二度と戻らないのだと、澄蘭は頭を殴られたような思いで受け止めた。


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