一. 書物を愛する皇女
大礼国第五代皇帝・蘇 冽然の治世、端明十二年の晩夏。
第二皇女である澄蘭は、人気のない庭園で一人、古びた書物を膝の上に広げていた。
宮中の最奥に位置する内廷は、皇帝の私的な生活の場である。皇帝が寝食を行うほか、皇后や、上級妃をはじめとした妃嬪、その子どもたちが暮らしている。
内廷を南北に貫く中央道の左、西区にある後宮には、四季折々の風景を楽しめる庭園が随所に設けられている。
美しく咲き誇る花園や、意匠を凝らした池、精緻な彫刻を施された東屋がある一方、手入れされぬまま忘れられた小さな庭もあり、そこで侍女たちの目を盗み読書に耽ることが、澄蘭の唯一の楽しみだった。
彼女が愛するのは女誡をはじめとする女訓書や、古来の詩文──ではない。算術の教本や、異国の歴史や文化を記した文献、四書五経の解説書などである。
侍女に見つかれば眉を顰められてしまうため、手習いの合間に、こうして誰も近づきたがらない寂れた場所で読書に勤しむのが、澄蘭の日課だった。現在、夢中になって目を通しているのは、長年の国境封鎖をついに解き、礼との交易に応じた隣国・錚雲についての歴史書である。
夏の盛りを告げる、蒸した風がふと吹き抜け、澄蘭はそっと書物の端を押さえた。
両側の髪を輪状にまとめた両環髻の緑髪に差された簪や、落ち着いた柳色の襦、竹文の施された藍の裙が、再び吹いた風に流れさらさらと鳴った。
その音に混じって、軽やかな足音がこちらへ向かってくるのに気づき、澄蘭は急いで読みかけの書物を閉じた。
偽装のため舞の教本を取り出し、歴史書に重ねたまさにその時、同年代の少女が、ほうぼうに枝を伸ばした木々の合間から顔を覗かせた。
「澄蘭、こんなところにいたの? 探したのよ!」
落花髻のつややかな髪に輝く簪と幾本もの珠花、品良く揺れる真珠の耳飾り、艶やかな牡丹文の朱の襦。ひと目で極上と分かる品々を身につけたその少女は、皇帝の長女であり、澄蘭より三月早く産まれた異母姉だ。
字を琴華という。
母妃譲りのくっきりした目鼻立ちの顔に、輝く笑みを浮かべた彼女は、軽快な足取りで澄蘭のもとに歩み寄ってくる。そして腰をかがめ、義妹の手元を覗き込んだ。品の良い花の香りが、ふわりと二人の間に漂う。
琴華の背後には、澄蘭も顔を見知っている彼女の侍女数名が、姿勢よく立ち並んでいた。
澄蘭は素早く座面に書物を置いて、琴華と距離を取りながら立ち上がる。そして流れるように両手を左腰で重ね、膝を軽く折り上体を傾ける万福を行った。慌てた琴華が声を上げる。
「ちょっと、やだ! 顔を上げてよ!」
澄蘭は緩やかに身体を起こし、微笑を浮かべた。
「……琴華様、いかがなさいましたか?」
「もう、『様』はやめてって言ってるじゃない。私たち、姉妹なんだから!」
頬を膨らませるその様子は、十七という年齢にしては少々幼く見える。
天真爛漫な義姉に曖昧に笑う澄蘭に、どこかもの言いたげな目線を向けた後、琴華は表情を切り替えて言った。
「……あのね、お父様から北繚の布をいただいたの。すっごく綺麗な紅梅色なのよ。良かったら半分ずつに分けて、お揃いの裙を仕立てない? 正月の宴で一緒に着ましょうよ! それぞれ残った部分は手巾にして、皆にあげるの」
胸の前で手を合わせ無邪気に笑う琴華を、付き従う侍女たちは微笑みながら見守っている。気前がよく愛らしい主人を、皆慕っているのが伝わってきた。
澄蘭も、笑みを浮かべる。内心、「面倒なことになった」と思いながら。
現帝の即位とともに戸部の長・忠勝の位に就いた、王大太宰。その愛娘で、現帝の皇太子時代からの寵妃である王雅妃を母に持ち、自身も豊かな封邑を持つ琴華にとって、皇帝の下賜品とは、気軽に周囲に分け与えられるものなのだろう。その布の品格に負けぬ豪勢な刺繍を施し、縫い目も美しい裙に仕立て上げることなど、造作もないことだろう。
対して澄蘭は、古さだけが取り柄の中級官僚家出身の母を十年前に亡くし、今は養母に育てられる身。賜った封地も小さく、養母への遠慮もあり、慎ましい生活を送っている。
そんな彼女に、新たな裙──それも、皇帝の下賜品にふさわしい裙を仕立てる余裕など、到底なかった。
義姉の好意を理由も告げず撥ね退けてしまっては、また女官たちに陰で何か言われかねない。かと言って、「余裕がない」と正直に告げるのも気が引けた。
そう聞けば義姉は、何の屈託もなく、「それなら、仕立てた裙と手巾をあげるわ」と笑顔で言ってくれるだろう。それを素直に有り難がることは、したくなかった。
「……父皇様からの大切な下賜の品でしょう? 私のようなものが、気軽にお裾分けいただくわけにはまいりません。それに、私には、紅梅のような艶やかな色は似合いませんから……」
葛藤の末、へりくだった言い方になってしまったことに複雑な思いを抱えながら、澄蘭は、「お気持ちだけで十分です」と頭を下げる。
事実、切れ長の目の、端正ではあるが華やかさに欠けると称される顔立ちの澄蘭には、紅梅や桃花など、鮮やかな明色は馴染まないのだ。
不満げな声を上げた琴華の字を、その時、背後から現れた男性が呼んだ。
「――琴華。何を騒いでいるんだい?」




