二十七. 絶望
天井から落ちてきた水滴が頬に落ち、澄蘭はふと瞬いた。
遠珂の自白という大きな証拠を得た影廠は、澄蘭の身柄を、皇族用の牢から一般牢へと移した。
石畳であった床は、土を固く踏みしめただけの湿ったものに変わった。床榻すらない獄には藁が直に敷かれ、継ぎ接ぎだらけの衾が情けのように置かれているだけ。
食事は回数を減らされ、当然、着替えや湯桶が届けられることもない。
冬でありながらじめじめとし、皮脂や排泄物の饐えた匂いが充満する極寒の牢獄に、澄蘭は膝を抱えて座り込んでいた。
見張りの宦官は寒さや匂いに閉口してか、いつも、中までは入ってこないようだった。中の囚人が何をしようが、生きようが死のうが、逃げ出しさえしなければ気にも留めないのだろう。
ここに入れられた当初、遠くから、呻き声や気がふれたような奇声が聞こえていた気がするが、誰かが姿を現す気配はなかった。やがてそれらの声も聞こえなくなり、澄蘭は陰鬱な沈黙にひとり身を浸していた。
あの日──義兄の穏翊に真実を聞かされた日から、どれだけの日数が経過したのか。今が昼であるのか、夜であるのか。澄蘭は、時間の感覚を失っていた。
影廠は度々彼女を乱暴に引っ立て、自白を引き出そうと取り調べを重ねているが、澄蘭は無言で首を振り続けた。
まだ正式に皇女の籍は廃されていないのか、拷問だけは行われていない。だが、取り調べの宦官の澄蘭の扱いは陰湿で、時には凍るような冷たい水を頭から掛けられることもある。
曖昧な感覚の中で過ごしていた澄蘭は、一度だけ、取り調べの最中に意識を明白にさせた。我に返った澄蘭は、自身を取り巻く状況に口元を歪めた。
(――さっさと、殺せば良いのに)
あれほど周到に策を練っていたのだ。拷問の末、温父子を死に至らしめ、偽りの証言を玄以鋭に広めさせたように、なぜ彼女のことも始末しないのか、と。
忍び笑いを零す澄蘭に、取り調べの宦官は激高した。
「――何を笑っている!」
頬を強かに殴られ、澄蘭の身体が横薙ぎに倒れ込む。澄蘭の意思は、再び奥深く沈んでいった。
穏翊の言葉は、澄蘭の心を粉々に打ち砕いた。取調室での一瞬の覚醒の後は、澄蘭は抜け殻のようにぼんやりと虚空を見つめ続けていた。
ただ一人、彼女を理解し、励ましてくれたと思った義兄の言葉。
それは、彼女を陥れるための罠でしかなく、そこには一遍の情も込められていなかった。むしろ、内心では彼女を嫌悪し、蔑み、憎んでいた。
彼のおかげで視界が開け、自分のなすべきことが見えた気がした。無力さに縮こまっていた自分にも、出来ることがあると心強く思えた。
最初は上流階級への憎悪と猜疑に凝り固まっていた貧民たちが、やがては親しげに彼女を迎え入れてくれたことに勇気づけられた。国が見捨てた彼らを支援することに、誇らしさを覚えた。
女性が政に関心を寄せることを肯定され、『女らしく』生きることに覚えていた息苦しさから、重圧から、解放された気がしていた。
(何もかもが偽りだった。幻想だった……)
幾度も幾度もその痛みを反芻し、澄蘭は、やがて我知らず呟いていた。
「……もう、消えてしまいたい……」
静まり返った牢獄に、彼女の声が微かに広がる。
いっそこのまま、反逆者として、獄中で秘密裏に消されてしまいたかった。
信じ、敬愛していた人に裏切られ、この世に存在する価値を否定され、生きていく気力さえ見失ってしまっていた。たとえこのまま生き延びたとして、周囲から向けられるであろう白い目に、心が耐えられるとは思えなかった。
澄蘭が膝に額を押し付けたその瞬間、向かいの獄から、突如格子を揺さぶる大きな音が鳴り響いた。




