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蘭花伝 ──黎明の皇女は天命に抗う──  作者: 冬生 恵
【第三章】闇に堕ちる
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二十六. 届かなかった祈り、悪夢の面影

「……婚約者候補として、彼女と初めて顔を合わせたのは、私が十三の時分。――七年前だった」


 懐かしむように目を伏せ、穏翊(おんよく)は語り始めた。






「二つ歳上の彼女は、心優しくて思慮深い、淑女の手本のような多才な女性だった。

古の仙女にも例えられる内外面の美しさに、私は一目で心を奪われたし、彼女も私を慕ってくれていた。一年をかけて、私たちは心を通わせた」


 私の冠礼(かんれい)のあと、すぐに婚約し、祝言を挙げる予定だった。


 遠い目で過去を反芻(はんすう)する穏翊は、切なげな笑みを浮かべて呟いた。


「……けれど、それは叶わなかった。私の冠礼の儀の一月前に、彼女は自ら命を絶った」

「どうして……」


 (かす)れた声で尋ねる澄蘭(ちょうらん)に、穏翊は淡々と言葉を紡ぐ。


「──彼女の名前は、(ぎょう) 雪麗(せつれい)といったから」


 澄蘭は咄嗟に息を飲む。


 行氏。父帝の信頼を得て典部(てんぶ)忠勝(ちゅうじょう)の地位に就きながら、それを裏切り、国家反逆罪に手を染めた男。

 穏翊の婚約者候補は、その行氏に連なる女性だったというのか。

 後宮中から「変わり者の公主」「不出来な女の娘」と蔑まれ、ほとんど部屋に引きこもりがちだった澄蘭は、彼に婚約者候補がいたことすら聞かされていなかった。


 肩を震わせる澄蘭に、穏翊は微笑を向ける。


「そう。彼女は、外交使節団予算の横領、国家機密漏洩の罪で極刑に処された、行 岳栄(がくえい)の娘だよ。

……彼の罪に連座し、一族の成人男性は皆、刑場で命を落とした。女性や子どもは奴婢(ぬひ)とされ、宮中や地方の王府で苦役(くえき)に就くことになった。繊細な雪麗は、将来を悲観して、自ら首を吊ったんだ」


 悲惨な結末に、澄蘭は絶句して目を見開く。そして、いつかの書庫での会話にようやく思い至った。


 義兄は語っていた。遠珂の父が、行氏の罪を暴いたのだと。


 その当時十一歳だった澄蘭は、母を亡くした衝撃から立ち直れないまま、毎日を茫漠(ぼうばく)と過ごしていた。それでもその事件は、後宮の片隅に暮らす彼女の耳にも、確かに届いていた。澄蘭はようやく、事件の詳細を思い出す。


 行氏の罪が大体的に公になったのは、政敵が行氏を粛清(しゅくせい)しようと、暗躍(あんやく)したためだった。そしてかねてから帳簿の動きに疑問を抱き、密かに状況を探っていた官僚――温氏が、その政敵に脅され、仕方なく情報を提供した。その情報が決定打となり、行氏は罪を暴かれたのだ。


 澄蘭は震える拳を握りしめ、思わず声を上げていた。


「だから……温家を憎んでいると……? 確かに、行家の令嬢を襲った悲劇には、同情を禁じえません。ですがそもそも、彼女の父が、」




「──分かっているさ!」




 突如発せられた怒声に、澄蘭はビクリと肩を揺らした。対面に座る穏翊は目を血走らせ、額に青筋を立て、全身を震わせている。その形相の凄まじさに、澄蘭の背筋に悪寒が走った。

 憤怒に顔を歪め、穏やかな貴公子の仮面をかなぐり捨てて、穏翊は叫んだ。


「行 岳栄がすべての元凶であることぐらい、言われなくても分かっている! それでも、温 孝思(こうし)が家族を盾にされ、脅しに屈しさえしなければ……あんな言い逃れが出来ない形で、罪が露見することもなかった!

父皇(ちちうえ)だってもう少し穏やかな形で、行氏を裁くことが出来たんだ……」



(それは……)



 それは言いがかりだと、澄蘭の中に僅かに残った冷静さが反論しようとするのを、懸命に押しとどめる。


 父帝を(たばか)り、許されない罪を犯した行氏への怒り。

 罪状に見合う形で彼らを裁いた、容赦のない父帝への恨み。

 表に出せず、どこにも持って行きようのない負の感情を、自分よりも弱い立場の人間にぶつけているだけではないか、と。






 けれど、澄蘭(ちょうらん)の表情から何かを察したのか、穏翊(おんよく)は悪鬼の様相で立ち上がる。その勢いで、二人の間の机を蹴り上げた。

 跳ね飛んだ机が壁にぶつかる音に、澄蘭は頭を庇って悲鳴を上げる。


 肩を怒らせ、顔を真っ赤にして、穏翊は叫んだ。







「私から雪麗(せつれい)を奪っておいて、温家の息子は自分だけ幸せになろうとしていた! お前との面会後、いつも周囲に嬉しげに惚気(のろ)けて……! お前も戸惑っている振りをしながら、その実、満更でもない雰囲気を漂わせていた。

それを私がどんな思いで見ていたか、お前らに分かるか!?」

(ぎょう)氏の罪を、あ、暴いたのは……温忠業(ちゅうぎょう)では……」


 必死に言葉を連ねる澄蘭の言葉を遮り、穏翊が吠えた。


「たった一人の罪で一族を滅ぼすのを是とするなら、父親の業をあいつも背負うべきだろう!? 惨たらしい刑を受けた家族の姿に心を病み、雪麗は全てを失った絶望の果てに死んだ!

それなのにあの男……温 (けい)は、英玄試(えいげんし)及第(きゅうだい)し、早々に頭角を現し、父皇(ちちうえ)からお褒めの言葉を受け、挙げ句に易々と婚約者を得て……!」


 ――許せなかった。


 地を這うような声で告げた穏翊は、握り込んだ拳を大きく震わせた。


「……せめてあの時、ことの露見が、あと一月遅ければ。私の冠礼(かんれい)の儀さえ終わっていれば、貴族でなくなった雪麗(せつれい)を、私の裁量で引き取ることも出来たのに……!

お前たちに、私たちと同じ地獄を味あわせなければ、雪麗が浮かばれない!」


 額に汗を浮かべ、肩で息をする穏翊(おんよく)を、澄蘭(ちょうらん)は怯えに全身を震わせながら見上げた。


 彼女の蒼白な面持ちを凄絶な眼差しで睨み、しかし穏翊は不意に、にこりと子どものように無邪気な笑みを浮かべる。


 澄蘭は戦慄(せんりつ)した。


「……君は佇まいだけなら、雪麗によく似ている。でも、中身はてんで駄目だ。父皇(ちちうえ)に見放されたあの陰気な母親そっくりで、女のくせに小難しい本ばかり読み、(さか)しらに振る舞って。

――幼い頃から、虫唾が走るほどに大嫌いだった」


 あの庭園で、役にも立たない歴史書を必死に読んでいる君と会った時、嬉しかったのは本当だよ。


 恋人に睦言(むつごと)(ささや)くような声で、穏翊は告げる。


「女としての価値がないお前なら、遠慮なく利用出来る。むしろ、上手く立ち回り策を成し遂げたなら、目障りな女をもう二度と視界に入れずに済むようになる。

……その為になら、心にもない言葉を囁くぐらい、造作(ぞうさ)もなかったよ」







 澄蘭の世界から、すべての色が消え失せた。







 耳鳴りと、目眩に揺れる視界の中で、穏翊はゆったりと立ち上がる。そして、澄蘭の頭から簪を抜き取り、柔らかく微笑んだ。

 市場で自身が澄蘭に買い与えた蘭の花の簪を、彼は優しい目で見下ろしていた。


「──そういえば、書庫で、私が落とした簪を君が拾ってくれたことがあったね」


 懐かしむようにそう告げた後、穏翊は手にしていた澄蘭の簪を、ぞんざいな手つきで床に放った。


 ざりざりと耳障りな音を立て、彼は(くつ)越しに簪を踏みにじる。


「あれは、婚約の証に雪麗(せつれい)に渡そうと、私自身で意匠を考えたものだったんだ。珊瑚(さんご)で彼女の好きな蓮の花を、真珠で彼女の名の雪を(かたど)らせた。ようやく、彼女に捧げられるよ。






……さようなら、澄蘭。愚かな義妹(いもうと)






 穏翊は、優雅な身振りで(きびす)を返す。


 床に落ち、瑪瑙(めのう)の花飾りをひび割れさせた簪を、澄蘭は空っぽの目で見つめ続けた。



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