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蘭花伝 ──黎明の皇女は天命に抗う──  作者: 冬生 恵
【第二章】揺れる水面
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二十. 忍び寄る影

 夜、自室で書物に目を通しながら、澄蘭(ちょうらん)はすっかり癖になった仕草で簪を撫でていた。

 市場に向かう道中で、義兄の穏翊(おんよく)と本心から語り合った日から、もう数日が経っている。だが、今も内心の高揚は収まらない。





 澄蘭には、あの時彼にも言えなかった、もう一つの秘めた思いがある。





 今、澄蘭が手にしているのは、亡き母の数少ない遺品の一つである書物だった。内廷(ないてい)の後宮は、次代の皇族を育む場所。死を思わせる遺物は、僅かな形見以外は捨てられてしまう。澄蘭の手元に残ったのも、ごく少数の書物だけだった。

 穏翊はあのように言ってくれたが、女性が男性の領域である学問に首を突っ込むことをよく思わない人間は、同性にすら多くいる。

 けれども一方では、澄蘭と同じように、そうした心無い言葉に傷付いている女性もいるはずだ。





 朧気な記憶の中、いつも書物に目を落としていた母は、透き通った無表情を浮かべていた。





 父帝に忘れ去られ、中級妃の最下位として与えられた殿舎は、下級妃の暮らす合同の棟にほど近い粗末な造りの建物だった。度々繕いながらまとった衣は、皇太子となる嫡男を産み皇后として後宮に君臨する(ちょう)氏や、寵妃として絶大な権力を誇る(おう)氏と比べると、同じ皇帝に仕える妃だとは思えないほど質素なものだった。





 澄蘭と二人きりの部屋の中、いつも静かに四書五経や律令書に視線を落としていた母は、何を考えていたのだろうか。





 女の価値は夫にどれだけ愛されるか、どれだけ立派な跡取りを産めるかで決まってしまう。

 そんな世の中に重圧を感じ、澄蘭のように、息苦しさにもがいている女性たちはきっと多いはずだ。あるいは母も、そうであったのかも知れない。






 自分が穏翊(おんよく)に救われたように、出来れば彼女たちが自分らしく生きられる世界を作りたいと思った。


(そのために、自分に来ることを、まずは一歩ずつ探そう)


 そう決意した澄蘭(ちょうらん)は、母の残した律令(りつりょう)の歴史をまとめた書物を、一心不乱に読みふける。




 頁を(めく)った、その時。

 突如響き渡った物音に、澄蘭は驚きに目を(みは)った。







「――無礼者! ここをどこだと心得ているの! あなたたちはいったい……!」

「我々は、――」








(こんな時間に、なに……?)




 騒々しい音と、普段滅多に声を荒げない(さい)媛儀(えんぎ)の怒声に、澄蘭は息を詰める。

 それに何より、口やかましい筆頭侍女の姷姷(ゆうゆう)が、こんな時間に、澄蘭の部屋の近くでの騒ぎを許すとも思えない。


 何か尋常ではない出来事が起こっている――そんな予感に、澄蘭は身構える。



 その時だった。



「第二皇女、() 昭瑶(しょうよう)。……一緒に来てもらおうか」


 突如彼女の自室の扉を開け押し入って来た、漆黒の貼裏(ちょうり)をまとった集団に、澄蘭は目を見開いた。

 (あざな)ではなく、名を呼び捨てにされた屈辱に、澄蘭は瞬間的に怒りを露わにする。


「……何の権限があって、私の名を呼び捨てにするのか。事と次第によっては、許しませんよ」


 しかし澄蘭の言葉に、集団の長と思しき人物は嘲るように鼻で(わら)う。


「――お前こそ、この衣の意味が分かっているのか?」


 ぞんざいに投げつけられた反問に、澄蘭(ちょうらん)は黙り込む。

 確かにその衣は、皇帝の御庭番──皇帝の意を受け、影に日向に内廷(ないてい)を取り締まる宦官(かんがん)組織、影廠(えいしょう)の人間にのみ袖を通すことを許されたものだ。


 その彼らが現れたということは、彼女への侮辱的な扱いも、父帝の意向であることを示している。

 沈黙する澄蘭に、皇帝の私兵集団を率いる長は、冷ややかに告げた。


「――(おん) 孝思(こうし)(けい)父子(おやこ)が、皇太子殿下暗殺を企図した疑いで、外廷(がいてい)玄以鋭(げんいえい)に連行された。共犯の疑いのかかるお前は、後宮の我々が取り調べる。……連れて行け」


 長に命じられた兵の一人が澄蘭の両腕を背後で捻り上げ、半ば引きずるように澄蘭を部屋から連れ出す。抵抗も出来ぬまま、澄蘭は呆然としていた。






 (おん) (けい)





 それは、彼女の婚約者である、温 遠珂(えんか)の名であった。







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