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蘭花伝 ──黎明の皇女は天命に抗う──  作者: 冬生 恵
【第二章】揺れる水面
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十九. 願い

 何とか無表情を保ったまま、門兵の検分を受けた澄蘭(ちょうらん)は、しかし一歩外へ踏み出した瞬間、堪えていた激情に全身を震わせた。

 穏翊(おんよく)との待ち合わせ場所である地央道(ちおうどう)の脇の大木の陰に隠れて荒い呼吸を繰り返していると、澄蘭を見つけた穏翊が驚いたように駆け寄って来る。


「……何があったんだい?」


 彼女を案じて発せられた真摯な声音に、澄蘭は堪え切れず穏翊の胸に飛び込んでいた。


 ガタガタと全身を震わせる澄蘭の肩を撫で、穏翊は黙って彼女の手を引き、馬車に乗り込む。御者の青年に何か声を掛けると、やがて馬車は静かに走り出した。


 規則的な揺れに澄蘭が落ち着きを取り戻し、呼吸を整えていると、彼女の右に腰かけた穏翊がそっと澄蘭の肩を抱いた。

 澄蘭は改めて自分の醜態を思い出し、頬を染める。


「すみません、お義兄様(にいさま)。私……」

「大丈夫だよ。――何があったんだい?」


 穏翊は小さく笑い、再び澄蘭に事情を尋ねた。出がけに琴華(きんか)と、遠珂(えんか)と遭遇し、言い争いになってしまったことを、ぽつりぽつりと澄蘭は言葉にしていく。


 話し終え、俯く澄蘭に気づかわし気な目を向けた後、穏翊は唇を噛んで俯いた。


「……そうだったのか。――ごめん、澄蘭。私が君を巻き込んだ所為(せい)だ」

「違います! お義兄様(にいさま)は何も悪くない!」


 自分を責めるように呟いた穏翊に、澄蘭は慌てて顔を上げた。

 申し訳なさそうに細められた義兄の目を覗き込み、澄蘭は必死に言い募る。


「私……お義兄様に外に連れ出してもらうまで、民の生活に意識も向けていなかった。自分がどれほど恵まれているのかにも気付かず、日々鬱々として……。自分が恥ずかしい」

「澄蘭……」

「でも、見て、知った以上、何もしないままでいたくない。あんなにも痩せてひもじい思いをする子どもたちを、これ以上見たくない。皇族として生まれてきたのなら、お義兄様のように、その立場に恥じない何かを成したい」


 貧民と呼ばれる彼らを蔑み、日夜、飯店や娯楽施設で騒ぐ市民たちも、心の底では生活への不安を抱えている。

 今日と同じ一日を、明日も迎えられるのか、今年と同じように来年もこの家に住めるのか。安定しない気候と農作物の収穫量に、皆が振り回されている。


 彼らを救うために何が出来るのか、澄蘭にも具体的な考えがあるわけではない。今は彼らと同じ場所に立ち、目に届く範囲で食べ物を渡し、炊き出しを支援することくらいしか出来ない。


 それでも、自分に何が出来るのか、考えることを止める気にはなれなかった。


 決意を滲ませる澄蘭の顔を、穏翊は眩しそうに見つめて微笑む。


「……澄蘭は、すごいね。私なんて、ただ日々を漫然と生きているだけだよ」

「そんなこと……っ」


 驚いたように顔を上げる澄蘭に、穏翊は苦い表情で俯いた。


「……城外に出たのだって、最初は物見遊山(ものみゆさん)のつもりだった。民の生活を知ろうなんて高尚な考え、持ち合わせていなかった。

……今だって、そう。第二皇子として、誰にも非難されないよう、皇太子である義兄上(あにうえ)のお気に障らないよう、そつなく振る舞うことに汲々(きゅうきゅう)としている」


 自嘲して俯く穏翊(おんよく)の姿がなぜか小さく見え、澄蘭(ちょうらん)は咄嗟に義兄の手を握り締めた。その手の温度を確かめるように上から反対の手を重ね、穏翊は一つ頷く。


「……私が幼い頃、ようやく児童向けの四書を暗唱出来た時だったかな。得意満面だった私の目を、一瞬で覚まさせてくれた人が居たんだ。その子は、私より三つも年下で、しかも女の子だった。それなのに、英玄試(えいげんし)の受験者向けの四書の問題集を、目を輝かせて読んでいたんだ。

──澄蘭、君だよ」

「え……?」


 驚きに目を見張る澄蘭に、穏翊は気恥ずかしそうに続ける。


「悔しくて、負けたくなくて、それから私は必死になって勉強した。……あの日、あの庭園で、君が変わらずに難しい書物に目を通しているのを見て、すごく懐かしかったし、嬉しかった。君の苦境は聞いていたから、てっきり、学ぶことを諦めたんじゃないかって、ずっと心配していたんだ」





 今まで、助けてあげられなくて、ごめん。





 苦しそうに告げる穏翊に、澄蘭の胸は熱くなる。

 涙を浮かべた澄蘭の目元に手を伸ばしながら、穏翊は目を細めて告げた。


「――澄蘭が皇女として生まれたことを、私ほど残念に思う人間はいないだろうね」

「……え?」


 脈絡のない義兄の言葉に澄蘭が目を白黒させると、穏翊は小さく噴き出した。澄蘭の頭の簪──彼が買い与えた蘭花の簪に触れ、穏翊は澄蘭の耳元で囁く。


「君みたいな、優しくて賢い子が上に立ってくれたら、民は救われる思いだろうに――って、ことだよ」







 決して口にすることは許されないその言葉に、澄蘭は血の気の引いた顔で周囲を見回す。御者に聞かれていないかと焦る澄蘭に、穏翊は自分の唇に人差し指を立て、「大丈夫」と囁いた。


「そういう意味じゃない。父皇(ちちうえ)も義兄上も、正しい統治を行われている。まさか、不満なんて抱いちゃいないよ。ただ……『もしも』が許されて、君が政治に関わることが出来たならの話だ」


 大胆な義兄の言葉に翻弄され、澄蘭は馬車に背を預けて息を吐く。ぐったりとした澄蘭の頭を撫でて「ごめん、驚かせたね」と苦笑し、穏翊も座席にもたれた。穏翊に肩を抱き寄せられ、澄蘭はその暖かさに安堵して目を瞑る。





 やがて馬車が止まり、二人はすっかり見慣れた市場に降り立つ。

 今日も錚雲(しょううん)からの米を利用した粥の炊き出しが行われているのか、(おん)家の名前が民の間で囁かれている。


 確かに彼らはこの国で百年間、誰も成し得なかったことを成し遂げた。その能力は感嘆に値する。


 けれども、彼ら以外にも、地道に民の生活を支援する人間はいる。





(穏翊お義兄様は、民の苦境に心を痛め、こうして自ら足を運んでいる。私もそんな風に、誰に何を言われようと、自分の足で立って、自分の頭で考えられるようになりたい――)




 澄蘭は、内心でひとり、そう願った。





 最前の遠珂との口論を思い出し、複雑な感情を噛み締めながら、澄蘭はすっかり顔馴染みとなった裏路地の子どもたちに歓喜で迎えられ、その中心に駆けていった。


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