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蘭花伝 ──黎明の皇女は天命に抗う──  作者: 冬生 恵
【第二章】揺れる水面
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十八. すれ違う思い

 はやる気持ちを押し殺し、何事もなかったような足取りで央廷(おうてい)の通路を抜けた澄蘭(ちょうらん)は、外廷(がいてい)へ踏み出した瞬間再び駆け出した。


 周囲を見渡す余裕をなくしていた澄蘭は、仲間と軽口を交わしながら見張りの交代に向かっていた年若い武官に正面からぶつかってしまった。弾き飛ばされて、澄蘭はしたたかに尻もちをつく。


「いってぇ! ……おい、どこ見て歩いてんだ、この愚図(ぐず)!」


 自分にぶつかったのが、女官の佩玉(はいぎょく)を下げた粗末な衣服の少女だと気づいた武官は、怒りに顔を歪めて澄蘭に掴みかかった。

 澄蘭は、恐怖で(すく)み上がる。黙りこくる彼女に、(ごう)を煮やしたように、武官たちは声を荒らげた。


「何とか言えよ、おい! 痛い目見なきゃ分かんねぇか!?」


(殴られる……!)


 そう覚悟し、右手で頭を庇った澄蘭は、不意に割って入った声に弾かれたように顔を上げた。


「――やめないか! か弱い女性相手に何をしている!」


 今にも澄蘭の頬に振り下ろされようとしていた武官の腕を掴み、背の高い男性が声を荒げた。


「いっ……」


 関節を押さえられたのか、後ろ手に捩じり上げられた武官は青い顔で呻いている。止めようと割って入った仲間の武官たちは、その男性に掴みかかろうとするが、そのうちの一人が慌てたように制止した。


「……お、おい、よせ!」


 澄蘭もその目線を追い、高い位置にある腰に下げられた身分証が、典部(てんぶ)の官僚のものであると気付く。武官たちは自分たちよりも格上だと判断したのか、渋々拳を下ろして(こうべ)を垂れた。

 官僚の男性は呆れたように溜め息をついて、掴んだままの武官の手を放り出し、へたり込んだ澄蘭を助け起こした。


「……きみ、怪我はないか?」


 気づかわしげなその声に、澄蘭は息を飲んで男性を見上げる。その官僚──(おん) 遠珂(えんか)は彼女の顔を見下ろして目を剥いた。


「なっ……」


 彼は口を開きかけ慌てて咳払いをすると、未だぶつぶつと小声で文句を言う武官たちを強い口調であしらう。

 彼らが立ち去ったのを確認すると、遠珂は澄蘭の手を引いて、周囲を警戒しながら歩き出した。緊張に汗の滲んだ彼の掌に、澄蘭も顔を青褪(あおざ)めさせる。


 やがて建物の陰に隠れた遠珂は、怯えた様子の澄蘭に、声を震わせて問いかけた。


「……そんなお姿で、何をなさっているのですか? 公主(こうしゅ)様」

「これは……」


 俯き、言葉に詰まる澄蘭に、遠珂は小さく溜息を零す。

 澄蘭はびくりと肩を揺らした。


「典部では公然の秘密となっていますが、穏翊(おんよく)殿下が時折身分を偽って、宮城(きゅうじょう)の外に出られていると。……まさか、貴女(あなた)様も?」


 はい、と消え入りそうな声で答えた澄蘭に、遠珂は目を伏せ眉間を押さえた。頭痛を堪えるようなその仕草に、澄蘭はぐっと奥歯を噛み締める。


「まさかとは思いますが、お一人で……ではないでしょうね?」

「外に……」


 誰がとは言わないが、言葉を濁す澄蘭の様子に何かを察したのであろう遠珂は、再び溜息をついた。

 周囲に目をやり、改めて人通りがないことを確認し、遠珂は澄蘭に顔を寄せて囁いた。


「――お戻りください。貴女様のような方が、気安く外に出るべきではない」


 有無を言わせぬその口調が、かえって澄蘭の反発心に火をつけた。先ほどの義姉との言い争いの余韻も残っていたのか、澄蘭は掴まれたままの腕を振り払おうと力を込める。


「私には私の考えがあります。危険も承知の上です。……それでも知るべきこと、やるべきことがあるのです」


 揺らがないその声に、遠珂はついに苛立ったように押し殺した声を上げた。


「お志はご立派だと思います。ですが、貴女が危険に身を晒す必要がどこにあります! 貴女様は皇女です。もっと他に、」

「……っ、温忠業(ちゅうぎょう)も私に、『皇女らしくしろ』とおっしゃるのですか⁉ 民の血税で贅沢を(むさぼ)り、何も成さずただ怠惰に過ごせと……!」


 つられて叫んだ澄蘭の言葉に息を飲み、遠珂は焦ったように首を振る。


「違います、私はただ……!」


 何かを言い聞かせようと言葉を連ねる婚約者に、気が付けば澄蘭は顔を歪めて叫んでいた。


「――学ぶことを肯定してくれた、貴方なら分かってくれると思ったのに!」


 この国で女性に求められる役割。ただ男性の後ろに控え、子を成し、家族に尽くすために必要な知識を学ぶことだけを求める周囲の中、遠珂(えんか)は、澄蘭(ちょうらん)の好奇心を認めてくれた。

 女性が手にしようとすれば眉を(ひそ)められるような学術書を、彼は気軽に澄蘭に与えてくれた。役立たずと、無能と蔑まれ縮こまっていた澄蘭に、手を差し伸べてくれたと思った。




 穏翊(おんよく)以外にただ一人、心を許せる存在になるかもしれないと、信じていたのに。




 自分を睨みつける澄蘭に向かって、遠珂は咄嗟に一歩踏み出す。けれどその分澄蘭が一歩下がり、遠珂はその場に足を縫い留められたように動きを止めた。

 澄蘭は無言のまま後ずさり続け、やがて踵を返して駆け出した。


「公主……!」


 その背に向かって伸ばされた遠珂の手は、何も掴めず空を切った。



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