十七. 理解し合えぬふたり
その日はいつもと違い、澄蘭は穏翊と、城下町で待ち合わせの約束をしていた。
年の終わりの腊月の祝宴の打ち合わせの関係で、城下に出ている穏翊は、そのまま着替えて市場の視察を秘密裏に行う予定だと言う。
同行を申し出た澄蘭は、いつもの乳母から冬用の衣を受け取り、こっそりと着替えて城外へと赴こうとしていた。
いつも通り休暇で市中に出向く女官を装うため、腰から下げた佩玉を、澄蘭は二度三度と確かめる。
初めて町に出る際に穏翊からもらった飾りは、内廷の女官の身分を示すものだ。
いつもは内廷を出てしまえさえすれは、あとは穏翊が導いてくれていたが、今日は一人だ。
女性一人で南端門――宮城と市井の境にある門を通行しようとする際、特に内廷女官の場合は、この身分証をじっくりと検められると聞く。初めて一人で宮城を出る緊張に、澄蘭の心臓が音を立てて脈打っていた。
澄蘭が俯き加減に、女官用の通路に足を踏み入れようとした、その瞬間――
不意に、背後から腕を引かれた。
「――っ!?」
突然の衝撃に、澄蘭は息を飲む。
成すすべもなく物陰に引きずり込まれた澄蘭は、恐怖にひきつった顔で背後を振り返った。使われなくなり人気もない井戸の脇、そこにあまりにも意外な顔を見つけ、澄蘭は目を見開いた。
「……琴華様?」
「そんな恰好で何をしているのよ、澄蘭!」
小声で叫ぶのは、冬用の厚手の衣に身を包んだ琴華だった。
酒宴での仲違いの後、ろくに顔を合わせていなかった義姉の険しい表情に、澄蘭は黙って視線を逸らす。答えなければ離さないと言わんばかりに力を込められた手に、澄蘭は顔を歪めて口を開いた。
「……琴華様には関係のないことです」
「澄蘭!」
雷の様に鋭い声に打たれ、澄蘭は思わず肩を揺らす。いつになく厳しい表情を浮かべた琴華は、口元をわななかせて澄蘭を睨みつけた。
その剣幕に観念し、澄蘭は重い口を開く。
「……町に降りるつもりでした」
苦々しく告げたその答えに、琴華は血相を変えて小声で叫んだ。
「何を考えてるのよ! それにその佩玉……! 許可のない外出、身分の偽りは懲罰の対象よ⁉」
「存在を覚えているかも怪しい皇女の醜聞など、父皇様が気にされることもないかと」
「貴女……っ」
開き直ったような澄蘭の物言いに、琴華は理解しがたいとばかりに愕然とした表情を浮かべている。
そして、次の瞬間、何かに思い至ったように彼女は息を飲んだ。
「まさか……これが初めてではないのね? 誘ったのは、穏翊兄様?」
琴華の口から零れた名前に、澄蘭は思わず肩を震わせる。
琴華が頭痛を堪えるように、空いた手を額に当てて溜息をついた。
「昔から兄様は、時折近侍を連れて、密かに城下を探索していたの。誰かに迷惑をかけることがなければ、お父様もお母様も、『たまの気晴らしになるのであれば』と黙認されていたけど……」
貴女を巻き込んでいたなんて、と、苦虫を噛み殺したような表情で琴華は俯く。
澄蘭は初めて聞かされた事実に目を見開きながら、汗をかく掌を握り締めていた。
琴華は何度か頭を振り、澄蘭を真剣な面持ちで見詰めた。
「――澄蘭、悪いことは言わない。自室に戻りなさい。兄様には私が、央廷に遣いを出しておく。『これ以上、悪い遊びに大事な義妹を巻き込まないで』って」
「……嫌です」
「澄蘭!」
かっと頬を赤らめ、澄蘭を打とうと振りかざされた琴華の手を掴み、澄蘭は義姉を睨みつけた。
言い合う二人を、琴華が女官に珍しく声を荒げていると判断したのか、通りがかった宦官や女官たちが遠巻きに注視している。らしくもなく舌打ちをし、琴華は人気のない楓光園──澄蘭がいつも読書に利用する寂れた庭園へ、彼女を引き込んだ。
くすんだ葉を風にざわめかせる寂れた庭園で、琴華の手を振りほどき、澄蘭は声を潜めて言った。
「遊びではありません! 穏翊お義兄様は民のことを憂い、彼らの生活を理解するために行動されています。私はただその姿に感銘を受けて……!」
「だからと言って、貴女までが危険を冒す必要がどこにあるの!?」
真剣な表情で訴えた澄蘭に、しかし琴華は、怒りが冷めないといった表情で声を荒らげる。
「私たちは皇女なの。ましてや貴女には、立派な婚約者がいるでしょう⁉ 誤解されるような行動は慎みなさい! 私たちにはあるべき姿、貫くべき生き方というものがあるでしょう!」
(誤解って……何? 私とお義兄様はきょうだいで、王族が民を思って行動することの、何がおかしいと言うの……?)
心底理解出来ず、澄蘭も次第に声を高くする。
「それは……飢え、明日の生活にすら不安を抱く民の姿から目を逸らし、皇族の立場をのうのうと堪能することでしょうか。――私には、それが正しいと思えない」
「澄蘭……!」
義姉は何も分かっていない、と澄蘭は内心の憤りを隠せずに琴華を睨みつける。
饐えた匂いを発する裏路地に並ぶ粗末な小屋、そこに身を寄せ合い、空かせた腹を持て余す幼子たちの姿を見ても、琴華はその主張を貫けるのだろうか。
すべてに絶望した真っ暗な瞳、持つ者への憎悪に歪んだ視線にさらされても、彼女は何もするなと言うのか。
棒切れのように痩せ細った指を伸ばされ、それでもその手を、無慈悲に振りほどけと言うのか。
彼女の言うことは理想論だ。苦しむ民を見ないふりをして、押し付けられた理想の女性像を極めろと。
(そんなことのために、民は汗を流して田を耕し商いに勤しみ、税を納めているわけではない――)
彼らは、皇帝が、国が助けてくれると信じ、そのために定められた役割を懸命に果たしているのだ。
そうであるならば、彼らの血税──命に等しいその結晶を何の苦労もなく与えられる皇族には、民の生活を守る義務があると、澄蘭は信じる。そのために行動する穏翊を尊敬し、彼のようにありたいと願う。
琴華を真っ向から見据える澄蘭の瞳を、彼女がいつも差している簪がはじいた光が射る。澄蘭は目を眇めた。
父帝の前で華麗に舞い、その褒美として与えられたという、豪勢な簪。
それがあれば、飢えた民の何人が救われるのだろうか。
澄蘭の険悪な態度に、琴華は怯んだように後ずさった。ためらうように目線を泳がせた後、小さく溜め息をついた。
「あなたが何を考えているかは分からない。……でも、穏翊兄様は、とても情の強い方。あの方のことをよく知らないなら、あまり深入りしては駄目」
「何を……」
「――分からないなら良いの。とにかく、殿方の領域に深入りせず、私達は私達のすべきことに邁進するのよ。良いわね?」
念を押すような義姉の言葉が理解できず、澄蘭は無言で首を振った。
「私には……分かりません。飢えた民を救いたいと思うことの、何が間違っているんですか? 誰かの役に立ちたいと思うことの、何が……!」
「澄蘭!」
呼び止める義姉の声を振り切るように、澄蘭は穏翊との待ち合わせ場所へ足を急がせた。




