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蘭花伝 ──黎明の皇女は天命に抗う──  作者: 冬生 恵
【第二章】揺れる水面
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十六. 義姉との酒宴

「それでね、錚雲(しょううん)の芸人たちがね……」


 (あわび)(きのこ)の煮込みを口に運びながら、琴華(きんか)観月宴(かんげつえん)の出来事を楽しげに語っている。彼女がコロコロと笑い声をあげると、いつも身に着けている簪がしゃらりと上品に鳴った。

 澄蘭(ちょうらん)は微笑を浮かべて頷きながら、蟹肉の餡を包んだ蒸し餃子に箸をつけた。


 色鮮やかな玉石と精緻な彫刻が随所に施された、一目で高級品だと分かる(けやき)の家具が配された、琴華の部屋。彼女の部屋に比べれば、澄蘭の自室は納屋かと思われるほどに狭く見えるだろう。

 部屋の至るところに置かれた豆彩磁器(とうさいじき)には、芳香を発する芙蓉(ふよう)桂花(けいか)が、ふんだんに活けられていた。


 今夜は澄蘭の快気祝いと称して、琴華が小宴を開いていた。二人の前の卓に、豪勢な料理が次々と並べられていく。


 燕の巣の(あつもの)、ふかひれの姿煮、羊肉の五香粉(ごこうふん)の炒め物。

 普段目にすることのない贅沢な品に、澄蘭が恐縮しているのには気づかない様子で、琴華は食べ慣れた様子で手を付けている。何か気になることでもあったのか、箸で摘みあげた海鼠(なまこ)をじっと見つめて口に入れ、眉間に皺を寄せながらも上品に咀嚼した。


 彼女のそばに置かれた杯に、給仕女官が恭しく酒をそそぐと、琴華は手に取って一口含み、にこりと微笑んで彼女を労った。

 年若い女官は、嬉しそうに頬を染めている。背後に立ち、酒宴を差配する侍女も、そんな二人に、穏やかな笑みを浮かべた。仲睦まじい主従の様子に、澄蘭は苦い思いを嚙み殺した。


 箸の進まない澄蘭に、琴華は「食べないと元気が出ないわよ?」と首を傾げている。先ほどの酒の影響か、その声はどこか舌足らずだ。

 もともと酒が苦手な上に、寝込んだ後であったため、澄蘭の杯に注がれているのは、最初の一杯を終えたあとは茶だった。琴華に促され、澄蘭は取り分けてもらった羊肉の炒め物をゆっくりと口にする。





 (れい)では一般的に、出された食事をすべて平らげることは良しとされない。皿に盛られた料理に一通り箸をつけた後は、上位の使用人たちから順に下げ渡されていくのだ。ゆえに、品数は多く、使われる食材も日々膨大だ。


 民はこの冬を越せる量の米が手に入るかと不安を持ち、貧民たちは飢えに苦しんでいる。

 それなのに、宮廷では当たり前に飽食を享受(きょうじゅ)し、貴人が気に召さなかった皿の品は、無為に捨てられることもある。


 一体、彼らと自分たちの何が違っているというのか。生まれた場所、持った親の違いで、なぜ一方は日々の暮らしを生きるのがやっとで、一方は贅沢を満喫できるのか。






 城下町での民の暮らしを目にした澄蘭には、目の前の御馳走(ごちそう)を、義姉のように安穏(あんのん)と楽しむことは躊躇(ためら)われた。


 それでも、出された食事を無駄にすべきではないという義務感から、澄蘭は琴華が勧めるままに手を付けていく。やがてすべての皿に一通り箸をつけ終え、琴華に命じられた女官たちが皿を下げて部屋を出ていった。


 酒杯を口に運びながら、琴華は上機嫌に笑う。


「良かった、元気そうで。……次の宴には一緒に出られると良いわね」

「お心遣い、痛み入ります」

「もう! だから、そういう話し方はやめてってば!」


 卓の下で地団駄を踏む琴華に、侍女が眉を下げて名を呼び、彼女をたしなめる。

 ぷくっと頬を膨らませる琴華はいつにもまして子どもっぽく、すっかり酒に酔っているようだ。侍女は困り顔で、その実、本心では微笑ましいと思っているのが伝わってくるような柔らかな声音で、琴華に言い含めた。


「だいぶお酒に酔っておられる様子。今日はもう、このあたりにいたしませんと」

「やだ! もっと澄蘭と話したいの!」

「我儘をおっしゃらないでください。月の半ばには、澄蘭様は高熱で寝込まれたのです。無理を強いてはいけませんわ」


 澄蘭に視線を向けた侍女は、主の醜態を詫びるように小さく頭を下げる。澄蘭も頷き返し、子どものようにむくれる琴華に向き直った。


「琴華様、楽しい酒席をありがとうございました。私はそろそろ……」

「うー……。分かったわ」


 とろんとした目付きをしながら、琴華は席を立って一礼した澄蘭に不服げに頷いた。そして自らも立ち上がり、フラフラと頼りない足取りで扉に向かって歩き出す。琴華を支えながら澄蘭も部屋を出ようとした、その時だった。


「──ねえ、澄蘭(ちょうらん)。最近、穏翊(おんよく)兄様(にいさま)と仲良くしてるって聞いたけど、本当?」


 どこか思いつめたような表情で、不意に琴華(きんか)が問う。澄蘭は面食らった顔で足を止めた。その質問の意図に戸惑い、深刻な面持ちの琴華に反射的に反発を覚える。



(琴華様もなの……? 侍女たちのように、私が穏翊お義兄様(にいさま)と親しくしているのがおかしいって言うの?)



 怒りに支配され、気付けば澄蘭は冷ややかな声で返していた。



「……義兄妹が顔を合わせて、親しく話をすることが、そんなにおかしいでしょうか?」

「そんなこと言ってないじゃない。そうではなくて……」


 澄蘭の棘のある返答に驚いたのか、気圧されたように琴華が口ごもる。

 彼女はしばらく視線を彷徨わせたあと、何かを決意したようにぐっと拳を固めた。


「兄様には……忘れられない女性がいるの。物静かで控えめで、どこか澄蘭に雰囲気が似た方。だから、」

「……穏翊様が私に優しくしてくださるのは、私がその方に似ているからだと仰りたいんですか⁉」

「違う! 私はただ……っ」


 声を荒げた澄蘭を警戒したように、琴華の侍女が二人の間に割って入った。

 琴華を庇うようなその行動に、澄蘭は更に怒りを煽られ、自身に向かって伸ばされた琴華の腕を勢いよく振りほどく。

 振り上げた澄蘭の手は偶然、琴華の頬をかすめ、彼女は態勢を崩してその場に倒れ込んだ。


 息を飲む澄蘭の前で、琴華の頭から簪が外れて落ちる。


「あぁ……っ」


 琴華が悲鳴のような声を漏らし、音を立てて地に落ちたそれを慌てて拾い上げる。

 そんな彼女を守るように抱きしめながら、侍女が顔面を蒼白にして睨みつけて叫んだ。


琴華(きんか)公主(こうしゅ)様! ……澄蘭(ちょうらん)様、何ということを!」

「やめて! 私が勝手に転んだだけよ!」


 顔を蒼白にした琴華が叫ぶが、侍女は怒りが収まらないという表情で澄蘭を責め立てた。


「ですが、頬を打つなんて! お怪我が残りでもしたら……! この簪も、琴華様が初めて陛下の前で舞われた際にいただいた、御身(おんみ)と同じくらい大切にされている簪なんですよ⁉」

「やめてったら!」


 憤る侍女を懸命に(いさ)める琴華に、澄蘭は怒りに震える拳を握り締め、吐き捨てるように告げた。


「……過分なもてなしをありがとうございました。失礼いたします」

「澄蘭!」


 足音も荒く部屋を出ていく澄蘭に、琴華は焦ったように声を掛けるが、澄蘭は振り返らず部屋を飛び出した。部屋の外に控えていた澄蘭の侍女が、慌てて彼女の後を追ってくる。


「澄蘭様⁉ 先ほどの騒ぎは……」


 侍女の問いには答えず、無言で養母の殿舎内の自室を目指しながら、澄蘭は内心の動揺を押し殺していた。



 琴華を傷つけたり、怯えさせたりするつもりはなかった。最近の自分は、ずっと隠し通してきた感情の揺れを抑えられなくなってしまっている。先日、侍女の姷姷(ゆうゆう)にきつく当たってしまった時のように。


 自らの思いもよらなかった攻撃性に(おのの)きながら、澄蘭は無意識に(もとどり)で揺れる簪に手を伸ばしていた。


穏翊(おんよく)義兄様(にいさま)……)


 母子ともども父帝に顧みられず、非才を下働きの女官やどぶ攫いの宦官にまで馬鹿にされながら、ずっと背中を丸めて生きてきた。

 そんな彼女を褒めてくれたきょうだいは、穏翊だけだった。

 周囲の者から愛され、何もかもを持つ恵まれた琴華にだけは、澄蘭がただ一つ抱いた希望を打ち壊されたくはなかった。




 夜空に浮かぶ欠けた月が、怒りと困惑に震える澄蘭の肩を照らしていた。








 澄蘭(ちょうらん)は遅れていた淑女教育を取り戻すかのように、講義に没頭していた。熱心に講師に質問を重ねる澄蘭を、同席していた陽葵(ようき)が目を丸くして見つめている。


「お姉さま……。何かあったんですか?」


 休憩時間に入り、そっと耳打ちをしてきた陽葵に、澄蘭は目を瞬かせる。


「何でもないわ。――私は落ちこぼれだから、頑張らなきゃって思って」

「そんなことは……」

「先生が戻って来られたわ。集中しないと」


 にっこりと微笑む澄蘭を、陽葵は不安げに見つめていた。




 琴華(きんか)の主催した酒宴の晩から、二月あまりが経過していた。

 あの晩の記憶を消し去るように、澄蘭は手習いに精を出した。


 穏翊(おんよく)とは時間が出来るたびに、共に城下町へ赴いた。

 彼が市場の視察だけではなく、貧民への炊き出しに私財を投じていたことを知り、澄蘭も満足とは言えない扶持からその費用を捻出していた。


 白粥に混ざり始めた数種類の具に、貧民たちが押し頂くように杯を受けていた姿が、澄蘭の胸に深く刺さった。






 遠珂(えんか)とも二度、面会の機会を設けた。


 前回の、直前での面会延期の非礼を詫びる澄蘭に、遠珂は慌てたように両手を振った。すっかり元気を取り戻した様子の澄蘭に、遠珂はほっとした様に笑顔を浮かべる。彼は相変わらず礼儀正しく、贈られた書物の感想をたどたどしく語る澄蘭に、穏やかな声で解説してくれた。


 別れ際、いよいよ本格化した錚雲(しょううん)との交易の対応に遠珂は忙殺されており、次の面会は少し日が空きそうだと、申し訳なさそうに告げられた。誠実なその物言いに、澄蘭は微笑して彼を労った。






 これで良い、と澄蘭は内心で自分に言い聞かせる。


 自分を軽視し傷つける存在に、囚われていてはいけない。自分を大切にしてくれる人を大切にし、自分に出来ることに没頭しようと、澄蘭は決意を新たにする。


 いつの間にか秋は通り過ぎ、気付けば良月(りょうげつ)も終わりを迎えようとしていた。


良月は、旧暦の10月、現代の11月のイメージです。

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