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蘭花伝 ──黎明の皇女は天命に抗う──  作者: 冬生 恵
【第二章】揺れる水面
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十五. 療養

 翌朝、寝台に潜り込んだまま起きてこようとしない澄蘭(ちょうらん)にしびれを切らしたように、筆頭侍女の姷姷(ゆうゆう)が部屋に入ってきた。床に散らばった書物を苛立ったように避け、澄蘭の枕元に立った彼女は、相変わらず刺々しい声音で澄蘭に起床を促す。


「澄蘭様、起きてください。本日は(おん)忠業(ちゅうぎょう)がいらす日でしょう? そろそろ支度を整えないと……」


 苛立たしげに澄蘭の肩を揺すった侍女は、次の瞬間、息を飲んで(ふすま)を剥ぎ取る。

 天蓋(てんがい)付きの花梨(かりん)床榻(しょうとう)にぐったりと横たわり、力なく枕に頭を預けた澄蘭は、顔を真っ赤に火照らせ、額に汗を浮かべ浅い呼吸を繰り返していた。

 慌てた侍女が澄蘭の額に手をやり、その熱さに目を見開く。


「澄蘭様! ……酷い熱、すぐに医官を」


 急いで部屋を出ようとする侍女の背に、無理やり身体を起こした澄蘭は「待って」と呼びかける。驚いたように足を止めた侍女がこちらを振り返ると、澄蘭は半身を腕で支えながら、息も絶え絶えに告げた。


「寝ていれば……治ります……」

「澄蘭様……! ですが、」

「お願いだから放っておいて!!」


 高熱に潤んだ瞳で侍女を睨みつけ、澄蘭が声を荒げた。その剣幕に、侍女は言葉を失って黙り込む。

 しばし互いを見つめ合ったあと、侍女は「……承知しました」とポツリと呟くように答えた。


「水と、薬草粥を持って参ります。――少しでも異変があれば、お声掛けください。外に控えております」


 頭を下げ、部屋を出て行く侍女に背を向け、体を横たえた澄蘭は衾を頭まで被った。

 額からは汗が噴き出すのに、手足は氷のように冷え切っている。頭が割れるように痛み、澄蘭は奥歯を噛み締めた。









 澄蘭は結局その後、三日三晩、高熱にうなされた。

 ようやく熱が下がって起き上がれるようになった時には観月宴(かんげつえん)も終わっており、澄蘭は密かに落胆に息をついた。


 義兄の穏翊(おんよく)や、婚約者の遠珂(えんか)の仕事姿を見られるかと思っていたのに……と何気なく考えたところで、女官たちの会話を思い出してしまい、息を詰める。


 穏翊が澄蘭に、親愛の情を向けてくれている──そんなことは勘違いだと、侍女は口にしていた。それは、事実なのだろうか。

 親しげに接してくれている遠珂も、本当は、彼女を馬鹿にしているのだろうか。



(非才で、琴華(きんか)様と半分血が繋がっているなんて信じられない、駄目公主(こうしゅ)――)



 侍女たちの嘲笑が、耳に(よみがえ)る。


 頭を振り、澄蘭(ちょうらん)は枕元に置かれた簪と、一通の文を取り上げた。

 朝陽を受けて輝く簪は、初めて城下町に降りた時に穏翊に買ってもらったもので、文は直前で面会の約束を反故(ほご)にしてしまった澄蘭に、遠珂が送ってくれたものだ。澄蘭の体調を気遣い、落ち着いた頃に再訪を約束するその誠実な文面を、澄蘭は(すが)るように何度も読み返した。


(どちらにも、私には真心が籠っているように思える。あの人たちを、疑いたくない……)


 簪と文を抱きしめて、澄蘭は肩を震わせた。




 その時、慎重に開かれた扉から、筆頭侍女がそっと姿を見せる。起き上がっていた澄蘭の顔色を見て、侍女は小さく息をついた。


「……お目覚めでしたか。お加減はいかがですか?」

「ええ、もう大丈夫」


 ありがとう、と冷ややかに告げる澄蘭に、侍女は顔を(しか)めている。

 かつての澄蘭は、侍女のその表情を恐れ、機嫌を損ねたのではないかと、ずっと肝を冷やしていた。

 けれど、彼女の本心を知った今では、過去の自分が馬鹿馬鹿しく思えてくる。彼女の本音がああいったものであるのならば、こちらがそれなりの態度を取っても、責められる(いわ)れはないはずだ。

 冷たく(すが)めた目で窓の外を見つめる澄蘭に近寄った侍女は、その場に軽く膝をついて事務的に告げた。


穏翊(おんよく)殿下からの使者が参りました。お加減が良くなられたようであれば、昼前に伺いたいと」

「お義兄様(にいさま)が……?」


 思わず侍女の方を振り返り、ぶつかった視線に澄蘭は息を飲む。僅かに動揺を見せた侍女も、顔を俯かせて続けた。


「お会いになるようでしたら、その前に、湯浴(ゆあ)みとお召し替えを」

「分かりました。……お願い」


 そのまま寝台を降りた澄蘭は、急な眩暈(めまい)に身体をふらつかせた。慌てた侍女が支えようと手を伸ばすが、澄蘭は懸命に足に力を込めて踏みとどまり、その手を払う。


「……一人で、歩けます」


 気詰まりな沈黙を振り切るように、澄蘭は頭を振って歩き出し、侍女は無言でそのあとに続いた。











 久しぶりに身を清め、落ち着いた緑青(ろくしょう)(じゅ)にを通し、朝餉(あさげ)の粥を時間をかけて口にし終えた澄蘭(ちょうらん)は、昼までの時間を読書に充てて過ごした。

 やがて、澄蘭付きの宦官を先導に義兄が姿を見せ、澄蘭は顔を輝かせて駆け寄った。

 穏翊(おんよく)が血相を変えて飛び出し、義妹(いもうと)の身体を支える。


「お義兄様(にいさま)!」

「澄蘭! もう起きて大丈夫なのかい?」


 案じるようなその声に、澄蘭はほっと息をついて微笑んだ。


「はい。すみません、ご足労いただいて」

「何を言っているんだ。義妹を見舞うのは、義兄として当然のことだろう?」


 澄蘭の両腕に優しく触れ、穏翊は目を細めて笑う。その表情はごく自然で柔らかく、やはりいつかの侍女の言葉は彼女の穿(うが)ちすぎだろうと、澄蘭は結論付ける。

 澄蘭と並んで(ながいす)に腰かけ、穏翊は気遣うように声を掛けた。


「観月宴は残念だったね。……宴には、錚雲(しょううん)からの特使だけじゃなくて、商隊も幾つか来ていたんだよ。商隊は、今日からしばらくは、城下に滞在しているって」


 そう言って、穏翊(おんよく)は懐から取り出した玻璃(はり)細工のような飴菓子を、澄蘭(ちょうらん)に手渡した。砂糖の甘い匂いに、嗅ぎ慣れない刺激的な香辛料の香りが混じっている。

 目を瞬かせる澄蘭に片目をつぶり、穏翊は「お見舞いだよ」と笑った。


「昨日の宴の後、無理を言って見せてもらったんだ」

「わざわざ、私に? ……ありがとうございます、お義兄様」


 恐縮しながら受け取る澄蘭を優しく見やり、穏翊はおもむろに立ち上がった。


「さて、病み上がりの君に負担を掛けてはいけない。私はそろそろ行くね」

「お……っ、お義兄様!」


 後を追うように立ち上がった澄蘭が、穏翊の袖を引く。驚いて目を開く穏翊の耳元に口を寄せ、澄蘭は躊躇(ためら)うように続けた。


「あの……。もし、お時間があれば……。また一緒に、市場に行っても良いですか?」


 穏翊は二度三度瞬きをし、それから穏やかに囁き返した。


「もちろん。……二日後なら大丈夫だと思うよ。今回も、南端門で待ち合わせでも良い?」


 ぱっと顔を輝かせる澄蘭に、穏翊は「その代わり、淑女教育も頑張るんだよ」と、冗談めかして笑う。気まずそうに視線を逸らせる澄蘭の頭を軽く撫で、穏翊は立ち去った。









 二日後、澄蘭(ちょうらん)は足早に待ち合わせの門に向かった。手を振る穏翊(おんよく)のもとに駆け寄り、二人はすっかり手慣れた様子で南端門を出ていく。


 普段から賑やかな市場は、錚雲(しょううん)からの商隊が目抜き通りの一部に陣取り、多くの人が押し寄せていた。

 隙間から必死にのぞき込むと、鮮やかな青や赤の衣や、色とりどりの硝子を継ぎ合わせた器など、見たこともないような品々が並んでいる。その横には、不思議な香りを発する香辛料や、見たこともない形をした菓子など、かの国の食料品が置かれているようだ。

 行き交う人々は皆、興奮で頬を赤らめ、喧騒があたり一帯を包んでいる。すでに酒に酔っているのか、ひと際大声で陽気に語り合う男性たちの会話を聞くとはなしに聞いていた澄蘭は、耳馴染みのある家名を聞き取り、思わず背後を振り返った。


「……いやあ、すげえ! 見たこともないもんばっかりだぜ!」

「何てったっけ、錚雲との交易決めて帰ってきた役人さん」

(おん)父子(おやこ)だろ? お前、この間も聞いたじゃねぇか! ……すげえよなぁ、百年国境を閉ざしてた国を、一度の交渉で翻意させるなんざ」


 肩を小突かれた青年が、照れ隠しのように大声で笑う。商売仲間らしき人物たちも、晴れ晴れとした表情で彼に(なら)った。


「これでやっと、安心して米が食べられる。温家さまさまだな!」


 市井の民にも彼らの名が伝わっていたことに、澄蘭は驚く。

 今年も農村地帯では長雨が続き、米の収穫量は芳しくないと予想されている。

 このままでは今年は、皇都(こうと)授天府(じゅてんふ)でも餓死者が増えるのではないか――

 澄蘭たちが暮らす宮城(きゅうじょう)でもそう噂されていたため、錚雲からの米の流入に安堵している者が多いのだろう。

 自分の婚約者の名を民が口にし、感謝している状況がこそばゆく、澄蘭は俯く。穏翊はそんな澄蘭の手を引き、表の路地から外れ細い裏路地へ向かった。

 そこには市場の喧騒をこっそりと覗いている貧民の子らがおり、二人の姿を見て顔を輝かせる。


 懐から取り出した山査子(さんざし)飴の包みを手に、澄蘭と穏翊も彼らのもとへ足を急がせた。



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