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蘭花伝 ──黎明の皇女は天命に抗う──  作者: 冬生 恵
【第二章】揺れる水面
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十四. 二度目の市場と憂いの夕べ

 翌日、澄蘭(ちょうらん)は前回の外出時に穏翊(おんよく)の乳母にもらった、着古した衣服に袖を通した。人気のない隙を見計らって自室を抜け出し、まずは内廷(ないてい)を抜ける。

 途中で上がった息を落ち着かせ、更に央廷(おうてい)の隅を歩く。女官の身分証を身につけ、休暇の女官の外出を装った澄蘭は(とが)められることもなく、そのまま無事に外廷に足を踏み入れた。約束の門近くで待っていると、同じく下働きの衣に身を包んだ穏翊が姿を見せる。

 手を振って駆け寄る穏翊に、澄蘭もはにかみながら微笑んだ。


 二人はそのまま連れ立って、外廷の隅を南に下って行った。粗末な衣を纏う二人連れが皇族であるとは、誰も考えないのだろう。今回も驚くほど簡単に外に出られた。






 南端門を抜けた先に待機する馬車に穏翊と澄蘭が乗り込むと、その馬車は音もなく走り出した。二人が会話に夢中になっている間に、馬車は瞬く間に市場の手前に到着する。

 馬車を降りた二人は、頷きあって混雑する市場に足を踏み入れた。




 今回は小銭入れに入った金額の数え方や、それぞれの色の意味を、陽葵(ようき)に教わって来た。

澄蘭は張り切って主張する。


「お義兄様(にいさま)、今回は私が買ってきます!」


 澄蘭は、前回のお返しにと、あちこちの屋台に立ち寄っては点心を二人分買い求める。はじめこそその様をやや不安げに見つめていた穏翊も、ぎこちなく店主と会話する澄蘭を見て、安堵したように息をついていた。


「どうぞ、お義兄様」

「うん、ありがとう」


 彼女が誇らしげな笑みと共に差し出した品々を、穏翊は笑顔で受け取り、時には澄蘭の口元に悪戯っぽく差し出しては、澄蘭を赤面させる。ふざけ合いながら、義兄妹は市場を冷やかして歩いた。


「――澄蘭、こっちに屋台はなさそうだけれど……」


 (いぶか)しむ穏翊に、澄蘭はそっと口元に人差し指を立てる。

 薄汚れた細い路地の隙間には、先日とは別の子ども達が、空腹に耐えかねて膝を抱えている。それを認めた時には、澄蘭は駆け出していた。


「こら……っ、まったく、もう!」


 慌てた穏翊が、澄蘭の後を追ってくる。


 澄蘭は躊躇(ためら)わず、彼らに手持ちの菓子を差し出した。それを見てわらわらと、似たような背格好の子どもたちが集まってくる。やがて溜息を零した穏翊も、澄蘭と同じように、手の中の食料を差し出した。


「……澄蘭(ちょうらん)。これが目的で、こっちに来たね?」

「ごめんなさい、お義兄様(にいさま)


 苦い表情を浮かべる穏翊(おんよく)を、澄蘭は困り顔で見上げる。彼は「仕方がないなぁ」と肩を竦めてみせ、澄蘭が驚くほど積極的に、貧民たちに食べ物を分け与えた。


「あの……」


 擦り切れた衣を着た若い女が現れ、彼女たちに声を掛けてくる。二人が振り向くよりも早く、穏翊からもらった月餅を頬張っていた幼い女児が、「おかあちゃん」と声を上げて駆け出した。女児は勢いよく、その女性の腰元に縋り付く。女性は今にも消え入りそうな声で、ぎこちなく頭を下げた。


「すみません……。ありがとうございます……」

「そんなことしなくていいから!」


 澄蘭は慌てて、何度も頭を下げながら肩を震わせる女性の身体を起こした。


「それよりも、もう少し南へ下った広場で、粥の炊き出しがあるそうですよ。……異国から、お米が入ってきたの。早く行ってらっしゃい」


 あちこちに触れ書きは出ていたが、彼らは文字が読めなかったのだろう。

 遠珂(えんか)たちが隣国と交渉の末、この国に届けられた米は、不作が深刻な地域から優先的に配られていた。それらの地域に一通り広まったのち、ついにこの皇都の民の手にも届くようになったのだ。

 女性は初耳とばかりに、澄蘭の言葉に目を見開いている。

 励ますように、澄蘭は頷いた。





 女性に声を掛けられた貧民たちが、連れ立って炊き出し場を目指していくのを、澄蘭は黙って見守った。俯く彼女の肩に、穏翊がそっと触れる。


「……必要な者に、必要な情報を届けるのは、難しいね」


 澄蘭も無言で頷いた。


 その一方で、市場にもどると、触れ書きを読み、錚雲(しょううん)との交易がいよいよ始まったことを実感した市民たちが、高揚したように言い合っている。


「なんか知らんが、どこかの官僚様が、この米を手配してくれたらしいぞ!」

「助かるぜ! さすがにこの高騰、値上げしないとキツかったんだ」

「今後、米以外の品も入ってくるんだろう? いやあ、楽しみだ!」


(おん)忠業(ちゅうぎょう)たちの話が、ここまで……)


 一般市民にまで話が伝わっていたことに驚くとともに、その情報量の差に、貧民との格差を思い知る。貧しい者は、知識を得る機会すら与えられず、貧しいままに一生を終えていく。その不条理さ、救われなさに、澄蘭はやるせない感情を抱いた。

 気がつけば太陽は、南中を極めている。夏の終わりの涼風が、色褪せ始めた道端の草をさらさらと鳴らした。







 後宮に戻った澄蘭(ちょうらん)は、夕食のあと、燈籠を片手に水辺の東屋(あずまや)へ赴いた。先日までのムッとするような夜風とは一転、池の上を渡ってきた風はひんやりとしている。蟋蟀(こおろぎ)のリリリ……という鳴き声と、蝶を象った簪の飾りが風に揺れる音を響かせる以外には、ひっそりと静まり返っていた。


 そこで今日も思う存分、婚約者の遠珂(えんか)からもらった書物を堪能し、澄蘭はひとつ息を吐いた。

 市場探索ではしゃいだため、さすがに全身が疲れ、眠気を感じていた。思った以上の夜風の涼しさに、身体の冷えも覚えている。

 明日は、「観月宴明けでないと難しい」と言っていた多忙な遠珂が、何とか時間を作って会いに来てくれるという。三日前に宦官が伝言を持ってきた時、澄蘭は彼の心遣いに驚いた。無理に時間を捻出(ねんしゅつ)してくれた彼のためにも、寝坊するわけにはいかない。


(いつもより早いけれど、もう寝てしまおうか……)


 そう決断し、澄蘭は立ち上がった。部屋を出る前に侍女に声を掛け、寝支度は整えてもらっている。


 少しずつ真円に近づきつつある月を見上げながら、澄蘭は翠流殿(すいりゅうでん)の門を抜け、自室へ歩を進めていく。観月宴(かんげつえん)はいよいよ明後日に迫っていた。

 澄蘭は殿舎の隅、最低限の明かりが灯された、侍女や女官の控え室である区域に差し掛かる。足音を殺したのは、まだその部屋の一画──澄蘭付きの女官たちの部屋だ──から賑やかな話し声が漏れているからだった。

 息を潜めてその部屋を通り過ぎようとした澄蘭は、しかし、突然耳に飛び込んできた自身の名に息を詰め、その場で立ち止まった。


(私の話を、している……? 何の……)


 燈籠の炎を吹き消して床に置き、澄蘭は書物を抱き締めながら、そっと壁に寄る。影が映らないよう慎重に身体を入口に近づけ、聞き耳を立てた。

 本人に聞かれているとは露とも思っていない女官たちは、今も好き放題に笑い合っている。


「……最近、何か調子に乗ってると思わない? この間もせっかく勧めた衣、『派手すぎる』って顔を(しか)めて!」

「そうそう、冴えない駄目公主(こうしゅ)をなんとか見られるようにって、こっちだって必死なのに!」

「私、この間の舞の稽古見てたんだけど。相変わらず珍妙な動きで、笑いを堪えるのに苦労したわ。……ほんと、琴華(きんか)様と半分血が繋がってるなんて、信じられない。溺れかけの駝鳥(だちょう)かと思ったわ!」


 嘲笑混じりの声に、その場がどっと沸く。


「やめてよ! 想像しちゃったじゃない!」

「……ねえ、そういえば聞いた? あの人が最近、穏翊(おんよく)殿下と仲良くしてるって噂」


 脈絡なく飛び出した義兄の名に、澄蘭は息を飲む。独身で婚約者もなく、見目麗しい穏翊は、女官たちの憧れの的だった。

 女官たちは、不満気な声で盛り上がる。


「聞いた聞いた! 穏翊様はお優しいから、どんくさい義妹(いもうと)を哀れんでらっしゃるんじゃないの?」

「……ねえ、姷姷(ゆうゆう)はどう思う?」


 女官の一人が口にした名に、澄蘭は表情を強ばらせた。

 姷姷は、澄蘭の筆頭侍女の名だ。穏翊と顔を合わせた楓光園(ふうこうえん)に彼女を呼びに来たり、先日の典部(てんぶ)の書庫にも同行したりと、穏翊と一緒にいるところを誰よりも見ているはずだった。


 僅かな沈黙のあと、姷姷と思わしき声が、溜息と共に答えた。


「何か勘違いをしてるんだと思うわ。……女として評価されない公主に、穏翊殿下が目をかけるはずないもの」


 侍女たちは一斉に、甲高い笑い声を上げる。


 澄蘭は震える足でその場を後にし、追いかけるように響いていた女官たちの笑い声が聞こえなくなると、全力で駆け出した。

 出鱈目に走ったためか、誤って養母の部屋の方面に向かってしまい、芙澤(ふたく)が足音に驚いたように部屋から顔を出す。


「澄蘭、どうしたの?」


 彼女は様子のおかしい養娘(むすめ)に慌てて声を掛けるが、その声は澄蘭の耳に入らなかった。









 ようやく辿り着いた自室に飛び込み、澄蘭は後ろ手で乱暴に扉を閉めた。

 真っ暗な部屋の壁に背を預け、澄蘭は二度、三度と深く呼吸を繰り返した。その手元から書物が零れ落ちる。






 やがて震える両手で顔を覆い、澄蘭はその場にずるずると崩れ落ちた。

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