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蘭花伝 ──黎明の皇女は天命に抗う──  作者: 冬生 恵
【第二章】揺れる水面
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十三. 過去の因縁

父皇(ちちうえ)から、今日、澄蘭(ちょうらん)に書庫立ち入りの許可を出したと伺ってね。……会えるかと思って、期待していたんだ」


 そう言って微笑んだ穏翊(おんよく)は、ふと澄蘭の方へ身をかがめた。そのまま澄蘭の右の耳元に、ごく自然に唇を寄せる。

 背後に立つ宦官が驚きに息を飲み、澄蘭も頬にカッと血が上るのを感じる。

 低く滑らかな穏翊の声が、背後の宦官に聞こえぬように、そっと耳元で囁いた。


「……明日、また市場に顔を出そうかなと思っていて。澄蘭も一緒にどう?」


 思わず右耳を押さえて身を仰け反らせた澄蘭は、危うく宦官とぶつかりそうになった。慌てた宦官が身体の均衡を崩しかけ、彼は足をふんばって懸命に堪える。

 ドタバタと動揺する二人に、穏翊が「ごめん」と下がり眉で声を掛ける。そして、彼はじっと澄蘭の顔を見つめた。悪戯っぽい色をその瞳に認め、澄蘭は唇を引き結び、義兄を上目遣いで睨みつける。

 穏翊が楽しそうに笑い声を上げた。

 気恥ずかしさを誤魔化すように、澄蘭は咳払いをして口を開いた。


「……穏翊様は、今日はどうなさったのですか?」

「ん、ああ。今年の観月宴(かんげつえん)は、錚雲(しょううん)からの特使歓迎のため、義兄上(あにうえ)が取り仕切ることになっていてね。私はその補佐で、義兄上が探しておられた資料を一緒に探していたんだ」


 今年は珍しくゆっくりと、観月宴を楽しめそうだよ。

 穏翊は、晴れやかな表情で笑う。

 典部(てんぶ)の筆頭官である(さい)の地位にある彼は、国を上げての儀礼や祭祀(さいし)で重要な役割を担うことが多く、大きな行事の前は常に忙しそうだと、琴華(きんか)に聞いたことがあった。

 典部の業務は、外交や英玄試(えいげんし)の運営、国家祭祀や宗教管理など多岐にわたる。その部署の采に任じられているのは、父帝の彼への期待の現れなのだろう。

 澄蘭も当日は、皇族の一員として端の方に座ることになっている。行事を取り仕切る凛々(りり)しい義兄の姿を見てみたかった──と思いかけて、澄蘭は小さく首を振った。


(何を考えているの。穏翊(おんよく)様も直謙(ちょくけん)様も、真剣に業務に臨んでらっしゃるのに……。浮かれすぎよ)


 内心で自分を戒める澄蘭を不思議そうに見やったあと、穏翊は仕切り直すように尋ねた。


「澄蘭はどうして書庫に? 探し物がどうとか、話しているのが聞こえたけど」

「あ、はい。……実は、(おん)忠業(ちゅうぎょう)に、(ぎょう)時代の算術書をいただいたのですが、少し難しいところがあって。何か理解を助けてくれる書籍がないかと、探しに来ました」


 澄蘭の言葉に、穏翊は、「婚約者と上手くいっているんだね」と微笑む。澄蘭は曖昧に笑って答えた。


「そうなのでしょうか……。お優しくて、誠実な方だとは思うのですが」


 先日は会話が盛り上がり、「上手くやっていけるのかも」と安堵したことは事実である。それでも、夫として愛情を抱けるのかどうかは、まだまだ自信がない。

 これは父帝の命による婚姻であり、澄蘭の感情など不要なものだと理解している。それでも、互いに愛し合う夫婦関係への憧れは、澄蘭とて年相応に抱いていた。

 もじもじと俯く澄蘭へ優しく笑いかけ、穏翊はふと背後を振り返った。


「……そうだ。この辺りにも確か、暁の本があった気がする」


 少し高い位置にあるその棚に穏翊が右手を伸ばし、一冊の書物を引き抜いた瞬間、彼の袖口から何かが零れた。

 音を立てて地に落ちたそれは、僅かに床を滑り、澄蘭は咄嗟にしゃがみこんで拾い上げる。

 視界に入った輝きに、澄蘭は目を瞬かせた。


(かんざし)……?)


 珊瑚(さんご)で蓮の花を形づくり、幾粒もの真珠飾りを垂らすその簪は、若い女性向けのものだろう。銀細工はややくすんでいて、作られて年月が経っていると知れる。


 立ち上がり、何気なく簪を差し出した澄蘭は、穏翊の表情に思わず息を飲んだ。


 いつも穏やかな笑みを浮かべている、穏翊(おんよく)の優美な顔立ちが、仮面のように一切の表情を無くしている。楽しげに良く動く瞳も、今は冷ややかに細められ、(くら)い色をたたえていた。


 初めて見る義兄の様子に澄蘭(ちょうらん)が戸惑っていると、穏翊はすぐにいつも通りの微笑を浮かべ直した。空いている左手を、掌を上にして伸ばしてくる。彼の瞬時の変わりように、澄蘭の背に、我知らず冷たい汗が伝い落ちる。


 簪を差し出す手元は、僅かに震えていた。


 簪を受け取った穏翊は、入れ違いに右手に持った書物を、彼らの背後で成り行きを見守っていた宦官に差し出す。

 澄蘭が穏翊と宦官の間で視線を彷徨わせていると、穏翊は宦官に促すように右手を更に伸ばして言った。


「……多分、それらの書物は貸出に問題がないと思うから、手続きを済ませて先に戻ると良いよ。君にも、色々業務があるだろう? 澄蘭は、私が責任を持って送り届けるよ」


 穏翊の笑顔に、宦官は僅かに躊躇ったように、主である澄蘭を見やる。しかし、穏翊は手を引っ込めようとせず、やがて宦官は頭を下げて書物を受け取った。

 大量の本を抱えては、拱手も出来ない。

 本を持つ両手を僅かに掲げて、頭を下げた宦官は、黙ってその場を離れていった。








 何も言えずに宦官(かんがん)を見送った澄蘭(ちょうらん)に半身を向け、穏翊(おんよく)は何事もなかったかのように口を開く。戸惑う澄蘭に、彼は歌うような調子で言った。


(おん)忠業(ちゅうぎょう)の仕事ぶりも、たまに目にするけれど。──良い男だと思うよ、彼は。異国の血を引いているにしては、驚くほど生真面目で仕事熱心だ」

「異国……?」


 その言葉が何故か耳に引っかかり、澄蘭は思わず眉を(ひそ)める。

 穏翊は小さく喉を鳴らし、「私の意見ではないよ」と楽しげに語る。


「彼はもともと、暁時代に錚雲(しょううん)――商人の国から派遣されてきた、駐在士(ちゅうざいし)の末裔だからね。腹黒で図々しいとか、錚雲では王族に準じる身分だったらしく信用出来ないとか、口さがなく言う者も多い。

……過去、彼の父が、密かに調べていた帳簿の情報を提供したことがきっかけで、大掛かりな不正を暴かれた一族がいた。『(ぎょう)』という一族なんだけどね」


 話の展開が読めず、押し黙っている澄蘭に、穏翊は微かに笑って続けた。


「六年前だったかな。君の婚約者の父、(おん)統業(とうぎょう)……その頃は一つ下の、忠良(ちゅうりょう)だったそうだけど。その温忠良は、行家の政敵に協力を強要されたとも、あるいは、彼自身が行家に虐げた恨みを晴らしたとも言われている。

彼の関与を、父皇(ちちうえ)は表沙汰になさらなかったけど、噂は一部に広がった。行家は国の重鎮だったから、その件で、温家を恨んでいる者もいるだろう」

「そんなことが……」


 行氏が起こした事件については、当時十一歳だった澄蘭も、もちろん簡単に話は聞いていた。側仕えともほとんど会話することなく、部屋に引きこもっていたため、詳細なことは分からない。それでも、大罪を犯した彼は父帝の命で、一族もろとも大々的に処刑されたはずだとは知っていた。

 しかし、その件に温家が関わっていたことは、初耳だった。

 遠珂の父には会ったことがないが、娘の陽葵(ようき)の話では、野心がなく、慎ましく生きることを至上命題とする人物だということだった。穏翊の語る温統業の姿とは、かけ離れているように思えるが、実際のところはどうなのだろうか。


 黙り込んだ澄蘭の気分を変えるためか、穏翊はおどけた調子で言った。


「……まあ、誰に対しても物怖じしない温忠業の指摘は、いつも斬新で的確だし、高官たちがやり込められているのを見るのは面白いんだけどね。頭の固い高官どもには、なかなか受け入れ難いんだろう」


 あまりにも無邪気に語るその様子に、誰かが聞いてやしないかと、澄蘭(ちょうらん)はヒヤヒヤしてしまう。思わず、「穏翊(おんよく)義兄様(にいさま)、そのような仰り方は……」と(いさ)めると、穏翊はパッと瞳を輝かせた。


「……やっと、『義兄(あに)』と呼んでくれた」


 彼は澄蘭の(もとどり)に、そっと手を伸ばす。

 そこに刺さっているのは、先日の街歩き時に穏翊が買ってくれた簪だ。澄蘭は遠珂(えんか)や陽葵との面会の日以外には、その簪を愛用していた。

 心底嬉しそうな穏翊に、先ほどのような影は感じられない。澄蘭が様子を伺うように義兄を盗み見ていると、ふと目が合う。

 穏翊は苦笑しながら言った。


「……さっきはごめん、驚かせたね」

「いえ……大切なものだったのですか?」


 恐る恐る尋ねた澄蘭の言葉に、穏翊はどこか寂しげな笑みを浮かべて、空中を見上げる。


「そうだね……。捨てなくちゃと思っているんだけど、なかなか思いきれなくて」


 気にしないでおくれ、と視線を澄蘭に戻して儚く微笑む穏翊に、澄蘭も微かな違和感を振り払い、頷き返した。

 その後二人は市場へ向かう待ち合わせ時間の約束を交わし、書庫を後にした。




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