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蘭花伝 ──黎明の皇女は天命に抗う──  作者: 冬生 恵
【第二章】揺れる水面
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十二. 厳格な皇太子

公主(こうしゅ)様がお探しなのは、算術の書でしたかな? ……それであれば、そちらの西の辺りかと」


 そこは、礼の叡智(えいち)が一堂に集められた書庫であった。見渡す限りに書架(しょか)があり、そこには古今東西の本という本が、所狭しと並んでいる。

 直射日光が入らないよう角度を工夫して取られた窓は、開かないように固定されているようだ。そことは別に通風口が設けられているのか、足元や頭上から時折涼しげな風が吹き込む。

 万が一にも火災が起きぬよう、手燭(てしょく)を禁じられているため、壁際や書架の脇に数を絞って置かれた燈籠(とうろう)の周囲には、二名ずつの総兵(そうへい)が配されている。蝋燭も風で倒れたりしないよう、玻璃(はり)の覆いが被せられていた。




 侍女を脇の控室に残し、宦官(かんがん)を伴って書庫に足を踏み入れた澄蘭(ちょうらん)は、視界を埋め尽くす書架に目を輝かせていた。

 そんな彼女を微笑ましそうに見遣り、老官は(しわが)れた声で奧を示す。


(全ての書架を、一つずつ見て回りたい……。いえ、もういっそ、ここに住みたい……!)


 そんな衝動を何とか堪えながら、澄蘭は老官の後ろについて、歩を進める。宦官もしずしずと、彼女に続いた。

 大礼国(だいれいこく)の知識を一所に集めた書庫は、その全容が視界に収め切れないほどの広さを誇る。澄蘭が両手をめいいっぱい広げても届かない幅の書庫が、目に入るだけでも、少なくとも十五は並んでいた。その奥にも更に、何列か並んでいるようだ。

 きょろきょろと見回す視界の中に、人影はほとんどない。衣擦れの音が僅かに響く程度で、書庫内は静まり返っていた。

 てっきり、典部(てんぶ)を始めとした各部所属の官僚たちで賑わっているのだろうと想像していた澄蘭は、意外に思って首を傾げる。

 すると、背中に目でもついているのか、あるいは読心術でも修得しているのか、老官が「ほほっ」と笑い声を上げた。


「本日は、尊きご身分の方がいらっしゃるゆえ、急ぐ業務がない者は立ち入りを控えるように。――そう、通達がございまして」


 そしておもむろに振り向いた老官は、「お美しい公主様のご尊顔(そんがん)を独り占め出来て、(じい)は幸運でございます」と、冗談めかしてにやりと笑う。

 澄蘭の背後で、彼女付きの宦官が顔を(しか)めたのが、気配で分かった。澄蘭も戸惑うが、老官の茶目っ気に溢れた軽口に、悪い気分はしなかった。





 さて、この辺りですかな、と唐突に足を止めた老官は、澄蘭の少監に小ぶりな鈴を手渡した。探し物がひと段落着いたら、これを鳴らして呼んでくれという。


「入り口に控えておりますゆえ。禁本(きんぼん)と、兵書以外は自由にご覧になって良いと、陛下よりお(ことづ)けを(たまわ)っております」


 目を輝かせる澄蘭に一揖(いちゆう)して告げ、老官はしずしずと去っていった。








澄蘭(ちょうらん)様……。まだ探されるのですか?」


 幾冊もの本を抱え、澄蘭付きの宦官(かんがん)はややうんざりした声で問う。二人が書庫に足を踏み入れて、早くも半刻以上が過ぎていた。

 澄蘭は、あちこちの棚からめぼしい書籍を取り出しては、ぱらぱらとめくって棚に戻し、あるいは宦官に手渡しを繰り返していた。途中で一度、書庫の扉が開く音がしたが、特に声をかけられることもなかったので、澄蘭はうろうろと書庫の内部を歩き続けている。

 一方、澄蘭に従う宦官は、外廷への移動に、重い書物を抱えての書庫探索にと、すっかり音を上げていた。澄蘭と変わらない背丈の、なよやかな見た目の彼は、身体を動かすことが大の苦手としている。「肉体労働をしたくないが為に宦官になったし、身体が資本の部署に配属されないよう、学習所でも死ぬ気で勉強した」と、堂々と口にするほどだ。

 許可さえ出れば、すぐにでも床にへたりこみたい、という空気がありありと伝わってきた。


「待って、もう少し……」


 振り向いた澄蘭が宦官に声をかけたその時、カツカツと歩幅の大きな足音が向かってきた。


 澄蘭と宦官は、思わず顔を見合わせ、──次の瞬間、素早くその場に(ひざまず)いて(こうべ)を垂れた宦官が拱手(きょうしゅ)する。澄蘭も、一泊遅れて腰に両手をやり、膝を折る万福(ばんぷく)を行った。

 澄蘭は、自身の鼓動が早鐘を打つのを感じる。


 書架の陰から姿を表したのは、四爪(しそう)の龍の刺繍された紫の上衣に、(たくま)しい身体を包んだ青年。


 現帝の長子にして嫡男、皇太子の直謙(ちょくけん)だった。







「皇太子殿下に……、(つつし)んで、ご挨拶申し上げます……」


 自身の声が僅かに震えているのを、澄蘭は自覚する。


 父帝の皇太子時代からの正妃で、現在は皇后として後宮を統率する(ちょう)氏を母に持つ直謙は、厳格な人柄で知られる。

 国家による厳密な統治を是とする今上(きんじょう)を崇拝し、何よりも身分と伝統、規律を重視する義兄のことが、澄蘭は恐ろしくて仕方がなかった。


 もっとも、直謙も、中級妃の娘である澄蘭のことは、はなから歯牙(しが)にもかけていない。

 今も、「楽にせよ」と告げる声は、配下の者に用を命じる声と同じ色をしていた。


「寛大なお言葉に、感謝いたします……」


 苦い思いを噛み殺して澄蘭が顔を上げ、宦官が(なら)うと、直謙は「ふん」と不機嫌そうに鼻を鳴らした。


「こんなところで何をしている? ──澄蘭」


 冷ややかな声音に肩を揺らし、澄蘭は重ねた袖の中で拳を握り締める。

 この場合、主である澄蘭に答える義務があり、宦官は立ち上がったものの、引き続き拱手したまま頭を垂れ沈黙している。


 文武に秀で、父帝の信も(あつ)く、馬術と剣術で鍛えた大きな身体と、武張(ぶば)った男らしい顔立ち。威圧感に溢れた長兄は、澄蘭にとってひどく苦手な存在だ。

 冷厳さの滲む目線に(さら)され、澄蘭は両手を脇に下ろし、義兄を直視しないよう目を伏せて答えた。


「許可をいただき、こちらで探し物をしておりました」

「探し物? ここに、女が読みたがるような書物はないだろうに」


 澄蘭(ちょうらん)の返答に、彼は理解出来ないとばかりに眉間に皺を寄せる。馬鹿にしているつもりも、毛頭ないのだろう。

 義兄の直謙(ちょくけん)はただ、礼国の多くの男性と同様に、「女の役割は夫と両親に敬意を持って仕え、子を産み育てること」だと、心の底から信じているだけなのだ。

 俯いた澄蘭が密かに唇を噛み締めていると、その時、別方向から掛けられた声が沈黙を破った。


「……義兄上(あにうえ)、ありましたよ。──あれ、澄蘭? ここで何を?」


 聞き馴染みのある声に、澄蘭は驚いて顔を上げる。

 そこには、古びた書物を手にした、第二皇子の穏翊(おんよく)がいた。

 目を丸くした彼は、重い空気の中に立つ義兄妹の顔を、交互に見比べる。澄蘭は慌てて再び万福(ばんぷく)し、宦官も拱手したまま深く身体を折った。

 穏翊は、礼を尽くす二人に「楽にして」と気安く告げる。澄蘭と宦官は声を揃えて感謝を述べ、身体を起こした。

 そんな二人にちらりと目をやり、直謙は穏翊へ身体ごと向き直った。黙って手を差し出すと、穏翊は(うやうや)しくその手に書物を差し出す。

 直謙は、ぱらぱらと頁をめくって流し読み、やがて穏翊に向かって頷いた。


「……確かに。ではこちらを参考に、挨拶を練り直すか」

「それが宜しいかと思います。(おん)統業(とうぎょう)が控えております。何かあれば彼に」

「……温家か」


 分かった、と直謙は無表情で頷く。ちなみに、統業は六部の第三層の地位で、澄蘭の婚約者の遠珂(えんか)の父がそこに属している。遠珂自身は、最下層の忠業(ちゅうぎょう)だ。

 直謙は踵を返して、堂々とした足取りで歩き始める。三人は拱手(きょうしゅ)で頭を下げ、彼を見送った。

 きびきびとした足音が完全に遠ざかったのち、澄蘭が顔を上げると、既に身を起こしていた穏翊と目が合った。


「良かった、会えて」

「……え?」


 嬉しげなその声に澄蘭が戸惑いの表情を浮かべると、穏翊はさり気なく距離を詰めた。

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