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蘭花伝 ──黎明の皇女は天命に抗う──  作者: 冬生 恵
【第二章】揺れる水面
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十一. 大書庫へ

 遠珂(えんか)はさっさく、翌日の出仕時に、一冊の本を侍奉局(じほうきょく)(ことづ)けてくれたそうだ。


 重厚な表紙の分厚いその書物は、先日の面会時にも話題にのぼった、第二代・恭和(きょうわ)帝の時代──和岐(わき)年間に書かれた算術書だった。


 始祖(しそ)文立(ぶんりつ)帝の長子であったかの帝は、儒学を重視した父の教えに(なら)い、官僚機構を整備し、登用試験の英玄試(えいげんし)の制度をまとめあげた。数々の典礼(てんれい)を見直して、現在に続く形に整えた賢帝として知られている。

 一方で、民の自由を尊重した前王朝で様々に栄えた文化にも一定の理解を示し、次代に受け継ぐべき知識を学者たちに命じて編纂(へんさん)させたという。商人の国である錚雲(しょううん)の影響も受けていた、(ぎょう)時代の様々な算術をまとめ直したその書物は、現在ではなかなか手に入らない稀覯本(きこうぼん)だ。


 侍奉局と司率局(しそつきょく)検閲(けんえつ)を経て、その翌日に手元に届けられた本の表紙を目にした瞬間、澄蘭(ちょうらん)は内心で狂喜乱舞した。


 うずうずする身体を懸命に押さえ込み、書物を届けに来た年配の女官が澄蘭の自室を辞した瞬間、その場に飛び上がって喜びを露わにする。


「……澄蘭様」


 侍女が尖った声で釘を刺し、澄蘭ははっと息を飲んだ。

 喜びのあまり、随分とはしたない振る舞いをしてしまっていたことに気付き、ばつの悪さに赤面する。

 咳払いをした侍女が、刺々しく告げる。


「先ほどの女官が、外で控えています。早く、(おん)忠業(ちゅうぎょう)へのお礼の文を準備なさってください」


 ようやくそのことに思い至り、澄蘭は慌てて文机へ向かった。







 養母や侍女の視線をかい(くぐ)り、連日遅くまで貴重な書物を堪能していた澄蘭は、ある日の手習いを終えた後、外廷(がいてい)典部(てんぶ)が管轄する、大書庫への出入り許可を求めた。


 普段から養母の殿舎に引きこもりがちな澄蘭の申し出に、彼女付きの少監(しょうかん)は訝しげに眉を(ひそ)めるが、澄蘭は懸命に頭を下げる。

 遠珂(えんか)に贈られた算術書は、一読では理解できない箇所が多く、和岐(わき)晩年に発行されていたはずの解説書を探したかったのだ。


「お願い。どうしてもこの本を読み解きたいの。侍奉局(じほうきょく)に取り計らって!」


 必死な彼女の様子についに観念したのか、宦官は父帝の許可を得るべく、上官に取り次ぎを求めに向かってくれた。


 数多(あまた)草案(そうあん)を日々決裁し、国の舵取りを行う父帝は多忙だ。(まいない)も渡さず、侍奉局が執り成しをしてくれるのか不安だったが、それは杞憂であったようだ。


 数日後、一日限りの外廷書庫への立ち入りを許可する父帝の書類が、澄蘭のもとに届けられた。

 再び飛び上がって喜ぶ澄蘭に、講義の続きのため翠流殿(すいりゅうでん)に上がっていた陽葵(ようき)が、傍らで目を丸くしている。

 いつになく弾む気持ちで講義を受け終えた澄蘭は、興奮でソワソワしながら翌日を待った。






 どちらかと言えば朝寝坊がちな澄蘭(ちょうらん)だが、その朝は日の出と同時に目を覚ました。

 いつも通り彼女を起こそうと入室した侍女が、驚きに目を見開いている。彼女を急かして洗面と化粧、着替えを終え、慌ただしく部屋を出ようとした澄蘭を、侍女は目を三角にして叱りつけた。


朝餉(あさげ)もとらずに外廷まで歩いて、途中で目でも回したら、どうなさるおつもりですか! 外出許可すら取り消されるかも知れませんよ!」

「……ごめんなさい」


 侍女の剣幕にたじろぎつつ、一理あると認めた澄蘭は、ようやく落ち着きを取り戻し、大人しく朝食の席についた。バツの悪そうな顔をした侍女が給仕女官に合図を出すと、ハトムギ粥や数種類の(おかず)といった簡素な食事が運ばれてくる。澄蘭はゆっくりと咀嚼し、それらを飲み込んだ。


 ちなみに食事の後、改めて読み直した父帝からの書類の隅に、「先導官を寄越す。(たつ)終刻(しゅうこく)に外廷の東門まで来るように」と記されていたことにようやく気付き、澄蘭は赤面した。外出許可の文言に興奮するあまり、最後まで目を通していなかったのだ。

 呆れたように溜息をつく侍女に、澄蘭は冷や汗をかきながら謝辞を述べた。






 早くも遅れつつあった淑女教育の教本に自室で目を通しながら待ち、ようやく辰の刻の終盤に近づいた頃。待ち焦がれた案内の宦官の来訪を、澄蘭付きの女官の一人が告げた。

 今度こそと意気込んで、澄蘭は立ち上がる。彼女付きの主席宦官と侍女の二名を従えて、部屋を出た。

 宦官の先導のもと、内廷を南下し、澄蘭は皇族と妃嬪、皇太子妃の専用路を通って央廷内を進んだ。この通路は内廷に住まう皇族や妃嬪が外廷へ出る際や、宮城の外に住まう皇族が内廷で身内に面会をする際に利用するもので、通行時には侍奉局(じほうきょく)の承認が必要だった。側仕えの上級官も、主と一緒であれば通行を許されているが、単独であれば職位に応じた通路を選ぶ必要がある。

 先日の穏翊(おんよく)との内密の外出時には、澄蘭は下級官用の粗末な通路に、ヒヤヒヤしながら足を踏み入れた。

 実際には、後宮の雑務を担う下級女官たちの出入りは頻繁にあり、通路の使用や外廷へ抜ける際の確認も、皇族や妃嬪に対するものと比べれば簡素で、澄蘭は拍子抜けしたものだった。






 しばらく三人は一列になって無言で歩き、やがて外廷との境に設けられた長大な壁に辿り着く。東西を端から端まで繋ぎ、央廷との境を示すその壁面には幾つかの門があり、いずれも武装した総兵(そうへい)たちが警備を務めていた。


 宮城の中央を真っ直ぐ南北に貫く道と、そこにかかる門は皇帝専用である。皇族や妃嬪は東から出入りする規則だ。


 澄蘭と侍女にその場に留まるよう伝えた宦官は、父帝からの文を預かり、真っ直ぐ東門へ向かう。彼は誰何(すいか)する門番に名乗り、父帝の手紙を掲げた。内容を一瞥した兵はひとつ頷き、外に案内の官が一人待っていることを淡々と告げた。軋む音を響かせながら門が開く。

 こちらを振り返った宦官が侍女に声を掛け、二人は位置を入れ替える。官僚には宦官との同席を嫌がる者が多く、案内の官の機嫌を損なわないための配慮だった。緊張の面持ちで、澄蘭たちは敷居を跨いだ。


 書庫は典部(てんぶ)の管轄であることから、案内の官とは遠珂(えんか)か、あるいは義兄の穏翊(おんよく)ではないかと期待していた澄蘭ではあるが、門の向こうで頭を下げていたのは、見知らぬ老官であった。我知らず澄蘭は肩を落とす。無言で歩き出すその官を、三人は並んで追った。








 外廷は、大礼国の要であると言っても過言ではない。


 最奥の北端には、皇帝が日々勅をしたため朝議を行うほか、外国からの特使や儒学者を迎える謁見殿が鎮座する。

 その南東には、官僚たちが国家運営のための業務に勤しむ六部府(ろくぶふ)や、詔勅(しょうちょく)の起草や皇太子教育といった重要任務を担う星廊府(せいろうふ)、重要な国家行事の行われる礼府(れいふ)(のき)を連ねている。

 一方の南西側には、宮城全体の治安維持組織である総統院府(そうとういんふ)や、監察部門たる糾正院府(きゅうせいいんふ)などが配置されていた。

 その他にも、外廷医官や薬師の詰め所、外廷配属の女官の各(ろう)や寮、外廷内で罪を犯した官僚や女官を収容する牢獄が、西の外れにまとめられている。

 内廷に比べ、格段の広さを誇る外廷には当然勤める人間も多い。書類を手に歩く官僚たちや、忙しく駆け回る女官たちの姿に、澄蘭は改めて圧倒される思いであった。



 老官はやがて、一つの建物の前で足を止める。見上げた扁額(へんがく)には『典部』の文字があった。


「ここが……」


 荘厳な門構えに、澄蘭は思わず感嘆の声を上げる。好々爺(こうこうや)然と微笑んだ案内の老官は、三人を促して(きざはし)に足をかけた。


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