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蘭花伝 ──黎明の皇女は天命に抗う──  作者: 冬生 恵
【第二章】揺れる水面
12/22

十. 穏やかな日に

「……澄蘭(ちょうらん)公主(こうしゅ)?」


 気遣わしげに自分の名を呼ぶ遠珂(えんか)の声に、澄蘭ははっと目を見開いた。


 先日の市場探索から、七日が経っていた。

 あの晩に抱いた「民のために出来ることはないか」という思いは、彼女の頭から離れることはなく、いつにも増してぼんやりと物思いにふけりがちになっていた。律儀に一旬(いちじゅん)ごとに訪ねてくる遠珂との面会中の今も、会話に集中出来ず返答は上の空だ。


 ただしそれは、遠珂の繰り出す話題に興味が持てない為であったかも知れない。


 彼は、若い女性が好みそうな話題──衣装や宝飾品の流行、巷で人気の芝居や音楽についてなど、色々と調べて来てくれたのだろう。一生懸命なその様子には感謝しているが、それらの話題に一切興味が持てない澄蘭には、曖昧に笑って相槌を打つことしか出来なかった。

 澄蘭の気乗りしない反応に気付いたのか、戸惑いを浮かべた遠珂が、次第に声を落とす。

 やがて二人の間には、重苦しい沈黙が横たわった。


(前回もこうして沈黙を持て余して、ひたすらお茶を飲んでいたな……)


 内心で呟き、澄蘭は僅かに揺らぐ茶碗の水面に視線を落とした。


 義兄の穏翊(おんよく)であれば、彼女の反応を敏感に察し、気の利いた話題を向けてくれるだろう。

 皇都を二人お忍びで歩き、あちこちの屋台を冷やかしながら気軽に交わした会話の数々を思い出して、澄蘭はきゅっと眉根を寄せた。

 各地の郷土料理の特色と歴史、宝石の種類とその産地、衣の鮮やかな色の原料と染め方など。義兄は博識で、澄蘭の好む話題を次から次へと見つけては披露してくれた。楽しかった思い出が胸を()ぎり、澄蘭は小さく息を吐く。

 気まずさを誤魔化すように、遠珂も茶碗を幾度も口に運んでいる。彼が茶を啜る僅かな音が、静まり返った空間に響いた。

 やがて、意を決したように唇を引き結んだ遠珂が、澄蘭に向き直った。


「澄蘭公主は……どういった本を読まれるんですか?」


 先日も読書をされていたと仰っていたので、と、妙に緊張した様子で続ける遠珂に、澄蘭はつかの間逡巡した。

 「歴史書を」、などと答えれば、彼は怪訝(けげん)な顔をするだろう。それはこの国の男性の一般的な反応だ。

 一方で、内廷の通路前で書物の話をした時の義兄の笑顔が、澄蘭に僅かな希望を与えていた。女性の読書を、その興味の対象を否定しなかった義兄のように、もしかしたら、目の前で真剣な面持ちをした彼も理解してくれるのではないか──淡い期待が澄蘭を迷わせる。

 少なくとも、婚約の経緯から、遠珂の誠実さは疑うところがなかった。


 袖の中で、澄蘭はぎゅっと拳を握り締めた。


 遠珂との面会前、いつも通り澄蘭を可愛らしい令嬢に仕立てようと奮闘する侍女たちに、彼女は落ち着いた石竹(せきちく)(じゅ)を準備するよう告げた。珍しく毅然と自分の意見を口にした澄蘭に、筆頭侍女は目を丸くしていた。


 義兄との外出以降、何かが少しずつ変わっていく自分を意識する。


 澄蘭は遂に口を開いた。


「……歴史書や、異国の文化について記した書物が好きです。あとは、算術書や暦についての本なども。先日は西雲紀(さいうんき)……錚雲(しょううん)の歴史と暮らしをまとめた書を読んでいました」


 遠珂はきょとんとした表情で、澄蘭を見つめる。

 だがやがて、嬉しそうに頬を緩めた。


「西雲紀、面白いですよね。私も錚雲に持参して、実際の彼らの暮らしと見比べていました」


 文化も少しずつ変化していて、とても興味深かったです。

 声を弾ませて言う遠珂に、澄蘭の目がパッと輝く。


「具体的に……、どこが、変わっていましたか?」


 おずおずと尋ねる澄蘭(ちょうらん)に微笑み、遠珂(えんか)は懐から帳面を取り出した。


「色々気になって、書き留めて帰ってきたんです」


 そう言って笑う彼の手元を、澄蘭は思わず食い入るように覗き込む。唐突に縮まった距離に、僅かに息を飲んだように見えた遠珂は、しかしすぐに目元を細め語り出した。


 変わらず受け継がれていく伝統、一方で、真逆の意味を持つようになった風習。使われなくなった古い言い回しや、百年経っても変わらない、挨拶や求婚の台詞。


 生き生きとした口調の遠珂の話は、澄蘭の好奇心を大いに刺激した。現地の官僚との会談の中で、お互い単語は聞き取れているはずなのに会話が全く嚙み合わず、始終首を傾げ続けたという逸話には、澄蘭は声を立てて笑ってしまった。交易条件の合意に至り、後に親しくなったその官僚と改めて交わした会話の中で、遠珂は「河川」の話をしていたつもりが、相手には「家畜」の話に聞こえていたことが判明したそうだ。



 二人の会話は珍しく途切れることなく続き、二人とも茶碗をすっかり空にしていた。察した侍女が途中、何度か茶を入れ替えに来るが、会話に夢中な澄蘭は気付いておらず、遠珂が代わりに黙礼を送る。



 やがて、面会終了の刻限を案内の宦官(かんがん)が告げにやって来て、我に返った澄蘭は驚いて周囲を見回した。翠流殿(すいりゅうでん)の客間に差し込む日差しは、すっかり赤みを増している。


 名残惜しそうに立ち上がる遠珂を、澄蘭が上目に見上げると、彼は人懐っこい笑顔を浮かべた。


「もしよろしければ、書物を澄蘭様に差し上げたいんです。……問題ないでしょうか?」


 後半は、傍に(たたず)む宦官への確認だった。

 男性の機能を幼い頃に失ったのであろうその宦官は、高く澄んだ声で、「侍奉局(じほうきょく)と、司率局(しそつきょく)検閲(けんえつ)後であれば」と、言葉少なに答える。

 侍奉局は、皇帝を初めとした皇族や、妃嬪(ひひん)に仕える宦官の所属する部署であり、司率局は同様の、女官たちの部署だ。内廷(ないてい)の外からの文や差し入れには、基本的には彼らの許可が必要だった。

 もっとも、財に困らない者たちは、賄賂(わいろ)ひとつで自由に出来るのだが、二人ともに縁のない話だった。

 宦官の返答に頷いた遠珂は、礼儀正しく澄蘭に一揖(いちゆう)する。


「……今日はありがとうございました、澄蘭公主。また、近いうちに」


 相好を崩し、いつになく弾んだ遠珂の声に、澄蘭も目を細めて頷いた。


「はい。あの……、次は、いついらしていただけますか?」


 錚雲の話をもっと聞きたい、本についてもっと語り合いたいという期待を込めての発言だったが──深く考えずに告げたその言葉に、遠珂の顔が瞬時に朱に染まった。澄蘭も、音が出そうな勢いで頬を真っ赤にする。


 先ほどの物言いではまるで、恋しい男性に甘え、(おとな)いをねだっているように聞こえただろう。


 自分の失態に思い至り、顔に血が上る一方で、澄蘭の頭の中は真っ白になる。


「あ、あの……!」


 あわあわと無意味に両手を胸の高さに上げては下ろす澄蘭に、遠珂も何かを誤魔化すように、勢いよく両手を振っている。

 やがて目線が合うと、遠珂は小さく笑い、穏やかに告げた。


「……申し訳ありません、半月後の観月宴(かんげつえん)に錚雲の特使を招く関係で、少し準備に追われております。ですが必ず、落ち着いたら時間を作って、会いに参ります」


 良ければまた、書物の話をしましょう。

 そう告げて、穏やかに微笑む遠珂に、澄蘭はこくりと頷き返す。





(もしかしたら……この方となら、上手くやっていけるのかも知れない)





 淡い期待を胸に抱きつつ、宦官に連れられて部屋を出ていく遠珂の背中を、澄蘭は無言で見送っていた。



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