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蘭花伝 ──黎明の皇女は天命に抗う──  作者: 冬生 恵
【第一章】日陰に咲く花
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九. 養母、芙澤(ふたく)

(知っているつもりで、ちゃんと理解できていなかった。民は私が思う以上に飢えていた。

皇都は隅々まで栄えているけれど、その隙間に取り残された民たちが、どんな暮らしを送っているのか、知ろうともしなかった……)


 穏翊(おんよく)に買ってもらった簪を撫でながら、澄蘭(ちょうらん)はひとり、物思いにふけっていた。

 自室の隅に灯された燈火の明かりを受け、蝶と花の鍍金細工にあしらわれた瑪瑙(めのう)が深紅に輝いている。







 初めての市場探索は、彼女の胸に言いようのない高揚をもたらした。

 (れい)の各地から(もたら)された特産品は、民の目と腹を十分に満足させているようだった。それらを買い求める民は熱気に溢れ、表情は楽しげだった。

 一方で、日雇いの肉体労働の民が気軽に買えるような包子(ぱおず)すら、買うことが出来ず、盗みに走る貧民たちを見た。

 話に聞いていなかったわけではない。

 けれど間近で見た、街路の片隅に隠れるように暮らし、食糧を盗んだ罪で引き立てられた少年の瞳に宿った、暗い焔のような怒りに、澄蘭の胸は引き裂かれるように痛んだ。


 澄蘭の細指でも力を込めて掴めば、折れてしまいそうなほどに痩せた、幼子たちの手足。

 僅かな飴菓子を崇めるように持ち去り、震える手で口に運んでいた。

 そんな彼らを遠目に見詰める大人たちの、全てを諦めたような(くら)く沈んだ表情。飴菓子を差し出した澄蘭を睨みつけた少女の、憎悪に燃える苛烈な瞳。


 皇女としての地位も低く、義姉との立場の違いに複雑な感情を抱いていた自分が、途端に矮小(わいしょう)な存在に思える。

 飽食や、贅沢を堪能出来るわけではないものの、年中、飢えることも寒さに震えることもなく、僅かな憂いだけで年を越せる。そんな自分が「不幸だ」などと、彼らに比べれば思い上がりも(はなは)だしいだろう。



 貧民に蔑みの目を向けていた市民たちの姿は、後宮内で自分を冷ややかに見る者たちのそれによく似ていた。


『役に立たない書物ばかりを好む、落ちこぼれの非才な皇女』

『先帝の命で整えられた婚姻にも関わらず、冷遇され呆気なく亡くなった、中級妃の娘』


 心ない陰口と嘲りに密かに傷ついてきた自身の姿を、澄蘭は貧民の子どもたちに重ねてしまっていた。


「私に、何か出来ることはあるのかな……」


 ぽつりと呟いた澄蘭は、手の中で輝く(かんざし)──市場で義兄が買ってくれた簪を握りしめる。これを(あきな)う男性はあくまで(したた)かで、けれどどこか必死な様子を漂わせていた。

 背を丸めた澄蘭に、その時、密やかな声がそっと呼びかけた。


「……澄蘭? どうしたの?」


 肩をびくりと揺らし、澄蘭(ちょうらん)は振り返る。


 柱の端から身を覗かせ、心配そうに眉を(ひそ)めた小柄な女性は、養母の(さい) 芙澤(ふたく)だ。

 父帝の即位とともに入宮した彼女は、今年二十八歳となるが、九歳の息子がいるとは信じられないほどの若々しさを誇る。穏翊(おんよく)琴華(きんか)の実母──(おう)雅妃(がひ)のような人目を惹く美しさはないが、野に咲く花のような、素朴で可憐な印象の佳人(かじん)だった。

 慌てて(こうべ)を垂れた澄蘭に眉を下げて微笑んだ後、芙澤はそっと彼女のそばに膝をついた。


「その簪……(おん)忠業(ちゅうぎょう)にいただいたの?」


 養母の手が簪に伸びた瞬間、澄蘭は息を飲んだ。

 表情を強張らせた養娘(むすめ)に、芙澤も火に触れたように手を引いた。

 気詰まりな沈黙が、二人の間を流れる。

 澄蘭は気まずそうに答えた。


「これは……穏翊様にいただきました」

「穏翊殿下に……?」


 (いぶか)しげに眉を顰める養母に、澄蘭は警戒したように黙り込んだ。


 父帝には複数人の妻妾がいる。

 正妻たる皇后のほか、各位一名ずつの、雅妃・華妃(かひ)忍妃(にんひ)睿妃(えいひ)の上級妃。同様に、一名ずつの、媛儀(えんぎ)媛容(えんよう)媛花(えんか)貞儀(ていぎ)貞容(ていよう)貞花(ていか)の中級妃。更には、数に定めのない柔人(じゅうじん)瑠人(るじん)智人(ちじん)の下級妃だ。


 中級官僚の末娘である芙澤は、貞容として入内し、貞花であった澄蘭の母の蕙蘭(けいらん)と深い親交を持ったという。親友の没後には、澄蘭を養娘として受け入れた。

 けれどその後すぐに、第三皇子たる男児を授かり、中級妃の最上位である媛儀に昇格した養母に、澄蘭は打ち解けることが出来ず、距離を保っていた。


 確かに彼女は養い子たる澄蘭にも優しく接してくれる。必要な衣服を与え、飢えることのないよう食事を気に掛けてくれている。けれどいつも遠慮がちで、女性らしさを欠片も持たない義理の娘をどこか持て余すような空気を、澄蘭は感じてしまっていた。


 肩に力を入れ、無言を貫く澄蘭に、芙澤は悲しげに微笑んだ。身を固くする養娘から、彼女はそっと距離を取る。


「そう。……もう夜も遅い。早く床に就くのですよ」


 澄蘭にもの言いたげに視線を向け、芙澤は踵を返す。澄蘭は黙って頭を下げた。







 その背が見えなくなったと予想された頃、澄蘭はようやく身体を起こした。

 目線の先には、ぽっかりとした暗闇が広がっている。

 夜闇を渡ってきた一陣の風が、蝋燭(ろうそく)の炎を微かに揺らした。



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