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蘭花伝 ──黎明の皇女は天命に抗う──  作者: 冬生 恵
【第一章】日陰に咲く花
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八. 城下町へ(二)

 二人は再び、混雑する食料品の市場に足を踏み入れた。穏翊(おんよく)は、幾分余裕を得た澄蘭(ちょうらん)の目線の動きを敏感に察し、あちこちの店に足を向ける。

 璃領(りりょう)(ちまき)深港(じんこう)の乾燥果物、喃州(なんしゅう)の葡萄水、皇都名物の色とりどりの飴菓子。

 あちこちに寄り道をしては、穏翊は気軽に澄蘭に品々を買い与え、自身も舌鼓を打つ。歩きながら音も立てず、それらを咀嚼する上品な振る舞いに、澄蘭は密かに見惚れていた。






 気が付けば二人は、大きな屋台が密集し、ひときわ混雑した区域に居た。

 ここがこの市場の中心部なのだろう。食欲をそそる香ばしい匂いを発する鳥肉の串焼きを売る店に、二人の目線は瞬時に引き寄せられた。


「……澄蘭、今度は君が買ってみる? その小銭入れに入っている一番色の悪い銭を、私の言う枚数、出してごらん」


 思わず唾を飲み込む澄蘭の肩に、彼女の右手を放した穏翊はそのままそっと触れた。その温かな感触に唇を引き結び、澄蘭が頷くと、穏翊は励ますように微笑む。

 小銭入れを両手で握りしめながら、澄蘭は人波を掻き分ける穏翊に続いて屋台に近づいた。


「あ、あの、二本ください!」


 穏翊の助言を受けながら、何とか二人分の串焼きを購入した澄蘭は、小銭入れを慎重に懐に戻し二本の串を受け取った。

 後ろから押し寄せる人々に押され、半ば弾き出されるようにして、二人は屋台を離れる。そのまま、市場の通りに垂直に交わる細い路地の手前に流れ着く。澄蘭はようやく、大きく息を吐いた。それから達成感に目を輝かせ、そのうちの一本を穏翊に差し出す。

 受け取った穏翊はひとつ頷いた後、串に刺さった焼きたての鳥肉を口に運ぶ。義兄に(なら)った澄蘭も、湯気をたたえるその肉に恐る恐るかぶりついた。

 (ひしお)と砂糖、鳥の脂のとろけるような旨味に、思わず二人揃って顔を綻ばせる。


「うん、美味い」

「はい……っ」


 熱々の鳥肉をはふはふと噛み締めてから飲み込み、澄蘭(ちょうらん)穏翊(おんよく)と笑顔を交し合う。しかし、突如後ろから現れた何者かに背中を押され、軽い悲鳴を上げた。

 よろけた澄蘭を、穏翊が慌てて空いた手で支える。


「大丈夫!?」

「は、はい……」


 彼女たちの視線の先で、澄蘭を押し退けて市場に飛び込んだ男児は──ぼろぼろにほつれた衣の、冠礼(かんれい)まで数年を残したと思われる少年だ──、店主の隙を突き、豚の角煮を挟んだ包子(ぱおず)を二つ奪い取る。

 一瞬の出来事に唖然とする通行人を他所(よそ)に、いち早く正気を取り戻した店主の男性が、瞬く間に飛び出した。


「待ちやがれ、このクソガキ!」


 必死に逃げる男児の薄汚れた上着の首元を、大声と共に掴み上げ、上質な麻の衣をまとったその男性は、少年のこけた頬をしたたかに殴りつけた。少年は勢いよく後方に吹き飛び、慌てた見物人が横っ飛びに避ける。

 怒りをにじませた瞳で店主を睨みつける少年を、店主と、その後ろから現れた知人と思われる複数の男性が取り囲み、容赦なく殴り付けていく。


「……っ」


 血反吐を吐く少年に、思わず澄蘭は目線を背けた。道行く人々は無責任に狂喜した声音で、店主たちを(はや)し立てる。

 拳を震わせる澄蘭の肩を、穏翊はそっと抱きしめた。


「……法を破って、決められた土地から逃げ出してきた貧民(ひんみん)の子だ。ここ数年、地方で続いていた水害や干ばつにより、親が税を納められず、どうしようもなくなって皇都にやって来たんだろう」


 苦々しげなその声音に、澄蘭は表情を強張らせた。

 肩を怒らせ声を荒げる店主とともに、壮年の男性達は、必死に食糧を守ろうとする少年の頬を容赦なく張り、腹を蹴りつける。

 耐え切れず胃液を吐き出し、それでも包子を懐に抱え死守する少年に絶句する澄蘭に、穏翊は苦々しく唇を噛み締める。


「……商人たちも、生きるために必死だから。あれらを商品としてきちんと売らなければ、次に大きな災害が来れば飢えるのは彼らだ。責めることは……少なくとも私たちには出来ないよ」


 悲痛なその声音に、澄蘭は何も言えずにその場で俯いた。






 言葉に詰まる皇族の義兄妹を他所(よそ)に、その時音もなく現れた鎮巡院(ちんじゅんいん)──都市の治安維持を司る班尉(はんい)巡官(じゅんかん)の一団が、貧民の子の痩せた腕を容赦なく掴んだ。

 そのまま何事かを叫ぶ少年の口を塞ぎ、荷物でも引きずるような乱雑さで引っ立てていく。

 思わず澄蘭は手を伸ばしかけるが、


「儒の根幹たる『礼』を意識させ、国の安定をはかるためなんだ。罪を犯し、他者に害をなしたものは例外なく罰する。……父皇(ちちうえ)のお決めになったことだ」


 そう穏翊に諭され、言葉も発せず手を下ろした。


 悄然(しょうぜん)とする澄蘭を慰めるように、穏翊は澄蘭の肩を叩いた。


「先代――祖父上(おじいさま)の治世のこと、澄蘭も知っているだろう? 民の自由を重視し、国を混乱の極地に陥れ滅んだ前王朝──かの国に(なら)うように、先帝は税を減免し、民を優遇した。

……彼がもたらした混乱、それを立て直すために、どれほど父皇が奔走なさっているか、澄蘭もよく知っているだろう?」


 諭すような彼の物言いに、澄蘭は頷かざるを得なかった。





 父帝の即位前、祖父は(ぎょう)を倒して建った現在の王朝を否定するように、民の自由を第一とする前王朝の統治方法を踏襲しようと、次々に策を繰り出していた。

 混乱を恐れた地方官僚や民が、各地で大規模な反乱を起こそうとしたと、澄蘭も書物で読んで知っている。

 しかし、騒動が広まりきる前、祖父は呆気なく流行り病で息を引き取ったという。そのあとを襲った父帝は、礼の教えを重視する従来の統治方法に国の方向を転換した。


 不安定な国情の中、十二年前の父帝の即位により、騒動が鎮火したことが喜ばしいことは間違いない。

 けれどそれでも、厳格な規則に押しつぶされそうな民達の姿を目にすると、澄蘭の心は複雑は痛みを覚えた。







 市場は早くも何事もなかったように、もとの平和な喧騒を取り戻していく。肩を震わせる澄蘭(ちょうらん)はその時、うらびれた脇道の隙間から顔を覗かせる、先ほどの男児よりも幼い少年少女たちに気づいた。

 最も幼い少年が親指を加え、悲しげに俯いた瞬間、澄蘭は咄嗟に飛び出していた。


「ちょ……っ、待って!」


 声を上げる義兄を振り切り、誰もが見て見ぬふりをするその子ども達に、澄蘭は懐の飴菓子の包み紙を差し出す。


「……もし良かったら、持って帰って」


 潜めた声音で呼びかける澄蘭に、あちこち汚れた()()ぎだらけの衣を纏った男児が、ぽかんと口を開けて飴菓子と彼女を交互に見やる。しばらくそうしていたが、頷く澄蘭に、やがて垢まみれの棒切れのような指先を伸ばした男児は、恐る恐るその包みを受け取った。

 引っ立てられた先ほどの少年と同年代に見られる、同じく色褪せてすり切れた上襦(じょうじゅ)を纏った少女が現れ、険しい表情で少年の腕を引く。

 ぺこりと頭を下げ、後に続く少年を、澄蘭は無言で見送った。


 彼らを取り巻く大人達の態度が二種類に分かれることに、澄蘭は遅れて気づく。

 片方は顔を顰めて彼らを苦々しげに見る集団──貧民の少年を痛めつけた商人と同じ立場であろう者たち。しきりに貧民たちを口汚く罵っている。

 もう片方は同胞たる少年を憐れみつつ、口を挟むことを諦めた者たち──生活に窮し税を収められず、皇都に逃げ込んできたのだろう。彼らの虚ろな瞳を見やり、澄蘭は唇を噛み締めた。


(生まれた立場が違うというだけで、こんなにも……)


 慰めるように澄蘭の肩を二、三度叩いた穏翊(おんよく)に連れられ、澄蘭はその場を後にする。が、胸によぎった苦い思いは、いつまでも消えることはなかった。



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