Chapter 2 The Ripple of Error 05
「どう考えたって腹が立つわ! あいつ!」
帰り道。私たちは、もう二度と戻ることはないだろうトキワの森を後にした。次元の亀裂はすでに閉じている。いつの間にか空は暗く沈み、周囲を照らすのは街灯の明かりだけになっていた。
「まあまあ」
ユウがそうやって呑気に構えるのはいつものことだけど、納得いかないのはブラッキーの方だ。私が文句を言っても、この猫は一切言い返してこない。
「ブラッキー?」
ユウが不思議そうに視線を向けると、ブラッキーがようやく口を開いた。
「……我輩も、今回ばかりはアイ様がやりすぎたと思うにゃ。アイ様の召喚獣である我輩が言うのもなんだが……おい弟よ、次からは少しは言い返したらどうだにゃ?」
「ほら! ブラッキーだって賛成してるわよ、ユウ!」
ユウは顎に手を当てた。
「うーん……なんて言うか。アイがあそこまでやるのには、あいつなりの理由があるんだよ。……ブラッキー、お前なら分かってるんだろ?」
「……にゃう」
「いいかい、エヴァ。アイはね、たった一度のミスが命取りになるような場所にいたんだ。俺とは違う……。だからあいつは、今の俺に何ができるのかを知りたがってる。これから起きる事態への対処法を考えるためにね」
「でも……」
黙り込んだ私の頭を、ユウが優しく撫でた。
「今すぐ理解しなくてもいいよ。ただ……あいつに対して、もう少しだけ冷静になってくれると嬉しいな」
「私はいいわよ。でも、あんたこそあんな目に遭わされたっていうのに……」
「そうだね。でも結果的にどこも怪我してないし。ね!」
「……」
確かに「損傷の逆行」は私の力だけど、アイが言おうとしていたことも理解でき始めていた。……私は自分の力を、これっぽっちも理解していない。
あの時はただ「できる」と感じたからやっただけ。そんな不確かなものにずっと頼り続けるわけにはいかない。
「それでも、やっぱり腹が立つわ」
「まあね。たまには俺も一発殴ってやりたいよ」
「私が代わりに殴っておいたわよ」
「ハハハハ!」
この人……正直、笑っている顔以外ほとんど見たことがない気がする。どこまでお人好しなのよ。
それに、不確かな女神の力……。確かにそうね。こんなものに頼りきりになるなんて――。
私は足を止めた。
ユウが振り返る。
「エヴァ?」
「ユウ!」
「お、おう……」
「私、封印を解いてみるわ!」
「急だね!?」
「冷静になれって言ったのはあんたでしょ!? よく考えたら、私の力で何ができるのか試してみないことには……納得いかないじゃない!」
「そ、それはそうだけど、今ここでやるのかい!?」
ユウはきょろきょろと辺りを見回した。封印を解くところを見られるのを怖がっているのか、あるいは何らかの被害が出るのを恐れているのか。周囲に誰もいないことを確認してから、彼は問いかけた。
「それで、封印を解くって具体的にどうすればいいんだ?」
「こうするのよ!」
私はユウの襟元を掴んで無理やり屈ませると、困惑するその唇に自分の唇を重ねた。
ユウの身体が強張るのが伝わってくる。
手を離すと、ユウは一歩後ずさった。
「エ、エヴァ!?」
「なーんだ……そんな顔もできるんじゃない」
平静を装ってはいるけれど、私の心臓は今にも飛び出しそうなほど激しく脈打っている。……いきなりキスなんて、誰かが見たら恋人同士だと思うでしょうね。
ユウは耳の先まで真っ赤に染まっていた。
「何の話をしてるんだい!?」
「これが封印を解く方法よ。あんたに力を与えた女神だって、こうやってたんじゃないの!?」
「違うよ! 全然違う!」
あら……異世界へ行く人に女神がするのはこれが普通だと思ってたわ。もしかして私はあの実体のない謎の女に担がれたのかしら。
私はぷいと顔を背けた。
「も、もういいわよ! それで、スキルは使えるようになったの!?」
「ち、ちょっと待って……」
ユウがおぼつかない手つきでホログラムのウィンドウを開く。
「……ダメだ。変わってない」
「そ、そう……」
もどかしいわね。これじゃアイの言う通りじゃない。結局、私がユウの封印を解くことはできなかったということだ。
ブラッキーが眠たそうな声で言った。
「……封印の上に封印を重ねてどうするにゃ。Shining Sword が使えている時点で、すでに封印は解け始めておるのだにゃ」
以前のユウはパッシブスキルが少し使える程度だった。ということは、Shining Sword が使える今の状態こそが、封印が(一部)解かれた状態だということ?
「昨日あんなに全部使えたのは、封印が解かれた瞬間の反動で、力が暴発しすぎただけだと思うにゃ」
「だから自然に消えちゃったのね……」
デコイとの戦いの最中、ユウのスキルの多くが消失した。それがブラッキーの言わんとすることなのだろう。
「……じゃあ、アイは最初から分かってたってこと?」
ブラッキーは鼻を鳴らした。
「当たり前だにゃ。あの方はアイ様だにゃ」
だったらどうして最初からはっきり説明しないのよ。一言一言が難解で、その上鼻につくんだから。
ユウが Gate Keeper を倒して、地道にスキルを解放していくのが唯一の道なのね。でも、あと何体倒せば、ユウは元の強さに戻れるのかしら。
それに、亀裂から漏れ出した魔力の残滓も少なくない。
その間に、デコイが攻めてこなければいいけれど。
私は溜息を吐いた。
「分かったわよ……」
あいつの言うことがすべて正しいと認めるのは癪だけど。
「……疲れた。じゃあ、また明日ね。ユウ、ブラッキーも」
軽く伸びをして、二人にそう告げたときだった。
「ふんっ!」
ブラッキーがそっぽを向いた。少しは仲良くなれたと思ったのに、まだ嫌われているみたいね。
一方のユウは……さっきから板のように固まっている。
私は彼の手前で手を振ってみせた。
「ねえユウ。私の家、そこだから。もう行くわね」
「あ! あ、あぁ!」
「……何よ、その生返事?」
「いや……ただ……」 ユウは頬を掻き、どこから話せばいいのか分からないといった様子だったが、最後にはこう問いかけてきた。
「……君は、こういうこと……他の人にもよくするのかい?」
「馬鹿なこと言わないでよ!!!」
思考より先に腕が動いていた。さっきアイを引っぱたいたばかりなのに、今度はユウまで殴ることになるなんて……。でも仕方ないじゃない!「他の人にもよくする」なんて、私をどんな女だと思ってるのよ!?
ユウは頬を押さえた。
「だ、だって、君があまりに平気そうな顔をしてるから……」
「……」
私が表情を作るのが上手いのか、それともこの人が鈍感なだけなのか。私だって死ぬほど恥ずかしかったっていうのに。
私は視線を逸らした。
「よくするわけないでしょ……あんたが……初めてよ……」
自分でも聞き取れないほど小さな声だった。「あ……あんたこそ! 異世界に何年もいたんでしょ!? 誰かとキスしたことくらいあるんじゃないの!?」
「異世界だからって、アニメみたいに上手くいくわけないだろ! 俺にとっても……これが初めてだよ」
そう言われると、私は余計にどうしていいか分からなくなった。
すると、ユウが言葉を続けた。
「……俺は『勇者』だからね。強さもそうだけど、そう呼ばれ続けるうちに、周りが遠ざかっていくんだ」
彼の表情には、少しだけ寂しさが混じっていた。
「パーティーメンバーはいたけど、大体は敬意を持って接されるというか……。だから、こういうことに関しては……」
ユウが言葉を濁し、私は俯く。
「……そう。ごめんね、初めてが私で」
ユウはしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。
「ははっ、何だいそれ。謝らなきゃいけないのは俺の方だよ。エヴァに無理をさせてごめん」
「……無理なんて、してないわよ」
「ん? 今なんて言った?」
「な、何でもない! もういい! 行くわね!」
「おう! また明日な!」
ユウが満面の笑みで手を振る。
私は彼を見た……その無垢な顔と、温かな金色のオーラを。そして、私も微笑み返した。
「ええ! また明日」
歩き出した後も、顔の火照りは一向に引かなかった。
さっきのキスの感触が……まだ、唇に残っている。




