鷹司(上里)美子と九条完子
そんな想い、考えが二人共に込み上げてしまい、暫く無言で向かい、見つめ合うことになったが、そう長く続けるわけにはいかないのを、お互いに覚悟している。
何しろ完子の余命は既に旦夕に迫っていて、それこそ完子の子ども(と配偶者)全員が京都市街におり、実母が危篤に陥ったら、すぐに駆けつけられるように準備を調えていると言っても、過言では無いのだ。
本当にこれが「お迎え現象」というものなのだろう、と美子は考えざるを得なかった。
それこそ「皇軍来訪」以前から、噂、民話という形で、日本のみならず世界中で、「お迎え現象」は伝わっていることらしいが。
重病の床についている患者が、死の直前に意識を回復し、一見すると少し回復したように見えるらしい。
だが、実際はそれは最期の命の煌めきで、その後で間もなく、患者は亡くなるとか。
「お迎え現象」らしい事態が完子に起きたと聞いて、急きょ千江皇后陛下が姉のお見舞いをして、その直後に私が見舞いに来たのだ。
そして、完子の子ども達も最期の御別れの為に駆けつけつつあり、それを自分、美子が邪魔する訳には行かないのだ。
何しろ、その中にはお互いの孫もいるのだから。
そんな美子の考えを察したのか、完子は改めて言った。
「お互いの子どもが結婚するとは、最初に会った時は、お互いに本当に想わなかったわね」
「小学校の入学式で初めて会って、友達になった人と、子どもを結婚させるとは考えませんよ。更に言えば、私の孫が、完子ちゃんの孫にもなるとは」
美子は答えながら、想わず涙を溢れさせて、完子も涙を溢れさせた。
美子と鷹司信尚の間の長男の教平は、完子と九条幸家の長女の序子と結婚して、複数の子どもを儲けているのだ。
又、九条幸家と完子の間の三男、松殿道基は結果的に子どもを遺さずに、病から早世(といっても、30歳になってはいたが)したことから、松殿家をどうするのか、という問題が生じた。
松殿家の御家断絶、ということも考えられたのだが、七摂家(近衛、九条、一条、鷹司、二条、松殿、上里)体制を崩すのはどうか、という声が、公家社会の中で高かったことから。
松殿道基の死後養子として、美子の次男になる上里松一と文子内親王殿下の間の次男を、松殿基忠として迎えると言う形で、松殿家は続くことになったのだ。
こうしたことから、美子の孫である松殿基忠は、完子を養祖母としている関係になる。
更に言えば、本来の九条家の跡取り、九条幸家と完子の間の次男、九条道房も両親に先立ち、病で亡くなっている。
そうしたことから、九条道房の婿養子として、鷹司教平の子である兼晴が迎えられる事態が起きた。
そして、言うまでも無いことだが、鷹司教平は、美子の子である以上、九条兼晴は美子の孫である。
完子は改めて考えた。
近衛信尋の正妻、智子は美子ちゃんの娘で、近衛尚嗣を産み育て上げたが、1653年に尚嗣は薨去した。
だが、尚嗣の正妻は、今上(後水尾天皇)陛下と私の妹の千江皇后陛下の間の三女、女三宮殿下で、間に基熈を産み育て上げていたのだ。
つまり、七摂家の当主の内、近衛、九条、鷹司、松殿、上里という五摂家の当主が、美子ちゃんの子孫という時代が来つつあるのだ。
更に言えば、言うまでもなく皇太子殿下は、美子ちゃんの子どもでもある。
私達が初めて知り合ったとき、こんなことになるとは全く想わなかった。
ここまで子孫が繁栄して栄光に包まれた女性は、日本史どころか、世界史上に存在しただろうか。
でも、その一方、美子ちゃんの人生は、本当に幸せだったのか、と私は考えてしまう。
私は幼恋を成就させ、夫に看取って貰えそうで、幸せだったけど。
完子はそう想いつつ、まぶたを閉じた。
此れで、完結します。
(尚、御都合主義と言われそうですが、それなりに九条完子の子ども等については、史実に沿った流れに基づく描写で、それこそ揺り戻しが起きたと言われても当然の気がします)
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