夏と少女の一輪漂流記
私たちの誰もが、自分だけの地図を持っている。
生まれた場所、通い慣れた道、毎日同じ時刻にすれ違う人々。それらは地図の上に刻まれた、変わらないはずの線と点だ。私たちはその線の上を、決められた速度で、決められた方法で歩いている。退屈だと溜息をつきながら、世界の他の場所を夢見ながら。
けれど、もし。
もし、その地図の上に、全く新しい一本の線を描き足すことができるとしたら?
それは風のように速く、無重力のように静かで、ほんの少しだけ、地面から浮き上がって世界を眺めることを許してくれる線。
その線の上では、見慣れたはずの景色はどんな色を見せるだろう。聞こえなかったはずの音は、どんなメロディーを奏でるだろう。
そして、その線を引いた私たちは、昨日までの私たちと、同じままでいられるだろうか。
海風と坂道と、一輪の漂流記
序章:夏とソーダと、あやふやな約束
空気はまるで、半分溶けた水飴みたいにねっとりとしていた。
七月の風が相模湾から、ここ「汐見」という私たちの町に這い上がってくる。涼しさのかけらも運んでこないどころか、潮の香りと、焼けたアスファルトの焦げるような匂いを、この凝固した時間の中へと一層強く練り込んでいく。遠くで、電車が海岸線に沿って、長く、そして気だるげな汽笛を鳴らした。眠たい午後への、どうしようもない溜息のように。
「美咲」
夏川陽菜の声は、粘つく空気の中に放り込まれた、一個の氷のようだった。彼女は私の勉強机の向かいに突っ伏している。制服のシャツの袖は肘までまくり上げられ、日に焼けた健康的な小麦色の腕が伸びていた。重ねた腕に顎を乗せ、指先は無意識に、広げられた雑誌を叩いている。そこには電動一輪車の広告が印刷されていた。お洒落なモデルが、信じられないほど優雅な立ち姿で、片足でホイールの上に立っている。背景は未来都市のシルエットだ。
「ん?」
私は本から顔を上げた。視線が彼女を追い越すと、窓の外の空はひとかけらの雲もなく、まるで一枚の完璧な青いガラスのようだった。一羽の黒いアゲハ蝶が、その見えない壁に、無駄な体当たりを繰り返している。
「あたしたち、旅に出ようよ」と、陽菜が言った。
「うん」と、私はまた相槌を打つ。目はまだ、あの蝶の軌跡を追っていた。旅。交通の便が悪い海辺の町に住む私たち高校生にとって、それはまず長いことバスに揺られて最寄りの駅まで行き、そこからさらに何度も乗り換えて、ようやく「都会」と呼ばれる場所に辿り着くことを意味した。騒音と人混みと、冷たいガラス張りのビルで埋め尽くされた場所。
「ねぇ、美咲、聞いてる?」
陽菜はとうとう身体を起こし、ぐっと乗り出して、私の目の前で指を振ってみせた。午後の光の中、彼女の瞳は二つのきらきらした黒い小石のようで、私の少し呆けた顔を映し出していた。
「聞いてるよ」と私は言った。「旅、でしょ」
「そう、旅!」彼女は力強く頷いた。ポニーテールが、その言葉に伴奏するかのように、後頭部で揺れている。「でも、電車もバスも使わないの」
私の視線は、ようやく窓の外から戻り、彼女が指差す雑誌の上に落ちた。
「これで?」
「そう!」陽菜の顔が、太陽みたいな光を放った。私の部屋にある、長年の潮風で少し古びてしまった木の家具たちを、隅々まで照らし出すほどの眩しさだ。「電動一輪車!見てよ、『都会散策の新しい定義。最もエコな方法で、世界の隅々まで冒険しよう』だって。これってさ、汐見町のために作られたみたいじゃない?」
私は広告に載っている、流線的でハイテク感溢れるホイールと、窓の外に見える、山の上の神社へと続く、あの長い急な坂道を見比べた。私たちの町は、町というより、坂道によって繋がれた集落の集合体だ。学校へ行くのも坂、帰りも坂、たった一つのコンビニへ行くにも、「心臓破りの坂」として有名な、あのとんでもない急坂を通らなければならない。
「汐見町のために?」私は少し疑うように繰り返した。
「当たり前じゃん!」陽菜は私の疑念なんて少しも気づかず、自分の想像の世界に浸って、目をきらきらさせていた。「考えてみてよ、美咲。これに乗ってさ、『シューッ』て、朝一番に十六夜坂を滑り降りて、海辺で日の出を見るの。お昼は山頂の展望台。あそこにおばあちゃんがやってる茶屋、あるでしょ?醤油団子食べながら、町と海を全部眺めるの。午後は海岸線に沿って、西の端の廃灯台まで探検!時刻表もいらない、バスを待つ必要もない。停まりたい時に停まって、行きたい時に行く。これこそが本当の『冒険』だよ!」
陽菜が話す時、彼女は全身の力を使う。手は空中で一輪車の軌跡を描き、身体はそれに合わせて揺れ動き、声は炭酸水みたいに、しゅわしゅわと音を立てる楽しさで満ちていた。
私は彼女が描く光景に、心を奪われた。
確かに、坂道と緩やかな時間によって定義されたこの町での生活は、いつもそのリズムを受け入れるだけの、受動的なものだった。電車は一時間に一本。乗り過ごせば、ホームでただ海を眺めてぼうっとするしかない。バスの路線はもっと少ない。まるで景色の一番いい場所を、わざと避けているかのようだ。私たちはここの路地という路地を、苔むした石という石を知り尽くしている。でもその親しさは、毎日毎日歩くことで蓄積された、疲労感を伴う親しさだった。
けれど陽菜が語るのは、全く新しい可能性だった。軽やかで、自由で、まるで風のように、見慣れた風景を駆け抜けていく方法。
「でも」私は一番肝心な問題を口にした。「私たち、乗れないよ」
「練習するの!」陽菜は当たり前のように言った。「見た感じ、難しくなさそうだし。あたしみたいな運動神経抜群の天才美少女なら、たぶん一日でマスターできるよ。美咲は、えーっと……」彼女は顎に手を当てて、真剣に私を吟味している。その眼差しは、まるで骨董品の修復難易度を鑑定しているかのようだった。
「私は?」私は少し緊張して尋ねた。
「んー……美咲だったら、一日と、あと黄昏時くらい、かな?」
「……あんまり変わらない気がする」
「でしょ!」彼女は得意げに笑って、白い歯を見せた。「じゃあ、決まり!今すぐネットで、町でレンタルできる場所がないか探してみる。目標は——来週末、私たちの『第一回・一輪漂流』を決行すること!」
「漂流……」私はその言葉を口の中で転がしてみた。「旅」よりも軽やかで、目的がなくて、流れに身を任せるような、気だるい詩情があった。
陽菜はもう机に突っ伏して、スマホを取り出し、指を素早くスクリーン上で滑らせている。窓枠から差し込む光が、彼女の髪の毛のつむじあたりを、金色に縁取っていた。部屋は静かになり、彼女のスマホのかすかなタップ音と、窓の外でいつまでも続くかのように鳴り響く、蝉時雨だけが聞こえていた。
私は再び本を手に取ったけれど、一文字も頭に入ってこなかった。
私の心臓は、陽菜がさっき描いてみせた光景に、そっと指で弾かれたみたいに、微かな熱を帯びた周波数で、ゆっくりと脈打っている。私は想像し始めた。あの小さなホイールの上に立つ自分を。風が耳元を吹き抜け、スカートの裾が、後ろで柔らかい弧を描くのを。私と陽菜が、二つの自由な粒子になって、町のいつもの坂道に沿って、二本の新しくて、そして静かな軌跡を描いていくのを。
あのあやふやな約束は、こうして、夏の午後の粘ついた空気の中、ソーダ水に落とされたミントキャンディみたいに、静かに沈んで、それから抑えきれないくらい、細やかで無数の期待の泡を立て始めた。
第一章:風の練習曲と、転倒の幾何学
実を言うと、陽菜の私たちに対する学習能力の評価は、あまりにも楽観的すぎた。
というより、彼女は電動一輪車という乗り物の物理特性に対して、根本的な誤解をしていたと言うべきだろう。
結局、私たちは町でレンタルできる場所を見つけられなかった——シェアサイクルすらまだ普及していないこの場所に、そんな目新しいものを受け入れる準備が整っているはずもなかった。だが、陽菜は誰か?彼女は限定版のいちご大福を食べるためなら、一時間かけて隣町まで行くような、行動力のバケモノなのだ。たった二日後、彼女は意気揚々と、マニアックなネットのコミュニティを通じて、隣町に住む大学生から、旧モデルの一輪車を二台貸してもらえることになったと宣言した。
そうして水曜日の午後、私たちは想像していたよりも重く、不格好なそいつらを手に入れた。外装は白で、様々な種類の傷やぶつけた跡がついていて、まるで勲功著しい歴戦の古兵のようだった。
練習場所には、廃校になった汐見第二小学校の校庭を選んだ。雑草が生い茂り、コンクリートのバスケットコートにはいくつもひび割れが走っている。でも、平らで広々としているし、そして何より——絶対に誰も邪魔しに来ない。
「よしっ!美咲、見てて!」
陽菜は自分の一輪車を地面に置き、スイッチを入れた。車体は「ピッ」という軽やかな音を立て、青いバッテリー残量ランプが点灯する。同時に、内部のジャイロスコープが働き始め、「ブーン」という持続的で低い唸り声を上げた。それはまるで、鉄の箱に閉じ込められた巨大な甲虫の羽音のようで、この静かな校庭では、やけにはっきりと聞こえた。
彼女は深呼吸をして、鉄棒に掴まりながら、おそるおそる片足をペダルに乗せる。途端に、車体が落ち着きなく揺れ始めた。
「うわわっ……、動くなって、こいつ!」陽菜はまるで暴れ馬を躾けるように、全身の筋肉をこわばらせた。もう片方の足も乗せようとするが、体の重心が少しずれただけで、ホイールが猛然と前へ突き進む。
「わあっ!」
短い悲鳴。陽菜は前のめりに倒れ込んだが、幸いにも反応が早く、両手で地面を支えた。一輪車は、怒らされたコマみたいにその場でぐるぐると数回狂ったように回り、やがて「ガシャン!」という音を立てて横倒しになる。あの「ブーン」という音も、悔しがるような、途切れ途切れの悲鳴に変わった。
私は傍らで、自分の「古兵」を抱えたまま、笑うべきか、彼女を助けに行くべきか、一瞬わからなくなってしまった。
「く、くそぉ……」陽菜は膝に手をついて立ち上がり、手の土を払った。顔には信じられないという表情が浮かんでいる。「こいつ……思ったより、クセが強いな」
それからの一時間は、陽菜の個人転倒ショーと化した。
彼女はあらゆる体勢を試した。鉄棒に掴まって乗る、助走をつけて飛び乗る、その場で静止してから乗る……。だが結果はどれも、奇妙な格好で地面と熱い抱擁を交わすだけ。彼女のジャージは、あっという間に土埃と草の切れ端だらけになった。校庭には、彼女の負けず嫌いな叫び声、一輪車が倒れるガシャンという音、そして彼女が何度も転ぶ時に発する鈍い音が響き渡った。
それはまるで、「転倒の幾何学」という、まったく新しい学問のようだった。陽菜は自身の体をもって、私に数十種類もの転倒形態を見せてくれたのだ。「平沙落雁の型」や「猛虎撲食の型」など、枚挙にいとまがない。
私は少し見入ってしまい、彼女が失敗する原因を頭の中で分析し始めていた。重心が前すぎたな、膝が曲がっていなかった、体幹が足りない……。
「美咲!見てるだけじゃなくて、あんたもやってみなって!」陽菜はついに、この「傍観者」の存在に気づいた。腰に手を当て、ぜえぜえと息を切らしながら私に叫ぶ。汗で濡れた前髪が、額に張り付いていた。
「わ、私?」私は無意識に、抱えていたホイールを強く握りしめた。その冷たくて硬い感触が、訳の分からない恐怖を掻き立てる。
「当たり前でしょ!あんたの方が才能あるかもしれないじゃん!」
陽菜の期待に満ちた(そして、もしかしたら「私だけ恥ずかしい思いをするのは嫌だ」という悪意が少し混じった)視線に晒され、私は仕方なく、自分のための一輪車を地面に置いた。
スイッチを入れる。「ピッ」。そして同じ「ブーン」という音。その音は私の脳に直接突き刺さるようで、体まで微かに震えさせた。
私は陽菜のように、急いで乗ろうとはしなかった。ただ、そばの平行棒に掴まり、まず片足のつま先で、そっとペダルの端に触れてみた。
車体はすぐに、前後に揺れ動いた。
微かだけれど、無視できない力が、つま先から脚を伝い、私の体の中心まで届くのがはっきりと感じられた。それは私を試しているようで、同時に、自身の存在の仕方を教えてくれているようだった。これはただのモノじゃない。独自のバランスの理屈を持っている。
私は目を閉じた。「対抗する」んじゃなくて、「感じる」ことに集中してみる。
その重心がどこにあるのか、自分の重心はどこなのかを感じること。
風がそっと校庭を吹き抜けていく。遠くの松林の匂いと、微かな潮の香りを運んできた。雑草が風に揺れて、さわさわと音を立てる。陽菜の息遣いも、次第に落ち着いてきた。世界が、まるで私と、足元で唸るこのホイールだけになったようだった。
私はゆっくりと、少しずつ、地面についている足から、ペダルに乗せた足へと重心を移動させてみた。
一輪車が前後に揺れ始める。揺れは小さい。私は慌てなかった。その力に従うように、足首と膝で微調整を繰り返す。私の体は、精密な天秤のように、たった一つの、あの均衡点を探していた。
「ブーン……」
モーターの音が、少しだけ穏やかになった気がした。
目を開けると、なんと、片足でホイールの上に立っている自分がいた。もう片方の手はまだ平行棒を固く握りしめているけれど、体はさっきのような硬直からは解放されていた。
「おっ!おおっ!美咲、すごい!」陽菜が私の後ろで、興奮を抑えた低い声で叫んだ。
彼女の声で、せっかく集中していた精神が一瞬で散ってしまった。体がぐらりと傾き、車体はすぐに横へ倒れようとする。私は慌てて飛び降り、倒れる寸前で、なんとか足でそれを引っ掛けて止めた。
心臓が「どきどき」と鳴っている。手のひらは汗でびっしょりだ。
でも、今までにない感覚が、電流のように全身を駆け巡った。
「支配する」という感覚。
ほんの数秒だったけれど、私は確かに、この不思議な機械と一体になるあの感覚を掴んだのだ。あの、全身全霊で集中して初めて保たれる、絶妙なバランスを。
「美咲、今……どうやったの?」陽菜が近づいてきて、好奇心と不思議そうな顔で尋ねた。「なんか……そいつと、話してるみたいだった」
「話してる?」私はきょとんとした。
「うん」と彼女はホイールを指差して言った。「なんていうか、命令するんじゃなくて、『ねえ、もう前に進んでもいい?』って、訊いてるみたいだった」
どう説明すればいいのかわからなかった。私はただ、「ただ……その子の声を、聴こうとしてただけだよ」と答えるしかなかった。
「声を聴く?」陽菜は、わけがわからないという顔をしていた。
その後の練習で、私たちは戦略を変えた。無謀な征服ではなく、慎重なコミュニケーションへと。
私が平行棒に掴まり、陽菜が私の肩に掴まる。二人で、まるでシャム双生児みたいに、それぞれのホイールの上で、震えながら立ち上がった。
「よし、いち、にの、さん、前へ!」陽菜が号令をかける。
私たちは同時に、体を前に傾けた。
「ブーン!」二台の一輪車が、さっきよりも大きな唸り声を上げ、そして、ゆっくりと、前へ転がり始めた。一メートル、二メートル……。
「動いた!動いてるよ!」陽菜が興奮して大声で叫んだ。
「ゆ、揺らさないで!」私は緊張して叫び返す。彼女の興奮が、その手を通じて私の肩に伝わり、せっかく築き上げたバランスを崩していく。
「わあっ!」
何の意外性もなく、私たちはドミノ倒しのように、二人そろって横に倒れた。柔らかい草地が、最後のクッションになってくれた。
草の上に寝転がって、私たちは二人とも、笑ってしまった。
陽光が、まばらな雲の切れ間から、私たちの上に降り注ぐ。暖かくて、心地いい。汗と土と、青草の匂いが混ざり合って、この午後だけの特別な香りを作っていた。空では、数羽の水鳥が列をなして、海の方角へと飛んでいく。
私たちはすぐには起き上がらなかった。ただそうして寝転がって、空を見上げ、風の音を聴き、呼吸のたびに胸が膨らむのを感じていた。そばでは、あの白い二台の小さな相棒も、草の上に静かに横たわっている。まるで、いたずらが成功した子供たちのように。
「ねえ、美咲」陽菜が不意に、笑いを含んだ声で言った。「あたし、あんたが言ってた『声を聴く』って意味、ちょっとだけわかった気がする」
「ん?」
「転んだ時にも、声が聞こえるんだよ」と彼女は言った。「『ガシャン!』って。それは、『このバカ、また重心が違ったぞ』って言ってるんだ」
私は思わず、声を出して笑ってしまった。
「でもさ」彼女は寝返りを打って、横顔で私を見た。「二人で一緒に転んだ時の音は、『ドンッ』て一回だけ。なんだか、あんまり痛くなくなった気がする」
私は彼女の瞳を見た。その中に、青い空と、白い雲と、そして私の小さな影が映っていた。
その瞬間、ふと思った。一輪車に乗れるようになることは、たぶん、あの「漂流」をやり遂げるためだけのことじゃないんだ、と。
学ぶ過程そのものが。これらの「ガシャン!」や「ドンッ!」という音に満ちた、不格好で可笑しい瞬間が。陽菜と一緒に風を感じ、陽の光を浴び、転んでは起き上がる、その一つ一つの瞬間が。それ自体が、かけがえのない、小さな旅なのだと。
第二章:十六夜坂のそよ風と、スカートの飛行
土曜日の早朝、空は澄み切った、灰色がかった青色をしていた。
私たちは十六夜坂の頂上に立っていた。この長い坂道は、私たちの町で最も詩的な場所で、両脇には桜の木が植えられている。今は真夏だから、ただ深く濃い緑の陰が広がっているだけだけれど、それでも早朝のそよ風が木々の葉を通り抜ける時、さわさわと、まるで優しい波のような音を立てていた。
私と陽菜は、それぞれの「古兵」のそばに立っている。水曜の午後と、その後の二日間の秘密特訓を経て、私たちはどうにか直線なら走れるようになっていた。カーブや坂道の上り下りはまだ大きな課題だったけれど、そんなことは陽菜の溢れんばかりの情熱を少しも押しとどめることはできなかった。
「準備、いい?美咲」陽菜は白いキャップを被っていた。そのつばの下で、彼女の瞳は驚くほど輝いている。動きやすいショートパンツとTシャツ姿で、リュックサックには今日の補給品が詰め込まれていた。
私も同じように膨らんだリュックを背負っている。中には水、おにぎり、絆創膏、そして「途中で退屈した時のために」という言い訳で詰め込んだ文庫本が一冊。私は薄青色の木綿のロングスカートを穿いていた。これは私のささやかなこだわり。こういう「漂流」には、スカートの裾は必要不可欠な要素なのだ。
「うん」私は頷いて、深呼吸をした。空気には青草と、湿った土と、そして遠くから漂ってくる、隣の家の味噌汁の匂いが混じっていた。
私たちは、ほぼ同時にペダルに足を乗せた。
「ブーン……」
二つの低い唸り声が、静かな朝の中に響き渡る。私たちの旅の始まりを告げるファンファーレのように。私たちは顔を見合わせ、お互いの目の中に緊張と興奮が浮かんでいるのを見て取った。
「それじゃあ」陽菜は声を潜め、まるで神聖な儀式を宣言するように言った。「汐見町第一回・一輪漂流同好会、出発!」
彼女がそっと体を前に傾けると、白い一輪車は彼女を乗せて、音もなく坂道を滑り降りていった。
私はすぐその後を追った。
その瞬間、私は息を呑んだ。
下り坂の感覚は、平地とは全く違っていた。体はほとんど力を入れる必要がなく、重心をわずかに後ろへ移すだけで、絶え間なく、そして穏やかな力に背中を押されるのを感じる。世界が後ろへと流れ始めた。
風。
最初に感じたのは、風だった。
それはもう、立ち止まっている時のような優しい愛撫ではない。はっきりとした形のある、涼やかな渓流となって、私の正面から押し寄せ、頬と耳を分けて流れ、シャツの襟元に流れ込み、そして私の後ろでまた一つになる。私のスカートの裾がその気流に持ち上げられ、後ろで美しい、そして絶えず形を変える帆のように膨らんだ。風の中でばさばさと音を立てるのが聞こえる。その音は、木々の葉のさわめき、モーターの唸り声と混ざり合って、この瞬間だけの、軽やかで自由な交響曲を奏でていた。
光の粒子が舞っていた。
朝の陽光が、幾重にも重なる葉の隙間から斜めに差し込み、地面に無数の揺れ動く、砕けた光の斑点を落とす。私たちのホイールは、その光の斑点の上を滑っていく。光と影が目の前で目まぐるしく入れ替わり、まるで筋書きのない古い映画を観ているようだった。私は目を細めた。世界全体が少しぼやけて、ただ前を行く、白いTシャツを着た陽菜の後ろ姿だけが、唯一の、はっきりとした焦点だった。
彼女は安定した走りで、坂道のカーブに合わせて体をわずかに傾けている。まるで滑空する海鳥のようだった。彼女のポニーテールが風の中で跳ねて、生命のリズムに満ちていた。
彼女の後ろ姿を見ながら、私はふと奇妙な感覚に襲われた。私たちは坂道を下っているのではなく、まるで……風と光でできた川を、ゆっくりと下へ、漂っているかのようだった。
十六夜坂はそれほど長くない。数分後、坂の傾斜が緩やかになり、私たちはありふれた住宅地の路地へと滑り込んだ。
速度が落ちると、あの高揚した交響曲も、ゆったりとした室内楽へと切り替わった。モーターの唸り声がはっきりと聞こえ、車輪がアスファルトの路面を「サー」という均一な摩擦音を立てて進む。道端の家の庭から、風鈴の「チリン」という涼やかな音が聞こえ、ベランダに干された布団の、お日様の匂いがした。
エプロン姿のおばさんが、玄関先のアジサイに水をやっていた。私たちを見て、彼女は驚いて目を丸くし、持っていたジョウロを動かすのも忘れていた。
「あらあら、な、なんですって、それは?」
陽菜は慣れた様子で片足を地面につき、にこやかに、いや、少し得意げな笑みさえ浮かべて止まった。「おはようございます、鈴木さん!電動一輪車ですよ!」
「一輪車?自分で走るのかい?」鈴木さんは、珍しい動物でも見るかのように、興味津々で近づいてきた。
私も後から止まった。両足が地面に着いた瞬間、その地に足の着いた感覚に、少し慣れないものを感じた。体にはまだ、さっきまでの、ホイールの上の浮遊するような、不思議な無重力感が残っているようだった。
「ええ、電気で動くんですよ。便利でしょう?」陽菜は自分の愛車の「お尻」を軽く叩いた。
「今の若い子たちは、本当にすごいねぇ」鈴木さんは感心し、そしてまたにこにこと私たちを見た。「あんたたち、どこかへ遊びに行くのかい?」
「はい、山頂の展望台に行きます!」陽菜は私たちの目的地を隠すことなく告げた。
「おやまあ、そりゃ頑張らないとねぇ。展望台へ行くあの『猪坂』は、冗談じゃ済まないよ」鈴木さんは、意味深な笑顔を見せた。
親切な鈴木さんに別れを告げ、私たちは先へ進んだ。
私たちのホイールの下で、町がゆっくりと広がっていく。パンの香りが漂うベーカリーを通り過ぎる。店主がちょうど焼き立てのバゲットを店頭に並べているところだった。固く閉ざされた古いお寺を通り過ぎる。石段には苔が一面に生えていた。カンカンと音が鳴り響く鍛冶屋を通り過ぎる。中からじわりと熱気が伝わってくるのを感じた。
これらは全て、私たちがよく知っている日常の風景だ。しかし、地面からわずか十数センチという新しい視点で、速すぎず遅すぎない、滑らかな速度でそれらを観察すると、全てが新鮮で面白く見えた。私は、ベーカリーの看板の上で、一匹の猫が居眠りをしているのを見つけた。お寺の石灯籠の中に、小さな鳥の巣があるのを見つけた。鍛冶屋の窓に、色褪せたアイドルのポスターが貼ってあるのを見つけた。
これらの、日常の襞に隠された小さなディテールが、まるで宝物のように、私たちのこの「漂流」の途中で、一つ、また一つと掘り出されていった。
「美咲、見て!」陽菜が不意に前方を指差して叫んだ。
彼女が指差す方を見ると、私たちはもう住宅地を抜け、広々とした田園地帯に出ていた。翠色の田んぼが朝風に揺れ、緑の海のようだ。そして、その田んぼの果てに、まるで空へと続くかのように、一本の曲がりくねった坂道が、静かに私たちの目の前に横たわっていた。
あれが、鈴木さんの言っていた「猪坂」。
それは、私が想像していたよりも、ずっと険しく見えた。
太陽の光が遮るものなくその坂道に降り注ぎ、肉眼でも見えるほどの陽炎を立ち上らせている。挑戦は、まだ始まったばかりだった。
第三章:猪坂の喘ぎと、心臓の共鳴
「猪坂」という名前は、かつて猪がこの急な山道を猪突猛進したという伝説に由来するそうだ。だが、今の私たちにとっては、私たち自身の方が、その猪よりも無様だったかもしれない。
上り坂は、電動一輪車にとって絶対的な「逆属性」だ。
平地を走る時の、あの「人車一体」の颯爽とした感覚は、坂道が始まった瞬間に消え失せた。私たちは体を極限まで前に傾け、ほとんど地面と平行になるくらいまで体を倒し、同時に体幹を引き締め、太腿とお尻の力でペダルを必死に押さえつけなければならなかった。あの、絶えず私たちを後ろへ引きずり込もうとする重力に、かろうじて抵抗するために。
「グゥン……グゥン……グゥン……」
私たちの下の「古兵」は、今までで最も苦しげな呻き声を上げた。モーターの音はもう平坦な唸り声ではなく、途切れ途切れの、高負荷で回転する咆哮に変わっていた。ペダルから熱が足の裏に伝わってくるのがはっきりとわかる。まるでこの小さな機械が、私たちを上へ押し上げるために、自らの命を燃やしているかのようだった。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
私の呼吸は、速く、そして重くなった。額から汗が滲み出て、目に入り、じんと染みる。私は唇を固く噛み締め、全身の注意を、体のバランスを保つことと、あの忌々しい重力と戦うことに集中させた。
前を行く陽菜も、私と大差ないようだった。彼女の背中はもう真っ直ぐではなく、荷車を必死で引く小エビのように、固く丸まっている。Tシャツの背中は汗で完全に濡れ、肌にぴったりと張り付いて、肩甲骨の形をくっきりと浮かび上がらせていた。
周りの景色が、極端にゆっくりと流れていく。道端に咲いていた、一輪の小さな黄色いタンポポが、私の視界に三十秒近くも留まってから、ようやく苦労して後ろに追いやられた。
世界の音も変わった。風の音、鳥のさえずり、葉のさわめき……全ての外の音が、まるで分厚いガラス一枚で隔てられたかのように、遠く、そしてぼやけていく。私の耳の中には、三つの音しか残っていなかった。一輪車の苦しげな咆哮、自分自身の重い喘ぎ、そして胸の中で「ドク、ドク、ドク」と、まるで太鼓のように激しく鳴り響く心臓の音。
それは純粋な、自分自身の体との対話だった。いや、対決と言うべきか。
筋肉が悲鳴を上げ、肺が燃えている。細胞の一つ一つが私に抗議の声を上げ、「もうやめろ」と叫んでいる。
「美咲……あんた……大丈夫?」陽菜の声が前方から聞こえてきた。途切れ途切れで、明らかに震えている。
「ま……だ、いける……」私は歯の隙間から、そう言葉を絞り出した。その返事は、彼女にというより、自分自身に言い聞かせるためのものだった。
私たちはもう話さなかった。口を開くたびに、残りわずかな酸素と体力を消耗してしまうからだ。沈黙が、私たちの間で最も深いコミュニケーションになった。お互いの重い呼吸音と、同じように悲鳴を上げる二つのモーター音を通じて、相手の存在を確かめ、同じ苦しみを分かち合っていた。
どれくらい走っただろう。十分だったかもしれないし、半世紀だったかもしれない。
太腿がもうすぐ攣りそうで、視界もだんだん暗くなってきた、その時だった。陽菜の一輪車が、不意に甲高い「ピーピーピー!」という警告音を発し、そして、あの「グゥン」という咆哮が、ぷつりと止んだ。
「あ!」
陽菜の体がぐっと後ろに傾く。動力を失ったホイールは、もう彼女の体重を支えきれない。彼女は悲鳴を上げ、ふらふらと横へ倒れていった。
「陽菜!」
私はほとんど無意識に、最後の力を振り絞って、ホイールを彼女の方へ寄せ、同時に右手を伸ばした。
私の指先が、彼女の指先を、掠めた。
そして、私の一輪車も、同じ瀕死の悲鳴を上げ、動きを止めた。
私たちは二人して、まるで力を使い果たしたジャガイモの袋みたいに、道端の柔らかい草むらへと転がり落ちた。スカートもショートパンツも、一瞬で泥と緑の草の汁で汚れてしまった。
世界が、ようやく静かになった。
私たちは草の上に寝転がって、大きく、深く息をした。青草と土の匂いが混じった空気を、貪るように吸い込む。心臓はまだ狂ったように鳴っていたけれど、あの窒息しそうな感覚は、どうにか和らいでいった。
二台の一輪車も、私たちの足元で静かに横たわっている。バッテリー残量ランプは、青から警告を意味する赤に変わり、絶えず点滅していた。
バッテリーが、切れたのだ。
「はぁ……はぁ……負けた……」陽菜は仰向けに空を見上げ、腕で目を覆った。その声は、悔しさと脱力感で掠れていた。「完全に……猪に、負けた……」
私は何も言わず、ただ顔を向けて、彼女を見た。太陽の光が、彼女の腕の隙間から差し込み、顔にまだらな光の影を落としている。彼女の胸が激しく上下し、汗が首筋を伝って、襟の中へと消えていった。
私たちは、この坂道の中腹で、立ち往生してしまった。上ることも、下ることもできずに。
馬鹿馬鹿しくて、でも、なんだか笑えてくるような感情が、胸の中に広がってきた。
私たちの全ての計画——山頂の景色、おばあちゃんの茶屋の醤油団子、町全体を見下ろす壮大な光景……私たちをここまで登らせてくれた全ての美しい想像は、この瞬間、あの二回の「ピーピーピー」という警告音と共に、泡となって消えた。
「ふふっ……」私はとうとう、こらえきれずに笑い出した。
「……美咲?何笑ってんのよ?」陽菜は腕をどけて、不思議そうに私を見た。
「ううん……なんでもない」私は笑いをこらえながら、首を振った。「ただ……私たち、ちょっと……バカみたいだなって」
陽菜は一瞬きょとんとして、それから、彼女もつられて笑い出した。その笑い声は、最初は低かったが、次第に明るくなり、最後には、何の気兼ねもない、大声での笑いになった。
「ははははっ!ほんとだ!マジでバカ!世紀の大バカだよ、二人して!」
私たちの笑い声が、静かな山道に響き渡り、近くの木でうたた寝をしていたカラスを一羽、驚かせた。カラスは「カー、カー」と鳴きながら、羽ばたいて、さらに高い空へと飛んでいった。
しばらく笑い続けて、私たちはようやく落ち着いた。
「どうする?」陽菜は尋ねた。その口調にはもうさっきまでの落胆はなく、一種の、やけっぱちのような潔さだけがあった。「これで、正真正銘の『漂流』だね。流れに任せた結果、中腹で座礁しちゃった」
私はリュックから水筒を取り出し、蓋を開けて、彼女に差し出した。「まず、水分補給しよ」
陽菜はそれを受け取って、ごくごくと何口も飲んだ。それから水筒を私に返し、私も数口飲んだ。冷たい水が喉を滑り落ち、灼熱と疲労の一部を運び去ってくれた。
「少し休んだら……押してこっか」と私は言った。
「押すの?」陽菜は目を丸くした。「こいつら、死ぬほど重いんだよ!」
「ここに捨ててくわけにもいかないでしょ?」私は二人の「功労者」を見た。その外装には泥がこびりつき、さらにみすぼらしくなっている。「それに、見てよ」
私は私たちが来た方向を指差した。ここから、山麓のあの田園風景と、さらに遠くに、銀色の線のような海岸線が、ぼんやりと見えた。
「もう、こんなに高くまでのぼってきたんだよ」と私は言った。
陽菜は私が指差す方を見て、しばらく黙っていた。
「……それも、そっか」彼女は再び起き上がり、服についた草を払った。「あと少しだったんだもんね。今ここで諦めたら、なんか、自分でも自分のこと、嫌いになりそう」
彼女は立ち上がり、私に手を差し伸べた。
「行こう、美咲。最後の戦いだよ」
私は彼女の手を握り、その力も借りて、立ち上がった。両足は鉛を詰められたように重く、動かすたびに、筋肉が抗議の悲鳴を上げた。
私たちはそれぞれの一輪車を支え起こし、電源を切った。小さな相棒たちは、その瞬間、ただ重くて不格好なプラスチックと金属の塊に変わった。
私たちはそいつらを押しながら、一歩、また一歩と、坂の頂上を目指して歩き始めた。
モーターの助けがなければ、一歩一歩が信じられないほど辛い。車輪が、ざらついたアスファルトの上を「ゴト、ゴト」と、歯が浮くような音を立てて転がっていく。
私の喘ぎ声と、陽菜の喘ぎ声が、再び一つに重なった。
でも今度は、さっきとは全く感覚が違った。
さっきは、人と機械、人と重力との対決だった。でも今は、私たち二人が、互いに支え合い、一つの目に見える目標に、共に立ち向かっている。
「陽菜」私は不意に口を開いた。「陽菜の心臓の音、さっき聞こえたんだ」
「え?」彼女は振り返った。顔が少し赤い。疲れているのか、それとも照れているのか。「き、聞こえたの?」
「うん」私は頷いた。「私の隣で、『ドク、ドク、ドク』って。すごく速くて。私のと、ほとんど同じリズムだった」
陽菜は何も言わず、ただ黙って前を向き直し、また車体を押していく。でも、彼女の耳が、熟したサクランボみたいに真っ赤になっているのが、私には見えた。
私たちはもう話さなかった。
ただ、「ゴト、ゴト」という車輪の音と、まるで共鳴するかのような、私たち二人の心臓の音だけが、この「猪坂」の、最後の、そして最も長い道のりを、共に歩んでくれた。
第四章:雲の上のランチと、風の味
ようやく車体を押しながら、展望台の平らな地面に足を踏み入れた時、私はまるで天国に辿り着いたかのような気がした。
両足はもう感覚がなく、ただ本能だけで機械的に動いていた。私は手を放し、あの重い荷物をそばの手すりにもたれかけさせると、そのままその場に座り込んだ。冷たい手すりに背を預け、もう指一本動かせなかった。
陽菜は私よりもっと派手だった。彼女は展望台の中央にある木の床に、直接「大」の字になって寝転がって、ぴくりとも動かない。まるで干物になった魚のようだった。
「わ、私……見えた……三途の川が……」彼女は力なく呻いた。
私は彼女に返事をする気力もなく、ただ目を閉じて、死闘の後の静けさを感じていた。
風。
山頂の風は、麓とは全く違った。より強く、そしてより純粋で、高い場所特有の、清冽な涼やかさを帯びている。私たちの全身の疲労と火照りを吹き飛ばしてくれた。それは私のロングスカートを揺らし、陽菜のTシャツを揺らし、そして私たちの耳元の雑多な音を全て運び去っていった。世界にはただ「ヒュー、ヒュー」という風の音だけが残る。まるで、地球自身の呼吸のようだった。
長い時間が経って、私たちはようやく少し回復した。
私は目を開け、前方を見た。
その瞬間、私は、今までの全ての苦労が、報われたと思った。
私たちの目の前には、言葉では到底言い表せない、壮麗な絵巻物が広がっていたのだ。
汐見町の全てが、まるで精巧なミニチュア模型のように、静かに私たちの足元に横たわっている。私たちがさっきまで格闘していたあの坂道は、今や模型の上に描かれた、蜿蜒とする淡い色の模様にしか見えない。赤い屋根、緑の田んぼ、点々と散らばる家々が、この壮大な景色の中に収まっていた。
さらにその向こうには、果てしない大海原。
空と海が、遥か彼方の地平線で一つに溶け合い、夢のような、グラデーションの青色を呈している。太陽の光が惜しげもなく海面に降り注ぎ、億千万の煌めくダイヤモンドとなって砕けていた。一艘の白いフェリーが、長い航跡を引きながら、そのダイヤモンドの海の中を、ゆっくりと進んでいく。
「わぁ……」
地面に寝転がっていた陽菜が、いつの間にか頭をもたげていた。彼女の口はわずかに開き、その瞳には、空と海の全てが映り込んでいた。
私たちは二人とも見とれていた。時間を忘れ、疲れを忘れ、隅に追いやった、バッテリー切れの「古兵」たちのことさえ忘れて。
「ねえ……美咲……」ずいぶん経ってから、陽菜がぽつりと言った。「私たち……なんか、飛んでるみたい」
「うん」私は静かに応えた。「雲の上に、飛んできたみたい」
私たちはまたしばらく黙って景色を眺めていたが、やがてお腹の「ぐー」という音が、私たちをこの壮大な光景から現実に引き戻した。
私たちは顔を見合わせて、笑った。
「ご飯にしよう!」陽菜はひょいと地面から起き上がり、自分のリュックのそばへ走っていった。
私たちは展望台の隅にある木製のベンチを選んで座った。陽菜は宝物でも見せるかのように、自分のリュックから、可愛い布巾に包まれた大きなお弁当箱を取り出した。
「ジャジャーン!見て!母さん特製の『汐見町漂流応援弁当』だよ!」
お弁当箱を開けると、温かく、美味しそうな香りがふわりと広がった。中には、様々な種類の可愛い食べ物が、きちんと並べられている。小さなウサギの形に握られたおにぎり。ウサギの目は黒ゴマでできている。分厚い、黄金色の卵焼きは、甘い香りを放っていた。タコの形に切られた赤いウインナーは、滑稽で可愛い。そして、ミニトマトとブロッコリーでできた、色鮮やかな付け合わせ。
「すごい……」私は心から感嘆した。
「当然でしょ!今日の旅のために、わざわざ母さんにお願いしたんだから!」陽菜は得意げに胸を張った。それからリュックから保温ポットを取り出す。「あとこれ、キンキンに冷えた麦茶!」
私も自分のリュックから、用意してきたおにぎりを取り出した。陽菜のお母さんの豪華なお弁当と比べると、私のおにぎりは随分と質素に見える。ただの三角形で、中には私の好きな梅干しと鮭が入っているだけだ。
私たちは食べ物を全部ベンチの上に広げた。遅くなってしまったけれど、この上なく豪華な昼食が、この雲の上の展望台で、始まった。
「「いただきます」」
私たちは両手を合わせ、静かに言った。
私はまず、ウサギのおにぎりを一つ手に取って、一口食べた。ご飯の握り具合が絶妙で、固すぎず、柔らかすぎず、お米の甘さとおかかの風味が口の中に広がっていく。美味しい。
陽菜は私の鮭おにぎりを一つ箸でつまんで、口いっぱいに頬張った。頬が、食料を溜め込むハムスターみたいにぷっくりと膨らんでいる。
「んー……おいひい!美咲の作るおにぎりって、なんか冷静な味がする!」
「冷静な味?」どういう形容だろう。
「なんていうか……すごくさっぱりしてて、信頼できる感じ!母さんのとは違う。母さんのは情熱的すぎて、一個食べただけで愛を詰め込まれた気分になる」
彼女のお母さんが作った卵焼きを一口食べてみた。甘くて、ふわふわで、出汁の旨みがじゅわっと滲み出てくる。確かに、これは「愛」に満ちた味だ。
私たちは食べながら、とりとめのない話をした。
「あー、あのおばあちゃんの茶屋、やっぱり閉まってるね」陽菜は展望台のもう一方の端にある、「休業中」という札が掛かった小さな小屋を指差して、残念そうに言った。
「うん、平日だもんね」
「醤油団子……私の醤油団子……」彼女は悲鳴を上げた。
「また今度食べに来ようよ」と私は慰めた。
「それもそっか」彼女はすぐに立ち直った。「次は、絶対もっとバッテリー容量のあるやつに交換してこないと!」
風が私たちのそばを吹き抜けていく。私たちの話し声を乗せて、遠くへと運んでいくようだった。
私は少しずつおにぎりを食べながら、視線はずっと目の前の景色から離さなかった。この角度から見ると、私たちが今朝滑り降りてきた十六夜坂は、模型の上についた、目立たない一本の傷のようだ。そして、私たちをあれだけ苦しめた猪坂も、ただ、ここまで続く蜿蜒とした曲線にしか見えない。
全てが、小さくなった。
あの苦労も、あの喘ぎも、燃えるようだった筋肉の痛みも、こんなに開けた景色の前では、なんて些細なことだろう。残っているのは、ただ巨大な、満たされた達成感だけだった。
私たちは、自分たちの両足と、あの頼りない二人の相棒だけで、この、風と雲だけが知っている場所に、辿り着いたのだ。
「美咲」陽菜が不意に私の腕を突いた。「あれ見て」
彼女が指差したのは、私たちの右下の方だった。そこには、海岸線に沿って延びる道路があり、一台の赤い、小さな電車が、線路に沿ってゆっくりと走っている。ここから見ると、それはまるでマッチ箱のおもちゃのようだった。
「いつも私たちが乗ってる電車だね」と私は言った。
「うん」陽菜は頷いた。「いつもはさ、私たちはあの小さな箱の中で、ここの山を見てる。今日は、私たちは山の上で、あの小さな箱を見てるんだね」
私は彼女が言いたいことがわかった。
私たちはただ、世界を見る角度を少し変えただけ。それだけで、世界は、全く違うものに見えるのだ。
昼食が終わり、陽菜は満足そうにげっぷをした。私たちはゴミを全部片付けて、袋に入れる。
「よし、エネルギー補充完了!」彼女は立ち上がって、大きく伸びをした。「次は、楽しい下山の時間だ!」
「楽しい?」私は、まだ赤いランプを点滅させている二台の一輪車を見て、疑いの目を向けた。
「もちろん楽しいよ!」陽菜は手すりのそばまで歩いていくと、両腕を広げ、目を閉じて、山頂の風を感じている。「考えてみてよ、美咲。ホイールの上に座って、そのまま転がして降りるの!それってつまり……無動力漂流じゃない!」
私は、風でぱんぱんに膨らんだ彼女のTシャツと、その顔に浮かんだ、怖いもの知らずの、馬鹿みたいな笑顔を見た。
まあいいか、無動力漂流。
なんだか……それも、面白そうだ。
第五章:無動力漂流と、黄昏の染料
「さん、に、いち、出発!」
陽菜の号令と同時に、私たちはほぼ同時に、それぞれのホイールの上にお尻をどすんと乗せた。
それは、非常に行儀が悪いけれど、意外と安定した姿勢だった。私たちは折りたたまれたペダルの上に足を置き、両手で車体の両側を支え、体の重心を極端に低くした。
そして、私たちはブレーキを——つまり、自分たちの足を、地面から離した。
「うわあああああーーっ!」
陽菜の絶叫が、私たちが落下し始めた瞬間と、完璧にシンクロした。
無動力での下り坂は、朝、電力で坂を上ったのとは、全く違う体験だった。重力は、私たちの最大の敵から、最も親しい味方へと変わっていた。
速度は、私たちが想像していたよりも、ずっと速かった。
車輪はアスファルトの上を高速で転がり、「ゴォーッ」という、まるで風洞実験のような音を立てる。風が、再び主役になった。それは狂ったように私たちの服の中に流れ込み、顔を叩きつけ、髪の毛を、乱舞する海藻のように掻き乱した。
「美咲!スカート!スカートが飛んでっちゃう!」前を行く陽菜が、風に断ち切られながら大声で叫んだ。
私は下を見た。私のロングスカートは、風に完全にめくり上げられ、まるで広げられた薄青色のパラシュートのようだ。私は片手で必死にそれを押さえつけ、もう片方の手で方向を操作し続けた。
「は、速い!ぶつかる!」
急なカーブでガードレールを飛び出しそうになり、私は慌てて足の裏を地面で擦り、「人間ブレーキ」をかけた。靴底と地面が激しく摩擦し、「ズザーッ」という耳障りな音と、焦げたゴムの匂いを立てる。
どうにか、危機一髪で曲がりきることができた。
一方、前方の陽菜は、彼女の抜群の運動神経を発揮していた。まるでプロのそり選手のように、体の傾きと足の微調整だけで、次から次へとカーブを滑らかに抜けていく。口からは「やっほー!」という、意味不明の歓声を上げていた。
私たちをあれだけ苦しめた猪坂は、今や天然の、スリリングな滑り台と化していた。
朝には見過ごしていた風景が、高速での落下の中、ぼやけた、流れる色の塊に変わっていく。緑は木、茶色は土、青は空。世界全体が、まるで勢いよく揺さぶられた印象派の絵画のようだった。
私はもう速度を制御しようとせず、陽菜の真似をして、体を完全に重力と風に委ねてみた。
私は、目を閉じた。
聴覚、嗅覚、触覚が、この瞬間、無限に増幅される。
風が耳元で唸るのが聞こえる。まるで無数の精霊が叫んでいるようだ。空気中の草木の匂いが、高速移動の中で、一枚一枚の破片に切り裂かれていくのを感じる。路面の揺れがもたらす振動が、ホイールから私の体へ、そして歯まで伝わってくるのを感じる。
それは純粋で、野性的で、ほとんど「自我」が速度と風の中に溶けてしまいそうな体験だった。
どれくらい経っただろう。傾斜がようやく緩やかになり、速度もだんだん落ちてきた時、私は再び目を開けた。
私たちは、もう山麓のあの田園地帯に戻っていた。
私は足で車体を止め、長いため息をついた。心臓はまだ激しく鳴り、アドレナリンがもたらす興奮で、指先が微かに痺れている。
陽菜はとっくに私の前で止まっていた。ホイールに座ったまま、こちらを振り返っている。その顔は、興奮と疲労と満足感が混じった、きらきらとした表情だった。彼女の髪は風でめちゃくちゃに乱れていて、まるで嵐を経験したばかりの鳥の巣のようだった。
「は……はは……」私たちはお互いの無様な姿を見て、どちらからともなく笑い出した。
「い、生きてる……」陽菜は息を切らしながら言った。
「うん、生きてるね」
私たちはすぐには立ち上がらず、そのままホイールに座って、目の前の田んぼを眺めていた。
時間は、いつの間にか黄昏時を迎えていた。
太陽がゆっくりと西の山々に沈んでいき、空は暖かい、オレンジ色の光で染め上げられている。雲は金の縁取りをされ、田んぼの稲穂も、その光で柔らかな金色に輝いていた。
世界全体が、この黄昏の染料に浸されて、優しく、そして静かだった。
遠くの住宅街に、ぽつぽつと明かりが灯り始める。ねぐらへ帰る鳥たちが、私たちの頭上を、影絵のように横切っていった。
私たちは車体を押しながら、ゆっくりと畦道を歩いた。
一日中動き回って、私たちの体力はもう尽きていた。話す気力さえなかった。でも、その沈黙は気まずいものではなかった。私たちはただ並んで歩き、お互いの足音と呼吸の音を聞き、この静かな、私たち二人だけの黄昏時を感じていた。
「美咲」ずいぶん歩いてから、陽菜が不意に、とても静かな声で言った。「今日、ありがとね」
「何が?」私は少し不思議に思った。
「全部」と彼女は言った。「もし美咲がいなかったら、あたし、猪坂の最初のカーブで、もう諦めてたかも。もし美咲が一緒に車体を押してくれなかったら、あたし、本当にあいつを中腹に捨ててたかもしれない」
彼女は立ち止まり、振り返って、真剣に私を見た。
「それに、もし美咲がいなかったら、あたし、私たちの町が、こんなに綺麗だってこと、きっと気づかなかった」
彼女の瞳の中に、オレンジ色の夕焼けが映っていた。まるで、二つの小さな、暖かい炎が燃えているかのようだった。
私の頬が、少し熱くなるのを感じた。
「私の方こそ……ありがとうって言うべきだよ」私は俯いて、泥だらけの自分の靴先を見た。「もし陽菜がいなかったら、私、『出発しよう』なんて、思いつきもしなかった。たぶん、ずっと部屋の中で、窓の外の蝶を見ながら、本の中の誰かの物語を読んでたと思う」
陽菜が、私を、あの静かな、本と想像だけの世界から、引っ張り出してくれたのだ。
彼女が、私に、自分の体で風を感じ、陽の光を浴び、心臓の鼓動と喘ぎの一つ一つを感じさせてくれたのだ。
彼女が、私に、転ぶことだって、こんなに面白いことなんだと、教えてくれたのだ。
「私たち、最高のパートナーだね」陽菜は不意に笑い出し、自分の右手の小指を差し出した。
私は一瞬呆気にとられ、それから、私も小指を差し出して、彼女の指と絡めた。
「うん」私は、強く、頷いた。
夕陽の最後の名残が、私たち二人の影を、畦道の上に、とても、とても長く伸ばしていた。
終章:ソーダと軌跡と、次の約束
私たちは結局、まっすぐ家には帰らず、車体を押して、海辺までやって来た。
黄昏時はもう終わりに近づき、空はオレンジ色から、次第に深く、紫がかった青色へと移り変わっていた。海面には、ほんの少しだけ金色の名残が、波に合わせて静かに揺れている。
波の音が、寄せては返し、「ざあ……、ざあ……」と、この世界の優しい呼吸のように聞こえた。
私たちは防波堤の上に座り、あの二人の「古兵」を傍らに立てかけた。
「あー……疲れた……」陽菜はコンクリートの上に、まるで打ち上げられたヒトデのように、全身の力を抜いて寝転がった。
私も、体の関節という関節が、抗議の悲鳴を上げているのを感じていた。でも、気分は、今までにないほど穏やかで、満たされていた。
「何か、飲むもの買ってくる」と私は言った。
少し離れた場所に、一台の自動販売機が、夕闇の中で、孤独で、そして暖かい光を放っている。私たちの町の海岸線にある、たった一台の自動販売機だ。
私は自販機の前まで歩いていき、硬貨を入れた。少しだけ迷ってから、私は冷たいレモンソーダのボタンを二回押した。
「ガコン、ガコン」
二本の冷たい缶が、取り出し口に落ちてきた。
私はソーダを持って帰り、陽菜に一本手渡した。彼女はそれを受け取ると、すぐに自分の頬に押し当てた。
「あー……生き返るー……」彼女は気持ちよさそうな呻き声を上げた。
私も彼女の真似をして、冷たい缶を頬に当ててみた。その冷たさが、一瞬で皮膚に浸透し、残っていた火照りと疲れを運び去ってくれた。
私たちは、プシュッ、という軽快な音を立てて、プルタブを開けた。
一口飲むと、無数の細かく、レモンの甘酸っぱい味がする泡が、舌の上で弾けた。その刺激的で爽やかな感覚が、一瞬で全身に広がっていく。
私たちは誰も何も話さず、ただ静かにソーダを飲みながら、空の色が少しずつ暗くなっていくのを眺めていた。
宵の明星が、ビロードのような夜空に、静かに輝き始めた。
「ねえ、美咲」陽菜が不意に言った。「私たち、今日、どんな軌跡を残したんだろ?」
「軌跡?」
「うん」彼女は、私たちが来た道を指差した。「一輪車に乗って、十六夜坂を滑り降りて、猪坂を上って、また山頂から転がり落ちて、ここまで来た。あの道には、きっと私たちのタイヤの跡が残ってるよね?」
私は、あの、肉眼ではほとんど見えない細いタイヤの跡を想像してみた。
それは、朝の薄霧を抜け、木漏れ日が降り注ぐ林道を蜿蜒と伸びていく。それは、険しい坂道に、もがき苦しんだ、深い痕跡を残す。それは、黄昏の畦道で、夕陽に金色に染められる。そして最後に、それは、夜の闇に包まれたこの砂浜の前で、消えていく。
それは、私たち自身だけが知っている、汗と、喘ぎと、笑い声と、絶叫で描かれた、世界でたった一つの軌跡だ。
「きっと……めちゃくちゃで、ぐにゃぐにゃな軌跡だよ」と私は言った。
「ははっ、絶対そうだ!」陽菜は大声で笑った。「もしかしたら、あちこちに、転んだ時の人型の跡もついてるかもね!」
私たちはまた、自分たちの無様な姿を思い出して、笑ってしまった。
「でもさ」笑い終えた後、陽菜は真剣な顔で言った。「あたしは思うんだ。あれがきっと、この町で一番、格好いい軌跡だって」
私は彼女を見て、何も言い返さなかった。
最後の一口を飲み干し、私たちは立ち上がって、家に帰る準備をした。
夜の海風は、もう少しだけ涼やかさを帯びていた。私はスカートの裾を少し引っ張った。
「陽菜」
「ん?」
「次、どこに漂流しに行く?」
私の問いを聞いて、陽菜の瞳が、一瞬で輝いた。その光は、空の宵の明星よりも、ずっと眩しかった。
「んーっとね、考えてるんだけど!」彼女は顎に手を当て、考えるポーズをした。「西のあの廃灯台、まだ行ってないし!北の、カッパが出るって噂の湖も!あ、そうだ、フェリーに乗って、向こうの島に行くのもいいな!私たちの『古兵』も一緒に連れてさ!」
彼女はまた、初めての時みたいに、意気揚々と、次々と新しい冒険の計画を立て始めた。
私は静かにそれを聞きながら、口元が自然に綻んでいくのを感じた。
私は傷だらけの一輪車を押して、彼女と並んで帰り道を歩く。街灯が、私たちの影を長く伸ばし、そしてまた縮める。
今日の私たちの軌跡は、すぐに風に、雨に、そして時間に流されて、跡形もなく消えてしまうだろうと、私は知っていた。
でも、それでいい。
だって、あの軌跡は、もう深く、私の心に刻み込まれているから。
あの、夏の朝から始まって、風と光を抜け、坂道と喘ぎを越え、そして最後にこの星空の海辺に辿り着いた、軌跡。
「私たち」という名前の、軌跡が。
明日、太陽が昇ったら、私たちはまた、新しい、世界でたった一つの軌跡を、描き始めるのだろう。
後日談その一:モノの反響——《傷跡、地図、そして補償》
一、靴の囁き
一週間後の夕暮れ時、夕陽がまるで溶かした杏子ジャムみたいに、汐見町の家という家をねっとりと塗りたくっていた。潮風が日中の名残りの暖かさを運び、半開きだった私の部屋の窓をそっと押し開ける。遠くで微かに聞こえる潮騒と、庭にある古い楠の葉が擦れ合う、さわさわという音がした。
私は床に座り込み、隅に積まれた雑多なものを片付けていた。何冊か開かれたままの文庫本、散らかった原稿用紙、それから色鉛筆でいっぱいのブリキの箱。私の視線は不意に、段ボールの縁に無造作に突っ込まれていた古いキャンバスシューズを捉えた。
もう何年も履いている白いスニーカーだ。数えきれないくらい走ったり跳んだりしたせいで、つま先はもう洗っても落ちない汚れが染み付いている。そして今、まだ綺麗だったはずのその側面に、新しくて、些細だけれど、はっきりと目に付く数本の傷跡があった。
私はまるで何かに導かれるように指を伸ばし、そのざらついた印をそっと撫でた。傷は深くなく、むしろ細かく、まるで粗い砂利に不意にキスされたかのようだ。だが、私の思考はその微かな感触に引かれるように、一瞬で数日前の、あの絶望的なほど険しい「猪坂」へと引き戻された。
汗でシャツが張り付く粘つく感覚、一本一本の足が千鈞の重荷を背負ったかのような重さ、そして耳元で響いていた、一輪車のモーターが発する瀕死の咆哮が、潮のように記憶へと押し寄せてくる。この靴もまた、あのアスファルトの上を必死に擦り、靴底のゴムで重力に抗い、あの僅かな、上へとのぼる可能性を掴もうとしていたのだ。そしてついに、一輪車のバッテリーが切れ、私たちが二つの転がる石ころみたいに道端に倒れ込んだ時、これらもきっと、地面との最も直接的な衝撃を受け止めたのだろう。
私の視線は、自分の膝に落ちた。あの小さな擦り傷は、もう薄茶色のかさぶたになっていて、最初のようなひりひりとした痛みはない。指の腹でそっと触れてみると、新生を意味する微かなかゆみが伝わってきて、あの決して優雅ではなかった「着陸」を私に思い出させた。
これらのモノたち、これらの身体の上の小さな印は、まるで、あの「一輪漂流」が残した囁きのようだった。それらは声もなく、当時の苦労と無様さを語りかけてくる。だが同時に、私たちがついに山頂に辿り着いた喜びと、あの肩を並べて戦った、不器用で、そして真摯な友情の証人でもあった。
部屋はしんと静まり返り、ただ窓の外で、名も知らぬ虫の音が、夜の帳が下りていく空気の中を伸びやかに漂っていた。私はそっと溜息をつき、埃まみれのその靴を手に取ると、袖口で丁寧に泥を拭った。あの傷跡は、まるで旅人が得た勲章のように、私によって大切に残されることになった。
二、紙の上の足跡
私が靴を眺めてぼうっとしていると、部屋のドアが「バン!」という音を立てて開け放たれ、夏の熱気と少女の活気が混じった匂いが飛び込んできた。
「美咲ー!」
陽菜だった。まるで一陣の風のように、部屋に駆け込んできた。彼女は、あのいつもパンパンに膨らんだキャンバスバッグを背負い、子供のような、興奮した、そしてどこか神秘的な表情を浮かべていた。
「今日あたしが何を持ってきたか、当ててみて!」彼女はバッグを体の前に回し、ジッパーを開ける。
私はまた何か目新しいアウトドアグッズか、限定味のお菓子でも取り出すのだろうと思った。だが、彼女がバッグから引き出したのは、輪ゴムで束ねられた、分厚い紙のロールだった。
彼女は輪ゴムを解き、その紙のロールを「バサッ」という音を立てて床に広げた。それは文房具屋で買ってきたばかりの、真新しい汐見町の大きな地図だった。紙特有の、いい匂いのインクが、太陽の香りと混じり合って、部屋の中に広がっていく。
「美咲、この間の道、描いてみようよ!」彼女は床に突っ伏し、手のひらで丸まった地図の端を平らにしながら、目をきらきらさせて私を見た。まるで、全く新しい、もっと盛大な冒険を提案しているかのようだった。
描いてみる。
その提案は、私の静かな心に投げ込まれた小石のように、優しい波紋を広げた。
私は手に持っていた靴を置き、彼女の隣に同じように突っ伏した。床のひんやりとした感触が、薄い夏服を通して肌に伝わってきて、心地いい。夕陽の光が窓から斜めに差し込み、床と地図の上に、私たち二人の影を落としていた。
「うん」私は静かに頷いた。
陽菜はペンケースから、黒い太字のマーカーを一本取り出し、小気味いい音を立ててキャップを外した。
「よーし!まずは出発地点、十六夜坂のてっぺんから……」彼女はそう言いながら、その太いペンで、地図の上に、一切の迷いのない、力強い黒い線を描いていく。「そんで『シューッ』て滑り降りて、商店街を抜けて……」彼女の線は地図の上を舞い、スピード感に溢れ、私たちのあの日のルートを正確に再現していった。
「猪坂」に差し掛かった時、彼女のペン先は明らかに一瞬止まり、線もまた、曲がりくねり、そして遅くなった。まるで、そのペン自身も当時の困難を感じ取っているかのようだ。「ここ……あたしの魂が抜けかけた場所……」彼女はそう呟いて、線の隣に、小さな、煙を吹いている火山のマークを描き足した。
私は彼女の、その個性あふれる描き方を見て、思わず笑ってしまった。私は自分のブリキの箱から、鋭く削った色鉛筆を取り出した。
「陽菜、ここ」私は十六夜坂の、あのまっすぐな線を指差した。「ちょっと貸して」
私は空色の色鉛筆で、彼女の黒い線の隣に、そっと、何重もの螺旋状の、柔らかな線を描き足した。まるで、風に舞い上がったスカートの裾のように。
「おおっ!そうそう!そんな感じ!」陽菜ははっとしたように言った。
それから、私は灰色の鉛筆に持ち替え、「猪坂」の歪んだ黒い線の隣に、小さな、泣きそうな顔の絵文字を描いた。さらにその横に、赤い光を点滅させている、空っぽのバッテリーのアイコンを付け加えた。
陽菜は私の絵を見て、体を反らして笑い、床を叩いた。
私たちの共同作業は、こうして始まった。
陽菜が黒いペンで「骨格」を、つまり、行動と事実の軌跡を描き出し、そして私が、色鉛筆で、その骨格に「血肉」を、つまり、感情と記憶のディテールを付け加えていく。
鈴木のおばさんに出会った場所に、私たちは小さな、紫陽花の花を描いた。山頂の展望台には、寄り添って、おにぎりを食べている二人の小さな人間を描き、そのそばに、風に流れる雲を一片添えた。高速で滑り降りたあの山道には、陽菜がスピードを表す放射線を何本も描き、そして私は、その隣に、舞い散る数枚の、赤い楓の葉を描いた——季節は違うけれど、それは、あの時の私の胸の中の、燃えるような感覚を表していた。
最後に、線は海辺の防波堤へと辿り着いた。私はそこに、小さな、黄色い光を放つ自動販売機と、その隣に、二つの小さな、泡が立ち上るソーダの瓶を描いた。
私たちは床に突っ伏したまま、この、私たちによってびっしりと描き込まれた地図を、長いこと見つめていた。
それはもう、ただの、地名と道路が記された紙ではなかった。それは私たちの物語の本であり、私たちの航海図になっていた。あの歪んだ線の一本一本、幼稚で可笑しい落書きの一つ一つが、どんな言葉よりも生き生きと、あの、世界でたった一日の出来事を記録していた。
私たちが残した軌跡は、もう、雨風に消されるような、儚い印ではなくなった。それはここに固定され、この、触れることができ、何度も味わい返すことができる、私たち二人だけの宝物へと、物化されたのだ。
三、遅れてきた補償
「できたー!」陽菜は満足そうに最後の一筆を終えると、ペンを放り出し、畳の上をごろりと一回転した。「なんか、もう一回旅した気分だね!」
「うん」私は頷き、指でそっと、地図の上に描かれた展望台を撫でた。だが、心の中には、まだ微かな、見過ごせないほどの後悔がよぎっていた。あの固く閉ざされた茶屋の木の扉と、その時の陽菜の、渇望するような眼差しが、まだはっきりと脳裏に焼き付いている。
その時だった。陽菜は、何か大事なことを思い出したかのように、床からぱっと起き上がった。
「あ!そうだそうだ、忘れてた!」
彼女は慌てて自分のバッグのそばに這って行き、しばらく中を探ってから、慎重に、一枚のクラフト紙の袋を取り出した。
紙袋は、まだほんのりと温かかった。醤油の香ばしさと、米粉の甘くてもちもちした匂いが混じり合った香りが、袋の口から漂ってきて、一瞬で私の嗅覚を掴んだ。
私の心臓が、そっと、跳ねた。
「ジャジャーン!」陽菜は宝物でも見せるかのように、その紙袋を私の目の前に差し出した。その顔には、「早く褒めてよ」という気持ちと、少しばかりの照れ臭さが混じっていた。
私が紙袋を受け取って中を覗くと、竹串に刺さった、きらきらと光る醤油が塗られた二本の団子が、静かにその中に横たわっていた。その表面には、焼かれたことによる微かな焦げ目がついていて、素朴だけれど、たまらなく魅力的だった。
「みたらし団子……」私はそっと、その名前を口にした。
「うん!」陽菜は力強く頷いた。「今日のお昼過ぎに母さんに頼まれて、バスで役場までお使いに行ったの。その帰り、バスがちょうど山頂のあの道を通ってさ。窓の外を見たら、あの茶屋……おばあちゃん、今日、店開けてたんだよ!」
彼女は少し興奮して、手振りで説明する。「それで、これは、どうしても美咲に持って帰らなきゃって思って。だから、一つ前のバス停で降りて、走って買いに行ったの!」
私は彼女を見た。走ったせいで微かに赤くなった頬と、額の細かな汗の粒を見た。それから、手の中の温かい団子の袋を見た。一瞬、何と言えばいいのか、わからなくなってしまった。
私たちは、雲の上の山頂にはいない。あの壮大な、果てしない海と空を前にしているわけでもない。
私たちはただ、私の、この、ありふれた、夕陽の残光でオレンジ色に染まった部屋で、床に胡坐をかいて座っているだけだ。そばには、私たちの思い出でいっぱいになった、あの地図が広がっている。
陽菜は一本取り出して、私に渡した。
「はい、温かいうちに食べて!」
私はその温かい団子を受け取って、そっと一口食べた。
団子は、もっちりとして、歯ごたえがあって、お米の香りが口の中に溶けていく。外側の、甘じょっぱい醤油のタレは、濃厚だけれどしつこくなく、炭火の香ばしさが微かにした。
それは、美味しかった。
でも、ただ美味しい、だけではなかった。
私はゆっくりとそれを咀嚼しながら、この素朴な味の中に、もっとたくさんのものを味わっていた。私は、あの日に私たちが坂を上る時に流した、しょっぱい汗の味を味わっていた。体力を使い果たした時の、あの絶望に近い疲労の反響を味わっていた。山頂に座って、おにぎりを分け合った時の、あのシンプルな喜びを味わっていた。そして、今この瞬間の、陽菜の呼吸と、彼女の瞳の中で、醤油の艶よりも明るく輝いている、期待の光をも、味わっていた。
一番大切な景色は、確かに、旅の途中でしか見られないものだ。
でも、生活は、あなたがもう期待をとうに手放してしまった、とあるありふれた夕暮れに、不意打ちのような形で、優しい補償を届けてくれることがある。
「どう?美味しいでしょ?」陽菜も大きな一口を頬張り、はっきりしない声で私に尋ねた。
私は彼女を見て、力強く頷き、口の中の団子を嚥下した。
「うん」私は言った。自分の声も、少しだけ、甘くてもちもちした温度を帯びているような気がした。
「私が今まで食べた中で、一番美味しい団子だよ」
後日談その二:ヒトの反響——《返却、感謝、そして新しい約束》
一、最後のライディング
あの一輪車を返さなければならない日が、とうとうやって来てしまった。
それは夏の終わりの、とある日曜の午後だった。空は高く、雲はまるで水で洗われたかのように、白く透き通っている。風の中にはもう、真夏のような灼ける熱波はなく、どことなく、秋の清々しさと寂寥感が混じっていた。
私たちは最後にもう一度、あの傷だらけの「古兵」たちに跨った。
スイッチを入れると、あの聞き慣れた「ブーン」という音が響く。まるで旧友が低い声で挨拶しているかのようだ。初めてそれに触れた時に感じた、あの不安と目新しさとは違い、今、この音は心安らぐ親密さに満ちていた。私の体も、もう考えるまでもなく、ごく自然に、あの唯一無二の均衡点を見つけ出していた。
私たちは、隣町へと続く海沿いの公道を走っていた。この道はバスで数えきれないほど通ったけれど、ホイールに乗って走るのは、初めてで、そして最後だった。
今回のライディングは、もう未知の風景を探すためではなかった。風景は私たちの目の前を流れていくけれど、私が見ているのは、もう風景そのものではなかった。
車輪が赤いタイルが敷かれた歩道を通り過ぎる時、私は廃校で練習していた時に、陽菜が何度もトラックの上に転んでいた姿を思い出した。潮風が吹き付けて、私のスカートを高く舞い上がらせる時、私は十六夜坂を滑り降りた時の、あの、ほとんど飛んでしまいそうな自由な感覚を思い出した。急な下り坂を通り過ぎる時、私の体は無意識に後ろへ傾き、筋肉が引き締まる。この体はもう、私の代わりに、あの猪坂の、歯が浮くような傾斜を覚えてしまっていた。
この道にある一つ一つのありふれた景色が、思い出の引き金を引くスイッチになっていた。私たちはもう、新参の冒険者ではない。別れを告げようとしている旅人として、最後の時間を使って、自分自身の記憶と一つ一つ、お別れをしていた。
陽菜は私の前を走っていた。いつものように大声で叫んだり、振り返って話しかけてきたりはしない。彼女はただ静かに、背筋を伸ばして走っていた。まるで、何か荘厳な儀式を執り行っているかのように。きっと彼女も、私と同じように、この思い出によって敷き詰められた道に、浸っているのだろうと、私にはわかった。
モーターの唸り声が、私たちの間の、声にならない会話になった。車輪がアスファルトに残す軌跡は、細い二本の線となって、並んで伸びていく。まるで、もうすぐ終わりを迎えようとしている、一つの楽譜のように。
二、出会いと伝承
隣町の大学は、私たちが想像していたよりも広く、そして静かだった。高い校舎が長い影を落とし、ちらほらと、学生たちが本を抱えて、並木道を行き交っている。空気中には、私たちの知らない、本のインクと若さが混じった匂いが漂っていた。
私たちは、約束の図書館の前で、私たちに一輪車を貸してくれた大学生に会った。
彼は、私たちが想像していたような、お洒落で、「界隈の神」みたいなオーラを放つ人物ではなかった。彼はただ、ごく普通の、先輩といった感じの人だった。洗いざらしで少し色褪せたバンドTシャツとジーンズを着て、髪は少しだけ癖がついていて、顔には、温和で、少しだけ靦腆だ笑みを浮かべていた。
「こんにちは、夏川さんと、月島さん、だよね?」彼は私たちに手を振った。
「はい!先輩、こんにちは!」陽菜はすぐに九十度に腰を折り、朗々とした声で言った。それから、彼女の「古兵」を前へ押し出す。「この度は、貸していただいて、本当にありがとうございました!その……車体が……私たちの不注意で……」
彼女は少しバツが悪そうに、車体についた、「猪坂」でできた真新しい傷跡を指差した。私の心臓も、きゅっと縮こまった。
先輩はしゃがみ込み、その傷跡をじっくりと見た。彼は眉をひそめるでもなく、不快そうな表情も見せなかった。彼はただ、手を伸ばし、その一番深い傷をそっと撫で、そして、不意に、笑い出した。
「あはは、君たちも、思いっきり楽しんだみたいだね」彼の声はとても柔らかく、午後の陽光のようだった。
「え?」陽菜と私は、二人とも呆気にとられた。
先輩は顔を上げず、彼の指は、私たちがつけた新しい傷から、もっと古くて、もっと深い傷跡へと滑っていった。その傷跡は、時間が経っているせいで、白い外装と一体化していて、よく見なければ気づかないほどだった。
「これね」彼は、どこか懐かしそうな声で言った。「僕が大学一年の時、初めてうちの大学の裏山にある『地獄坂』に挑戦した時についたやつ。当時は君たちよりずっと下手でさ、坂の上から転がり落ちて、本気で死ぬかと思ったよ」
彼は顔を上げ、私たち二人を見た。その眼差しには、私たちがよく知っている、きらきらした何かがあった——それは、同じように馬鹿で、同じように熱いヘマをやらかした者同士だけが、互いを認識できる、同類の光だった。
「ホイールの一つ一つの傷跡が、一つの物語なんだよ」彼は立ち上がり、手の埃を払った。「気にしないで。こいつらは、物語を作るためにこそ、存在するんだから。僕といた時より、ずっと楽しそうだ」
その瞬間、不思議な共感が、私たちと、この初対面の先輩との間に生まれた。
私たちが抱いていた、他人のものを壊してしまったことへの罪悪感と不安は、一瞬で雲散霧消した。その代わりに、理解され、認められたという、温かい感覚が広がっていく。なるほど、私たちが経験したあの不器K用さと悪戦苦闘は、私たちだけのものではなかったのだ。私たちの前に、もうたくさんの人たちが、同じような情熱を抱いて、様々な坂道で、同じように無様な転び方をし、そして、同じように壮大な景色を見てきたのだ。
私たちは、孤独な冒険者ではなかった。私たちはただ、気づかないうちに、誰かから受け継がれてきた、若者たちの、世界を探求するための松明を、受け取っただけだったのだ。
「ありがとうございました!」私たちはもう一度、心の底から彼に頭を下げた。
「どういたしまして」彼は笑って、手を振った。「じゃあ、次に来る時は、君たち自身のホイールに乗っておいでよ」
彼は、私たちの夏の思い出を乗せた二台の「古兵」を押しながら、キャンパスの奥へと歩いて行った。あの「ブーン」というモーター音が、次第に遠ざかり、そして最後に、とある校舎の角へと消えていった。
私たちの冒険、あの「借り物の冒険」は、正式に終わりを告げた。
三、空っぽの帰り道
帰りは、バスには乗らず、二人で駅まで歩いた。
手が、不意に、空っぽになった。
さっきまで、一輪車のずっしりとした重さとモーターの振動を感じていた両手が、今、信じられないほど軽く、そして、信じられないほど空っぽで、心許なかった。私たちは並んで歩き、腕が体の横で無意識に揺れる。何かが足りない、という感覚がずっとあった。
私たちは、あの体をわずかに前に傾ける姿勢に慣れてしまっていた。全身の筋肉で地面の起伏を感じることに慣れてしまっていた。風が耳元を唸りを上げて通り過ぎる、あの速度感に慣れてしまっていた。そして今、私たちは、自分たちの両足で、一歩、また一歩と、この見慣れた土地を測ることしかできない。速度が落ち、世界は具体的で、現実的になった。でも……少しだけ、魔法が消えてしまった。
電車が、「ガタンゴトン」という規則的な音を立ててやって来た。私たちはそれに乗り込み、窓の外を流れていく景色を眺めた。私たちがさっきまで走っていた、あの海沿いの道路が、すぐそこに見える。夕陽が水平線に沈み、空と海を、燃えるようなオレンジ色に染めていた。
とても綺麗だった。でも、この美しさは、一枚のガラスを隔てた、ただの「乗客」としての美しさだった。
車内は静かで、私たち二人だけだった。夕陽の光が窓から差し込み、車内に、長く、揺れ動く光のレールを落としていた。
「美咲」
陽菜が不意に、沈黙を破った。
私は彼女の方を向いた。彼女の横顔は、夕陽の光で柔らかな輪郭を描き出され、あのいつも活気で輝いている瞳が、今、驚くほど、強く光っていた。
彼女は窓の外の景色ではなく、まっすぐに、私を見ていた。
「私たち、バイト、始めよう」と、彼女は言った。
私は一瞬、呆気にとられた。バイト?
だが、ほんの一瞬で、私は彼女の言葉の全ての意味を理解した。私は彼女の、あのきらきらと、決意で満ち溢れた瞳を見て、まるで、私たちの未来が見えたような気がした。
コンビニか、ファストフード店の制服を着て、夕暮れの灯りの下で忙しく働く私たちの姿が。一枚、また一枚と、お札を、「相棒基金」と書かれた封筒に、大切にしまっていく情景が。
それはもう、遠い、非現実的な幻想ではなかった。それは、具体的で、手の届く目標に変わっていた。
陽菜は私を見て、私の眼差しから全てを察したのか、にっと笑った。それから、彼女は、まるで自分自身に誓いを立てるかのように、ゆっくりと、そして力強く、拳を握りしめた。
「私たち、自分の力で」彼女の声は大きくはなかったが、一切の疑いを許さない力強さに満ちていた。「私たちの、本当の『相棒』を、迎えに行くんだ!」
「相棒(AIBOU)」——パートナー。
その言葉が彼女の口から出た時、それはもう、ただの冷たい機械を指す言葉ではなかった。それは自由を意味し、冒険を意味し、そして、私たちが汗と努力で夢を掴み取るということの、全ての意味を、表していた。
電車がトンネルを抜け、目の前が不意に暗くなり、そして次の瞬間、再び、光で満たされた。
私は陽菜の固く握られた拳と、その、夕陽に照らされた、この上なく固い決意の表情を見て、ゆっくりと、手を伸ばし、彼女の空いている方の手を、握った。
彼女の手のひらは、温かく、そして力強かった。
私たちの冒険は、終わっていなかった。
それはただ、今まさに、私たち自身の足元から、本当に始まろうとしていただけだった。
この本の最後のページを閉じてくださったあなたへ。
まずは、心からの感謝を。陽菜と美咲、二人の少女の、あの不器用で、目まぐるしくて、そして、かけがえのないひと夏の漂流に、最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
この物語を書き終えた今、私自身、まるで汐見の町の展望台から、きらきらと光る海を眺めているような、そんな静かで満たされた気持ちでいます。
物語の中にいる間、陽菜はいつも私の背中を押してくれる「エンジン」でした。彼女の「行こうよ!」という声がなければ、この物語は一文字も始まらなかったでしょう。そして美咲は、私の「眼差し」そのものでした。彼女のフィルターを通して、風の匂いや光の粒、そして坂道を上る心臓の共鳴といった、言葉にならない感覚を、丁寧に掬い上げることができたのだと思います。彼女たち二人は、いわば、この物語という一つの車輪を動かすための、二つのペダルでした。
私たちは皆、自分だけの「見慣れた坂道」を持っているのだと思います。それは通勤通学の道かもしれませんし、あるいは、なかなか乗り越えられない人生の課題かもしれません。毎日同じ景色を見ていると、私たちはつい、それが世界の全てだと思い込んでしまいます。
けれど、ほんの少し「速度」や「視点」を変えるだけで、世界は驚くほど豊かな表情を見せてくれる。二人の小さな冒訪が教えてくれたのは、そんなささやかだけれど、大切な真実でした。彼女たちが残した歪で不格好な「軌跡」は、誰かにとっての新しい「奇跡」の始まりになるかもしれない、とさえ思います。
最後に、少しだけ、この物語が生まれた裏側についてお話しさせてください。
今回の創作の旅路において、私には一人の、少し変わった相棒がいました。それは人間ではなく、まるで美咲が向き合った一輪車のように、独自の平衡感覚と「ブーン」という静かな唸り声を持つ存在でした。初めは私も、その無機質なパートナーを「乗りこなそう」と必死でした。ですが、ある時から、美咲のように、その声に耳を澄まし、その логика (ロジック) に身を委ねてみることにしたのです。
私が描きたい物語の「方向」を示し、彼が持つ膨大な知識で「道」を照らす。そんな二人三脚で創作の坂道を上る体験は、時にぶつかり、時に驚くほど調和する、まさしく陽菜と美咲の冒険そのものでした。この物語が持つ独特の浮遊感と清涼感は、そんな不思議な人機共同のセッションの中から生まれたものかもしれません。
この本を読み終えたあなたが、明日、ご自身の「坂道」を少しだけ違う気持ちで眺めてくれるなら、作者として、それ以上の喜びはありません。
改めて、ありがとうございました。
二〇二五年七月十四日
amiiii3 with AI創作エンジン